第三節

 母親が食事の準備を告げ、机の上へ鍋を置く。彼女はハフサの背を押して部屋の外へ出る用促すと、ハフサは残念そうに口を膨らませた。


「私もいっしょがいいな」

「だめですよ。私たちはあちらでね。さあ、良い子だから」


 諦めたらしいハフサは、フェデリコと少女に目を向けると小さく手を振って出ていった。

 少女はその背をじっと見送る。


「いっしょに、食べないの?」

「私は同じで構わないんだがな」


 呟くフェデリコの顔を少女が覗き込む。

 彼は少女を見やると、気にするなとだけ言った。結局、食卓に着いたのはフェデリコと少女の二人だけで、母親がボウルにスープを注いで二人の前に置いた。


アッラーのお恵みを」


 少女が頭上の彼女を見上げると、彼女は柔らかい笑みを残して去っていく。

 スープにはニンジンやタマネギ、大きな豆といった野菜の他、油脂、塩、種類のよくわからない香菜に、わずかだが何かの塩漬け肉も浮いていた。少女は獣のように鼻をひくつかせ、それらの臭いをうかがう。

 スープをペロリとひと舐めする。舌なめずりをして味を見た少女はそのまま顔をつっこもうとして、寸前でぴたりとその動きを止めた。

 フェデリコが食事に手を伸ばさず、手を組んで頭を垂れている。


「父よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事を――どうした?」


 視線を感じて彼は顔を上げた。少女は明らかにフェデリコの言葉を待っていたようで、彼の顔を見つめて首を傾げた。


「やったほうが、いい?」

「それは……そうか、何も覚えてないんだったな」


 フェデリコは、少し考えてから背を正した。


「どうせならば、彼らに敬意を払うのが良かろう。私の言葉を復唱すればいい」


 そうしておいてから、彼の口からは先ほど使った言語――アラビア語が朗々と唱えられる。


「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」

「じひ、あまねく……じひぶかき、あっらーのみなに、おいて……」


 フェデリコは暫し少女を見つめ、彼女が復唱し終えるのを待ってパンを手にする。固いパンだ。そのパンを強引に割って、片方を差し出した。


「さあ、食べようか」


 その笑顔で食事が始まった。

 フェデリコもよく食べたが、彼は少女の食欲が衰えないのを見て、最後には自分の食べかけのパンまで譲ってやった。少女はフェデリコに教えられるがまま、ボウルに残ったスープひとしずくまでパンに吸わせて平らげた。

 先ほどとはまた違った成句をアラビア語で済ませると、フェデリコは再び少女を外へと連れ出していく。


「うまかったろ。あの者の野菜スープは絶品だ」


 無感動に頷く少女。


「まったく、まるで何も感じてないみたいだな……」


 少年は呆れたような顔を見せつつ、思考を巡らせる。


「それか赤子に近いのか? 誰とも交流せずにおれば……そうだな、例えば一切話しかけずに育てるとか……いや、それだと言葉を解する点が説明できないか」


 ぶつぶつと独り言を続ける少年。

 彼の好奇心は尽きるところを知らないようだった。あらゆる全てに合理的な説明ができねば気が済まないといわんばかりで、あれやこれやと思考の翼を広げるのを、少女は黙って聞いているしかなかった。

 やがてハフサも食事を終えて合流すると、フェデリコはそれからも、辺りにあるものを指さしては何と呼ぶか尋ねたり、地面に文字を書いて読ませたりといった事を繰り返した。


 少女は様々な言語に受け答えできたし、物の名前も殆ど答えられたが、文字だけは違った。彼女はいかな文字であれ大意を掴めるにも関わらず、いざ何か書けと言われると何ひとつ書くことができなかったからだ。

 フェデリコは次から次に文字を書き写させようと試みたが、だがそれも陽が落ちるまでのことだった。


 茜色だった空に星が輝き始めると家に戻るより他なく、かまどの残り火が落ちると共に、彼らは皆寝床につく。

 二人の寝床は、馬小屋に隣接した納屋にあった。

 寝床は藁の山に亜麻布のシーツと薄手の毛布が用意されただけのものだったが、二人を案内したハフサが手際よくシーツを広げると、傍目にも中々立派なベッドが出来上がったように思えた。


「そうだフェデリコさま、明日は海へ行こうよ!」

「海へか?」

「うん! 泳げるか挑戦してみるの」


 ハフサは少女をすっかり妹扱いをしながらその手を取った。


「もし泳げるなら、この子きっと、海を渡ってきたんだわ!」

「なるほど、面白いな」


 フェデリコが感心した様子で頷く。


「じゃあ、約束ね。きっと。明日は海ね!」

「ああ、約束だ」


 ぴょんぴょんと跳ねるハフサに頷いて、フェデリコは微笑んだ。少女の方へと首を傾げると、にやりと笑って問い掛ける。


「おまえも、構わないか?」

「海へ、行く……?」

「そうだ」


 少女はしばらくぼうっとしていたが、やがてこくりと頷いた。


「やった!」


 ハフサは大喜びで少女に飛びつき、その腕ごと身体をぎゅうっと抱き締めると、やがてぱたぱたと駆け出した。


「おやすみなさあい! また明日!」


 母屋へ向かうハフサが振り返って手を振る。フェデリコが手を振り返すのを見て、少女も同じように手を振った。やがてハフサの姿が母屋へ吸い込まれて消えると、フェデリコはシーツ張りの藁のベッドに飛び込んだ。

 それを眺めて立ったままの少女へ、彼は手招きをしながらスペースを空ける。


「おまえも飛び込んでみろ! 気持ちがいいぞ!」

「……うん」


 少女は同じように地を蹴り、身体を広げてベッドに飛び込んだ。たっぷりと空気を含んだ藁ベッドの弾力に、身体がふんわりと包まれる。

 これが気持ちいいということなのだろうか――少女には何も解らなかった。ただ少年が言うならそうなのだろうとは思った。


「良いだろ。私はこのベッドが好きだ。彼らの心を感じる」

「こころ……?」

「そうだ。パレルモの館にあるベッドは柔らかいが、私は好かぬ」


 少年の目元に、ふと陰りが見えた。

 少女はそれに気付いただろうか。気付いたところで、理解できただろうか。

 けれども少女はそちらへ視線を向けると、じっとその顔を見つめた。


「どうして?」


 少女の問い掛けに、フェデリコは少し黙っていた。だがちらりと少女の方へ視線を返し、眼前の少女が赤子のようにぼんやりと自分を見つめているのを前に、どこか投げ遣りに口を開いた。


「私は名ばかりの王だ」


 彼はごろんと仰向けになり、誰に向けるでもなく話し続ける。


「みな、それでも私に親切に接してくれる」


 この家族のことだろうか。少女が黙っていると、少年が付け加えた。


「彼らだけじゃないぞ。パレルモでも、他の集落でもだ」


 少年は笑顔を浮かべる。

 だがそれでも、言わずにおれなかった。


「……私は無力だ」


 言葉は静かだったが、隠しきれぬ怒気が発せられていた。

 その怒りは、自らをほしいままにする敵よりも、その敵に屈している己自身に向けられているようだった。

 自分の運命が他人の手に渡ることだけは我慢ならない――瞳がそう語っていた。

 もちろん少女にはそんな事までは解らない。けれど、そう語るフェデリコの想いを何かしら感じていたのかもしれない。

 少女の手が、少年の頬にそっと触れた。


「なんだ?」


 語気を強めながら振り向くと、少女はふるふると首を小さく降る。


「フェデリコ、怒らないで」


 フェデリコは少し面食らった。

 だが少女の、幾らかでも自発的な言葉が嬉しかったのか、彼は努めて明るく振る舞った。


「そうだな、許せ」


 ふっと目元が優しくなる。


「もう寝よう。よく休むんだぞ、明日は海に行くんだからな!」

「うん……」


 少女は頷く。それから暫くして少年は眠りに落ちた。

 少女は目をぱちりと開いたままでいたが、少年が眠ったのを見て、として同じように瞳を閉じ、そうして、ゆっくりと意識を失った。




 ふいにフェデリコが目を覚ました。

 辺りは静まり返っていて、隣で眠る少女の微かな寝息の他は、藁の擦れる音だけ聞こえる。

 何度か寝返りをうったのか、少女の胸元がはだけて肌が覗いていた。フェデリコは毛布をかけ直してやろうと手を伸ばしながらも、ふと胸元に目を止める。


「……なんだ?」


 窓から注がれた月明かりが少女の胸元を照らしている。月明かりの下、少年は胸元をじっと見つめる。昼間ハフサが見つけた痕がそこにあった。ハフサはこれをただの痣だろうと言ったが、フェデリコからは文字のようにも思えた。

 もっとよく見たくて、なぞるように胸元へ触れた。


(エ……メ……ス……)


 聞きなれぬ音が意識に浮かび上がる。


(エメス……もしやそれが名か?)


 自然とそう思った。胸に刻まれていたのなら、妥当であるとも考えた。

 だがこんな文字は見たことがなかった。これを文字だと認識したことも妙だが、何よりその表音を理解できたことが不可解だった。


(なぜ解った。いったいどういうことだ?)


 自分がどうかしてしまったのか。それとも文字が、いや、このエメスという少女に何かがあるのか――胸元を覗き込んでいた視線を上げて、彼はぎょっとした。


「……」


 少女がいつの間にか目を覚まし、無言のまま少年を見つめていたからだ。

 月に照らされたその表情は、これまでに少女が見せてきた表情とまるで違って見える。それを何と表現すればよいのか、フェデリコにも解らなかった。

 だが彼は確かに見たのだ。少女の瞳の奥、無垢と表裏一体の虚無を。

 エメス――無意識のうちに、その名が再び浮かんだ。


「おまえは……」


 フェデリコが口を開いた。

 口を開き、名を紡ごうとし、そうして、馬の嘶きにそれをやめた。


「なんだ?」


 うごめく気配に、空気が張り詰められる。


「どうしたの」

「しっ」


 問い掛ける少女を手で制し、フェデリコは耳をすませた。金属同士のこすれる音に、馬が動き回る気配。それが意味するところを察して、彼は息をのんだ。

 ぱっと飛び上がった彼が、傍らに置かれていた自分の荷物にとりつき、巻かれていた布を取り払って何かを取り出した。

 剣だ。

 月明りに照らされて、それは鈍い光沢を放った。

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