第二節
なだらかな斜面を、一歩一歩上っていく。
フェデリコは
「その恰好はひどすぎる。それを被っておけ」
先を行くフェデリコに少女が続く。二人の歩く獣道はやがて人が踏み固めた道に変わり、乱雑に生い茂るばかりだった木々にも、人手による一種の秩序が現れる。
峠の稜線が見える。進むごとにその向こうの景色が広がっていく。
「早くしろ、置いていくぞ」
フェデリコが足を止めた。峠を越えたその先だ。少女は促されるままにその後を追い、その眩しさに目を細めた。
きらめく光が視界いっぱいに広がった。
海だ。太陽の光を浴びて、海が輝いていた。
その水平線を辿った先に、大きな街が見える。街には太陽に焼けたような赤茶色の屋根瓦が連なり、輝く海原を背に、街は光に包まれていた。
ぽかんと街を眺める少女。少女が街に見とれていることに、少年は顔をほころばせた。
「パレルモだ。美しいだろ。世界で一番美しい街だ」
「……うん」
少年は暫く共に街を眺め、十分に堪能した頃合いを見計らって向き直った。
「パレルモもそのうち連れて行ってやる。だがひとまず、今日は向こうだ」
少年がパレルモとは反対側を指さす。そちらには小さな集落があって、二人が歩く小道もそちらへと続いていた。
「行くぞ。遅れるなよ」
フェデリコが不意に駆け出す。少女も釣られて地を蹴り、潮風をいっぱいに浴びる。遠くさざ波の音に、砂利を蹴って走る二人の足音が紛れていった。
ややして、二人が去った峠から一人の男が姿を現した。
男はローブを身にまとっているが、裾から覗く手足は具足で覆われている。彼はそうして二人が向かった集落の様子を眺めていたが、振り返って何事かを囁き合うと、背を向けて来た道を戻っていった。
集落までそう時間は掛からなかった。
ゆるやかな斜面を下って二人が集落に近付くと、飼い葉を運んでいた人影が駆け寄ってきた。豊かな髭を蓄え、頭にターバンを巻いた男性だった。
「お帰りなさいませ、陛下」
男は丁寧な態度でフェデリコを出迎え、フェデリコもまたそう出迎えられるのを自然と受け入れている。ただ彼は、フェデリコが連れてきた見慣れぬ少女が気になるのか、そちらに視線が向いていた。
フェデリコは少し悪戯っぽく笑い、背後の少女の手を取った。
「こやつか? さっき拾ったのだ」
「そんな、犬猫みたいにおっしゃらないでください」
彼は少し慌てたが、当の少女本人はまるで気にする様子もなく、フェデリコと男をぼんやりと見比べている。男が怪訝そうに眉を持ち上げたあたりで、フェデリコが口を挟んだ、
「ずっとこの調子なんだ。すまないが、何か食べさせてやってくれないか。私の食事を減らして構わないから」
「とんでもありません、ちゃんと二人分ご用意しますよ」
男はそう言って、少女の姿をいぶかしげに見やる。
「とにかくこの格好はどうにか致しましょう。ハフサ! ちょっと来なさい!」
彼が納屋へ歩きながら大声で呼ばわると、納屋の中から二人と同い年くらいの少女が顔を出した。彼は娘であろうそのハフサと呼んだ少女に近寄ると、フェデリコらの方をちらりと見ながら、泥雑巾のような来客を洗うように言って母屋へと向かった。
はあいと返事をしたハフサがぱたぱたと駆けてきて、ぱっと顔を明るくする。
「フェデリコさま!」
ぶんぶんと手を振る少女に、フェデリコも微笑んで手をあげる。
ハフサは、彼が連れてきた名前のない少女の前で足を止めて、そのくりっとした瞳で髪の合間を覗き込む。
『こんにちは! お名前は?』
先ほどまでフェデリコたちが話していた言葉とは違う、少し喉にかかった言葉。じっと見返す少女の隣で、フェデリコが首を振る。
『無駄だぞハフサ。この子は……』
彼はハフサと同じ言語を使い、少女に代わって答えようとした。
その時だった、ハフサをじっと見返していた少女はおもむろに口を開いた。
『名前、しらない』
淡々と答える少女に、ハフサが首を傾げる。
『自分の名前を知らないなんて、変わった子ね。ねえ、フェデリコさまは……』
『待てハフサ』
フェデリコに話を振ろうとしてハフサが振り返ると、フェデリコは驚いた様子で少女の顔を覗き込んでいた。何事だろうかとハフサが言葉を掛けられずにいると、フェデリコが少女に問い掛ける。
『おまえ、アラビア語が解るのか?』
『アラビア、語……?』
『今、私たちが話している言葉だ。解るか?』
重ねて問われた少女が、こくりと頷く。
けれど隣のハフサにとっては、少女は最初からアラビア語を喋っていたのだから、何がおかしいのか解らない。
『ねえ、フェデリコさま。どうしたの? なにが変なの?』
『ちょっと待て。いや、もしかすると……』
フェデリコは顎に手をやり、ややしてから再び口を開いた。
『ならば、これは解るか?』
イタリア語ともアラビア語とも違う巻き舌が強めの言葉に、少女が反応する。彼女はフェデリコを見やるとこくりと頷いた。
わかると答える少女に驚きながらも、フェデリコもまた次々と言葉を切り替えながら同じように問い掛ける。少女はその全てに曖昧に頷きながら、フェデリコが発したのと同じ言語で受け答えしてみせた。
最初は首を傾げていたハフサも、やがてはフェデリコに説明してもらうまでもなく、彼が何を驚いていたのかを理解した。
「すごいのねこの子」
「いや、私もまさかこんな事とは……」
最終的に、少女はフェデリコが投げ掛けた六言語全てによどみなく答えた。
だが少女はあらゆる言語を解するにもかかわらず、ただ少年が使った言語に応じて、まるで機械仕掛けのように言葉が切り替わっているだけで、自分が何語を喋っているのかも分かっていないように思われた。
現にアラビア語のことを話題にあげた時も、少女は言葉は理解していたが、アラビア語とは何か解らない様子で首を傾げていたからだ。
「教会の者か? いや違うな、こんな格好でそれは――」
顎に手をやり、ぶつぶつと独り言を始めるフェデリコの袖を、誰かが引いた。
見やるとハフサが荒布を手に、遠慮がちに見上げている。
「ねえフェデリコさま、それは洗いながらにしない……?」
三人は集落のはずれを流れる小川へと移動した。
着替えが無いと聞かされたハフサは、母屋から自分の服を取ってきて、近くの大きな岩に積んだ。
フェデリコは足袋のような靴を脱いで裸足になり、気持ちよさそうに小川に足をさらした。それをじっと見ていた少女も、ハフサに川に入るよう促されてそっと川へ足を差し入れた。
親指をちょんとつけてから、とぷんと小川へ沈めていく。川面が足首まで達した時、少女はぶるると身を震わせた。
「つめたい……」
「そりゃ川だからな」
フェデリコがくっくと喉を鳴らす。
ハフサも川にざぶざぶと分け入って、少女に振り返る。
「はい、ローブ脱いで!」
もぞもぞとまごつく少女に手を貸して、ハフサはローブをぐっと引っ張った。
そうしてローブを脱がせたハフサが目を丸くする。
「ひどい恰好。ほとんど裸じゃない」
ハフサはローブを抱えると岩場の上に広げて整える。
だが一方の少女はまったく裸のまま、小川の流れを見つめながらただ突っ立っていた。振り返ったハフサは、何もせずぽかんと立ったままの少女を見て呆れたように言う。
「何してるの?」
「なに、って……?」
「身体洗わなきゃ。ほらもう、それ貸して」
半ば奪い返すようにして少女の手から粗布を取り上げたハフサは、少女を小さな岩に座らせた。手桶で川の水を汲み、頭のてっぺんから盛大にぶちまけた。熱射に照らされていた身体が一気に冷やされる。
「……?」
少女はさすがにびっくりしたのか目をぱちくりさせる。
手桶を手に少女を見やるハフサ。ところがその目の前で、突然に少女が身震いした。まるで犬のように頭から首から全身を回転させ、あらん限りに水を払う。
「きゃ!」
水しぶきが日差しにきらめき、ハフサははしゃぎながら逃げ惑った。
フェデリコがおかしそうに首を傾げる。
「気を付けろよ、そいつ、時々狼みたいなことするからな!」
「先に言ってよ!」
ハフサが水しぶきを受けながら少女へと取り付く。
「もう、おとなしくしてなきゃだめ!」
「水、かかったから」
「あたりまえじゃないの!」
粗布を振り回すハフサにフェデリコは肩を揺らし、中天の太陽を見上げた。
「あはは! 私も手伝おうか!」
「女の子なのよ! フェデリコさまはだめ!」
騒ぐハフサに、少女が首を傾げる。
「どうしてだめなの」
「あなたは女の子でしょ。フェデリコさまは男の子だもの」
「違うよ、フェデリコは――」
何か言い掛けた少女の頭から、ハフサがまた水を掛けた。
「ほらもー、今度は背中向けてよ!」
少女がきょとんとして、また身を振るう。
「だから大人しくしなきゃだめだってば!」
ハフサはけらけらと笑い、少女の肩をぎゅっと抑え込んで岩に座らせながら、手桶の水をふり掛けた。今度は少女も身震いせず、されるがまま大人しくなる。少女の肌をこすると粗布は泥と垢でまっ黒になり、ハフサはその度に川ですすいだ。
こうなってくるとそれらしく収まってくるのが子供同士だった。
年のころもそう変わらない筈が、ハフサはすっかりお姉さんのつもりだ。
「名前も、どこから来たのかも解らないなんて大変ね」
「私が焼いてた魚の匂いに釣られてきたんだ」
「フェデリコさまの友達じゃないの?」
ハフサがそう問うと、フェデリコより先に少女が首を振る。
「ううん、ちがう」
「たくさん友達がいるから、てっきりあなたもそうかと思っちゃった」
ハフサはふうんと口をとがらせる。
そのやりとりに、背を向けたフェデリコが手を振った。
「私はもう、友達のつもりだぞ」
「ほら。フェデリコさまもああ言ってるわよ」
「ともだち……」
その言葉を繰り返して、少女はフェデリコとハフサを見やる。
ハフサは両腕を大きく広げて、少女に笑い掛けた。
「このへんではね、同い年くらいの子たちはみいんなフェデリコさまの友達なの。私もそうよ。女の子でも気にしないんだから」
「色んな奴と遊んだほうが楽しいだけだ」
「そうよね。私もそう思う!」
ハフサが粗布を絞る。
「ほら、腕あげて」
脇の下をごしごしとこすられて、少女はくすぐったそうに身をよじった。
ふいに、ハフサが手を止めた。
少女の胸元にアザのようなものがある。汚れかと思ったハフサが強くこするが、それが落ちる様子は無かった。
「なあにこれ?」
「……わからない」
二人の様子が気になったのだろうか、フェデリコが身体を傾け、様子を伺ってくる。
「何かあったのか?」
「こーら、フェデリコさま! まじまじ見ないの!」
ハフサが間に立って手を振る。
フェデリコはおっとと首をすくめて顔を逸らす。
「何かの痣ね、きっと」
「う、ん……?」
小さく首を振る少女に、ハフサもそれ以上追及はしなかった。
身体中にこびりついていた汚れはこそぎ落とすだけでも一苦労で、全身を洗い終えたころには、陽も幾らか傾き始めていた。服を着た少女がどうにか見られる格好になったことで、ハフサはようやく一息つく。
ところが数歩下がって全身を眺めると、それでも気に入らないところが出てくるらしく、ハフサは少女の手を取り、家へと戻っていく。
家に足を踏み入れる前から、辺りには野菜の煮えたスープのにおいが漂っていた。机の上にはどっさりとパンが積まれ、スープが十分に煮えるのを待ちわびていた。
「お母さーん! 紐ちょうだい!」
ハフサが駆け寄っていく。先ほどの男の妻だろうか、食事の準備をしていた優しげな女性が顔を上げた。
突き出された少女の様を見て、母親は娘の目的を察したらしく、棚の一角からくず紐の入った箱を出す。中を漁るハフサは、やがてぴたりと目をとめると、程よい長さの赤い革紐を摘まみ上げた。
「これにしよ。ほら、あなたも座って!」
椅子に座らせた少女の後ろで髪を手際よく整えていく。その細い指が少女の髪を梳き、器用に革紐を結び閉じた。
フェデリコが隣から顔を覗き込んでハフサに頷く。
「いいな。上手なものだ」
「そうでしょう」
褒められたのが嬉しいのか、ハフサは自慢げに頬を綻ばせた。
ふり乱されていた髪はひと房にまとめられ、少女ははじめて視界が明るくなったように感じた。
彼女は小さくうつむく。
何か言いたいような気がした。なのに、何を言えばいいのか解らなかった。
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