紅緋の帝記

御神楽

紅緋の帝記

序章 時のまどろみ -Primitivum-

第一節

 いつから、そうして歩いていただろう。

 ぼろを身にまとった少女が、おぼつかぬ足取りで獣道を進んでいた。

 目元は伸び放題の真黒な髪に隠れており、砂埃と垢にまみれてさまよう様は、傍目には人の姿をした獣のようだった。

 そこは緩やかな斜面に広がる森の中腹で、頭上を覆う樹葉の合間からは日差しがちらついている。

 風が吹いた。揺らぐ木立に、燃え盛る炎と悲鳴が重なったような気がして、少女はぼんやりと振り向く。


 そこに炎はなかった。

 木々は変わらず佇んでいて、ただ風に揺らいでいる。

 ざわめく葉音に川のせせらぎが混じっているのを耳にしながら、少女はそのまま歩き始めた。

 ぱちりと小枝の弾ける音がした。

 少女の鼻孔を香ばしい匂いがくすぐる。その鼻を獣のようにひくひくと動かし、少女は匂いの元を辿った。

 枝葉を掻き分けた先で、ふいに強烈な日差しが降りそそいでくる。

 木々の途切れには小川が流れていて、小枝に突き刺された川魚が焚火に炙られていた。


 砂利を蹴り、少女が駆け寄った。

 そのまましゃがみ込んで川魚に手を伸ばし、手掴みでむしゃぶりつく。

 魚はまだしっかりと火が通っておらず、少女がかじる度ににごった汁をしたたらせるが、少女はそんなことはお構いなしとばかり、身はおろか腑から骨から全くたいらげた。

 小枝までひとしきりしゃぶりつくし、少女は舌なめずりをしながら、迷うことなく二匹目に手を伸ばす。


「おい、貴様!」


 空気を震わせる、鋭い声に手を止めた。

 少女が振り向くと、同じ年頃の子供が立っていた。

 少年、だろうか。燃えるような赤毛は陽に照らされ、乳のように白い肌には水が滴っている。その子供は肌着シュミーズの裾をふとももまで引き下げていて、心なしか頬を朱に染めていた。

 手ごろな棒きれを振るい、その切先を少女へと向ける。


「そこで何をしている!」


 再度の鋭い声にも、少女はぼんやりとした眼差しを返すだけだった。答えを待つその子供からぷいと視線をそらすと、何事も無かったように再び魚へと手を伸ばす。


「何をしているのかと聞いている!」


 少年がかっと毛を逆立て、川に水しぶきをあげて駆け出した。

 少女はなおも魚を喰らっていたが、大きく振り上げられた棒が空を切った瞬間、獣のように跳ね上がった。

 振り下ろされた棒は虚しく砂利を叩き、少女は少し離れた岩に着地する。

 少女の口には生焼けの魚がくわえられたままで、彼女は四つん這いになって、ぎらりと少年を睨み返す。


「なにっ!?」


 振り返り、棒きれを構えなおす少年。

 少女は全身をしならせ、岩を蹴って飛び掛かる。

 咄嗟に打ち払おうとするが少年だったが、その時にはもう、人並外れた俊敏な動きが小さな身体を弾き飛ばしていた。

 その棒きれが地に転がり、少女の口からは噛み切られた魚が散らばる。

 どんと砂利に叩き付けられる。

 丸みを帯びた肩や腕が肌着からこぼれる。彼はのしかかる少女を押しのけようとするが、少女は無言のまま少年の肩を押さえつける。ぐいと力が込められるたびに肩が砂にめり込み、身動きが取れなくなっていく。


「貴様……どこの手の者だ! 何を見たッ!」


 のしかかる少女を見上げて、少年はぎょっとした。

 少女の髪の合間から覗く黒い虹彩は金色の環に縁どられており、あやしげな輝きを浮かべていた。


「貴様はいったい……」


 それでも少年は、その闘志を萎えさせることなく少女の顔を睨みつける。

 少女はじいっと少年を見つめ返していたが、ふいにその瞳からあやしげな輝きを失せさせて、辺りをきょろきょろと見回した。

 少年の身体がふいに軽くなる。少女は彼の身体から離れ、先ほど転がった棒の方へと身を翻していた。

 武器を取られる――焦った少年が後を追おうとする。

 だが当の少女は先ほどの棒きれには目もくれず、砂まみれになった魚に飛びつき、おざなりに砂を払っただけで魚にかぶりついた。ゆっくりと身体を起こした少年は、さっと肌着を整えて肌を隠すと、怪訝な表情を浮かべながら棒を拾い上げる。

 びゅんと棒を振るっても、少女は背を向けたまま魚に夢中だ。


「……おい」


 こつんと頭を小突く。少女が眼をぱちくりとさせながら振り向く。

 少年が片眉を持ち上げて顔を覗き込むと、少女はどこかしら警戒の眼差しを向けて魚をさっと抱え隠す。

 その瞬間、地鳴りのような音が少女の腹から響き渡った。

 少女は自分で自分の腹を覗き込み、ややして静まり返った辺りに、遠慮がちに川のせせらぎが帰ってくる。


「ふ、ふふ……あははははは!」


 少年は思わず、肩を揺らして笑った。


「……?」


 きょとんと首を傾げる少女に、少年は鷹揚に手を振る。そうしてひとしきり笑い声をあげると、焚火の傍らに腰かけた。


「おまえも座れ」


 少年が隣の石を叩く。少女はぱたぱたと歩み寄ってきて、すとんと腰を下ろすと、両手に握りしめた魚の欠片を未練がましくぺろぺろと舐め始める。

 子供とも獣ともつかぬ少女の様子に、少年は頬杖をついて目を細める。


「まったく、こんなのが刺客な訳がないな」


 少年は手にしていた棒きれで焚火をかき回す。


「おまえ、いったい何者だ。名はなんという?」


 少年の問いかけに、少女は首を傾げて返す。

 その様子に、少年も思わずつられて首を傾げた。


「おまえの名前だ。もしや言葉がわからんか?」


 少女は少し口元をもごつかせたが、ややしてゆっくりと口を開いた。


「……わかる」


 少女の口から自らと同じイタリア語が聞こえてきて、少年は口を曲げた。


「なんだ、ならば返事くらいしろ」

「名前、しらない」


 少女が何でもないように告げて、少年は眉を持ち上げた。


「いったいどこから来たんだ?」

「……ん」


 少女は辺りをきょろきょろと見回すと、この川辺へ入ってきた森の方角を指さす。自分がどこから来たのかも解らないようでは、出身や生活地などは解りそうもなかった。

 少年は半ば呆れた様子で少女をまじまじと見つめる。

 常識的に考えれば、名前も土地もわからないというのはいかにも奇妙だ。だが少女の風体を前にすれば、なんとなく納得もいった。

 少女の濃い肌は泥と垢で真黒になっており、長くぼさぼさの黒髪と相まってまるで本物の獣のようだった。けれど何より特徴的なのは、その髪の合間から覗く金環でふちどられた瞳だ。

 その瞳をじっと覗き込んで、少年は笑みをこぼす。


「まるで狼だな」


 少女がその言葉を確かめるように反芻する。


「おおかみ……」

「うん、狼だ。狼はいいぞ、強くて賢い。狼はわかるか?」


 少女は少しぼんやりした後で、こくりと小さく頷いた。


「おおかみ、すき」

「あはは。狼に育てられでもしたのかもな!」


 明るい笑顔で少女に笑い掛けると、少年は改めて彼女の全身を眺めた。


「しかしひどい格好だな」


 かつて貫頭衣だったらしいぼろ布は殆どその身を隠せておらず、今や全く衣類としての用をなしていない。靴は当然のようにはいておらず、足の裏には泥がこびりついている。

 散々獣のようだと感じてきたが、これでは野生動物でももう少し小ぎれいだ。

 野生動物のような、自分が何者かもわからない少女。それは少年の好奇心をいたく刺激したのかもしれなかった。


「面白いな」


 少年の瞳が、好奇心に満ちていく。


「おまえ、行く当てはあるか」

「……わからない」

「だろうな……近くに村がある。一緒に来ないか」


 予想通りの反応に少年は立ちあがったが、反応の薄い少女を前にして、川下のほうへ首をもたげてみせる。


「腹は減ってないか。どうせ、まだ食い足りないだろ」

「……たべる!」


 少女はがばりと顔を上げると、幾度となく頷く。


「ならば決まりだ」


 少年はおかしそうに笑い、ふと思い出したように少女に手を差し出した。


「ロゲリウス・フレデリクスだ。フェデリコと呼んでくれ」


 立ち上がるその背が、すらりと伸びる。

 自然体の健やかさの中にも気高さを感じさせる立ち振る舞い。

 細く伸びた指、開かれた掌は小さな子供のものでも、なぜかそこに、無限の広がりを感じさせる。細められた瞳の蒼の深さに、少女はじっとフェデリコを見つめかえす。


「フェデ……リコ……」


 自らの唇にその名を繰り返す。

 少女の心の奥、それは、ゆっくりと胎動を始めた。

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