第五話(2/2) 人間ある世界が
数歩ののち、
「こちらが姫の部屋になります」
槌ノ子乃文は部屋の扉を手で指した。鬼怒川晃は扉を下から上へ、目でなぞった。
「大きいですね」
「大きいのです。そして、部屋は広いのです」
「広いんですか」
「広いんです」
「広いんですか…」
鬼怒川晃は扉を見つめていた。
何度も云うが、この扉は大きかった。城の入り口よりは小さいが、それとは土俵が違った。あちらが一城の入り口であるに対し、こちらは姫の部屋という一室の入り口であった。
大きさというのも一つ、表現の手段であった。城に姫が、夢ノ国の夢ノ国である根拠が、居るのだ。
槌ノ子乃文は鬼怒川晃に微笑み掛けた。
「そう緊張なさることはありませんよ?」
「そうですか?」
鬼怒川晃は槌ノ子乃文に顔を向けた。硬い笑顔であった。槌ノ子乃文は頷いた。
「そうです。ヒーさまがお客さまであることや、御足労をお願いしたのが姫だということもありますが、何より、姫はヒーさまを好いております。ヒーさまが何をなさっても、姫は肯定的に捉えるでしょう」
「そうですか」
鬼怒川晃は表情を隠すように前を向いた。心にむず痒さを覚えていた。顔が緩んだ。
一般的に、好意を抱かれることは好ましい事なはずである。行う活動が肯定され、抱えてきた根拠を大切なものと捉えられ、活動する期間の途絶えぬことを望まれる。きっと素敵な事である。
ところが、鬼怒川晃の表情は不意に強張った。それから、冷めたように落ち着いた。鬼怒川晃は「好き」という単語の意味を理解しきれていなかった。
槌ノ子乃文は鬼怒川晃のすぐ隣で様子を見ていた。しかし、鬼怒川晃が何を思い出し、何を思ったのか、わからなかった。意思が変化した根拠を掴めなかった。
それでも、鬼怒川晃が落ち着いたことに変わりはなかった。槌ノ子乃文は扉を軽く叩いた。
「どうぞ」
姫の返事が聞こえた。槌ノ子乃文は扉を開け、鬼怒川晃に入室を促した。鬼怒川晃は何も疑わずに足を踏み入れた。
鬼怒川晃が異変に気付いたのは、すっかり部屋に入ってからであった。振り向くと、槌ノ子乃文は扉を閉め始めていた。静かに、丁寧に、閉じるように。
鬼怒川晃は小さく声を上げた。
「え。槌ノ子さん、来てくれないんですか?」
扉が閉まった。鬼怒川晃は顔を前に向けた。
姫の部屋は確かに広かった。鬼怒川晃には奥の壁が遠く感じた。天井と床は互いにかなり離れていた。左手には大きい窓や小さい窓が綺麗に整列していた。右手には、…右手はただただ壁であった。部屋の中央には長机が居た。その長机を挟むように、奥と手前にソファーが一脚ずつ座していた。
姫は立ち上がっていた。奥側のソファー、その隣に居た。
「ようこそお出でくださいました。ささ、どうぞこちらへ」
姫に促され、鬼怒川晃は歩を進めた。姫と向き合う位置で止まった。鬼怒川晃は改めて緊張していた。表情も動きも硬かった。
対し、姫は嬉しそうに笑んでいた。
「はじめまして。私が夢ノ国の姫です。今回はお忙しい中お越しいただき、ありがとうございます」
「こちらこそお招きいただき、ありがとうございます」
鬼怒川晃は姫に御辞儀した。すると、姫は慌てだした。
「いえいえ、いえいえ。ヒーさまが畏まる所以はございません。私、そこまで立派な存在ではございません。ヒーさまがそうなさると、私はどうしたらよいのか…」
鬼怒川晃はいくらか拍子抜けした。姫というものは、もっとお高い存在だと思っていた。少なくとも、こちらの一礼を受け、ワタワタし始める姿は想像していなかった。
姫はまごつく中、鬼怒川晃を立たせたままであることに気付いた。
「あ。どうぞお掛けください。私、ヒーさまにお尋ねしたい事があるのです。
…そうでした。私、ヒーさまにお尋ねしたい事があるのです!」
姫は真剣に爛々とした。
鬼怒川晃は微笑んだ。表情は十分に緩くなっていた。緊張はほとんど残っていなかった。
「それでは、失礼します」
鬼怒川晃は手前のソファーに腰を下ろした。姫も奥のソファーに座った。
鬼怒川晃は改めて姫を見た。
まず「子どもっぽいな」とは思っていた。無邪気で、屈託なさげで、素直。
鬼怒川晃の想像していた『姫』がどんな姿であったかは知らない。ただ、なんであれ。目の前に居る姫は、鬼怒川晃が思っていたより接しやすい存在であった。
第一印象を過ぎ、今、鬼怒川晃が姫に抱えているものは違和感であった。
もちろん、鬼怒川晃は常に違和感の中に居た。夢ノ国の様子は現実とどこか同じで、どこか違う。現実で許されない事も夢ノ国でなら許される気がした。現実で許せない事も夢ノ国でなら許せる気がしていた。かと云い、そんな事ばかりでもなかった。
夢ノ国に居る以上、鬼怒川晃の周囲は違和感だらけであった。
つまり、そういう話ではなかった。鬼怒川晃は姫に見覚えがあったのだ。
物語のプリンセスが着ていたような服装、それではない。小さいながらに畏まる姿勢、それでもない。常に嬉しさがキラキラと零れていく動作、それでもない。どれでもなかった。もっと単純な、顔貌や雰囲気であろうか。
とかく、鬼怒川晃には、姫と依然会ったことがある、そんな気がしていた。
しかし、深く考えなかった。鬼怒川晃は相手の識別が得意でなかった。
鬼怒川晃は人間の顔をあまり見なかった。顔の動きから読める印象は、相手の感情を量る際、排すべき情報と見なしていた。
道行く人間を漂流物と捉えていた。専有範囲や進行速度にだけ注意していた。人間と話している時も、基本、鬼怒川晃は相手から視線を逸らすようにしていた。考えている振りをしていれば、それでよかった。相手の方へ向くことがあっても、その時は全身を眺めるようにしていた。
ゆえに、鬼怒川晃は顔貌で相手を識別できなかった。
鬼怒川晃は他人に興味がなかった。人間を一概に『人間』と捉えていた。
優しい人間が居たとしても、『人間』である以上、優しくない一面があると弁えていた。そのため、優しくなくなる一線が見えすらしない場所を通った。面白い人間が居たとしても、『人間』である以上、自分には興味を持てない一面があると弁えていた。そのため、人間には深く触れないように過ごしてきた。
したがって、鬼怒川晃は一面と一面の具体的な境界を知らなかった。相手の個性を感じる範囲までは近づかなかった。ゆえに、鬼怒川晃は雰囲気でも相手を識別できなかった。
今さら、鬼怒川晃の感じる見覚えなど、高が知れていた。
何より、姫が「はじめまして」と言ったのだ。さらば、依然に会ったことがあっても、初めて会ったことにしてよいだろう。そうしたほうがよいだろう。
鬼怒川晃は深く考えないことにした。
姫は心を踊躍させていた。
「では、ヒーさま。早速なのですが、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい。私に答えられることであれば」
鬼怒川晃は頷いた。姫はにこにこしていた。
「ヒーさま。現実はいかがですか?」
「現実…」
鬼怒川晃は固まった。姫は慌てて言葉を足した。
「あ。『現実』というのは『夢ノ国の外部』ということです。言い回しが古くてすみません。最近だとなんて表現するのが適切でしょうか。現? 日々? 世界と言ってしまってもよろしいのでしょうか…」
「いえ。伝わりましたよ」
鬼怒川晃は笑んで見せた。そして、一つ目の質問に取り掛かった。
「そうですね…。現実は楽しいですよ?」
そこで鬼怒川晃は再び固まってしまった。大した事は言えなかった。具体例が出なかった。具体的な事には、思い付く限り、楽しくない一面が付随していた。
それでも、姫は鬼怒川晃の答えに満足していた。
「そうですか。それは素晴らしい事です」
姫は次の質問へ移った。
「では、人間はどうですか? 例えば、人間さま方をどう思っていますか? 人間…。最近の表現だと、…人間?」
「大丈夫です。伝わりました」
鬼怒川晃は微笑んで見せた。ところが、質問に答えようとし、表情が陰った。答えが練れなかった。
鬼怒川晃は人間について考え始め、ある記憶に行き着いた。あの放課後の光景。蠢く人形。七色の人形。濁りゆく人形。…人形。
「ヒーさま?」
姫は鬼怒川晃の顔を覗き込んだ。鬼怒川晃はポツリと答えた。
「人間には、…特別どうも思いません」
鬼怒川晃は窓の方へ顔を逸らした。姫は意識的に声を大きくした。
「そうですか。そうですよね。何に対しても感想を抱いていては、なかなか前へ進めませんものね。にも拘らずお答えいただき、ありがとうございます」
姫は三つ目の質問を取り出した。
「では、わた…。夢ノ国はどうですか? あるいは、従業員をどう思いましたか?」
この問いになら、鬼怒川晃も答えられた。
「夢ノ国は居心地のよい場所だと思います。従業員の皆さんもいい人たちですし。…いい『人』?」
鬼怒川晃はおもむろに姫を見た。姫は首を傾げた。
「どうされましたか?」
「姫さま。私からも質問、よろしいでしょうか」
「はい。なんなりと。
あ。あと、私に『さま』を付ける必要はありませんよ?」
「では、姫さん」
鬼怒川晃は抱えてきた疑問を口にした。
「従業員の皆さんは人間ですか?」
姫は笑顔で応じた。
「それは大切な事ですか?」
姫は跳ねるように立ち上がった。そして、とことこと窓に歩み寄った。
「夢ノ国は『万物が休眠により至る場所』です」
「…はい」
「本来、テーマパークではなかったのです」
「はい。もともとお城や門はなかった、と聞きました」
それは槌ノ子乃文から聞いた事であった。ただ、鬼怒川晃は門を見たことがなかった。話に聞いただけであった。
対し、姫は窓の外を眺めていた。遠く、視線の先には、件の門が居た。姫は門を見つめたまま尋ねた。
「ヒーさまは従業員の業務内容をご存じでしたでしょうか。どなたからかお聞きになりましたか?」
「いえ。知らないです」
「そうですか。そうでしたね」
姫は小さな右手で門を覆い隠した。
「従業員さんの活動は直接作用しませんゆえ、余所からご覧になるだけではわかりえなかったでしょう。実際、突っ立っているだけでしたからね。従業員よりお伝えしなければ、知りようがなかったはずです。
ススムさんが怒るのも当然です。従業員の皆さんも同じように思っていたことでしょう。意味のない事をさせてしまいました」
待ちきれず、鬼怒川晃は姫に声を掛けた。
「あの。それで、従業員さんの業務って…」
「人間の観察です」
姫はサッと右手を離した。そこから門は消えていた。場所を移したのでなく、この時、夢ノ国から門はなくなったのだ。
かと云って、何が変わることもなかった。元より、門はただの飾りであった。夢ノ国が人間の云うテーマパークを模す際、とりあえず作った部位であった。
聞くに、人間は門から入園するらしい。帰りは門から出て行くらしい。それはあくまでテーマパークの話。ここは夢ノ国。
姫はくるりと振り返った。鬼怒川晃は不思議そうな表情をしていた。解説を求めていた。しかし、姫は鬼怒川晃の疑心に触れなかった。触れないまま、深々と頭を下げた。
「ヒーさま。今まで、本当にありがとうございました」
「おい。おかしいだろ。いつもこうなのか?」
八草辷は思わず呟いた。目を疑った。頭が縮んでゆくように感じた。萎んでゆくように感じた。
「いえ。今回きりです」
八草辷の独り言に、槌ノ子乃文は答えた。
一方、
「え! すごい! 何があるんですか? 何があるんだろう!」
そんな辛見伖を、
ほんの一例。辛見伖という人間が根拠を受けた。その根拠に対して意思を持った。意思が活動として表れた。羽田共輔はその全てを観察していた。例えば、これが従業員の業務であった。
今さら、業務を成すことに大した意味もないが。
姫はようやく頭を上げた。そして、窓の外に目を戻した。
七色の空、整列する植木、茶色一色のレンガ路、景色に溶け込む建築。それから、人間。それと、人間と、人間と、人間と人間と人間と人間と人間と人間と…。
とかく、夢ノ国は人間で溢れていた。
「これでよかったんですよね」
姫は怪訝そうに視野を窄めた。
目覚まし時計は横になっていた。たくさん泣いた。何度も泣きやんだ。結果、今日分の元気は使い切ってしまった。疲れ果てていた。それでも、毎秒、活動は続けていた。
鬼怒川晃は活動を再開した。
鬼怒川晃は体を起こした。寝起きで思考も視界もぼんやりとしていた。それどころか、思考も視界も開いていなかった。思わむにも考えむにも、持ち合わせている根拠がなかった。目は瞑っている時間のほうが長かった。
逆に云えば、現在、その状態でも事足りていた。鬼怒川晃は何度も同じ活動を繰り返していた。活動は自然と定着していた。意思は一定でよかった。考える事などなかった。見るか否かでは何も変わらなかった。
布団から離れる。離れればよかった。後は野となれ山となれ。
衣服を代える。寝巻を脱ぎ、余所行き用の服を着ればよい。諸作業も手先指先に任せた。
鞄の持ち物を一つ一つ見る。何が必要で何が不必要かは留意せずに目を通した。活動の必要性も怪しかったが、流れなので行った。
鞄と共に部屋を出る。居間で別れる。短い間ならば、一人でないことも悪くない。
洗面所で自身の支度。台所で食べ物の支度。場所で活動を変えることも、思考を用いず活動することに適していた。
朝食を机に手渡す。ランチボックスを鞄に持たせる。先の時間で行う事も、離れて見れば、今の事であった。現在の活動が未来の根拠になった。
自身を椅子に預ける。手を合わせ、一言。
「ここ、どこ?」
土曜日
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