第五話(1/2) 人間ある世界が
夢ノ国とは『万物が休眠により至る場所』のことである。
ここで、『万物』は『内部の物たち』を意味した。『休眠』は『現実における活動の一時停止』を意味した。すなわち、夢ノ国とは『内部であって現実でない場所』のことであった。
つまり、何が云いたいのかと云えば、従業員も姫も、城も門も観覧車も、本来、夢ノ国には必要がなかったのである。
夢ノ国において、城は姫のために存在した。姫が居ることを示す活動こそ、城の存在意義であった。
ただ、「示す」と云っても、外部の誰かに示したい訳ではなかった。城は、夢ノ国に姫の居る根拠を夢ノ国が失わないために、築かれたのであった。
それゆえ、姫が夢ノ国に居る根拠は、そのまま、城の存在根拠となっていた。
とかく、城には姫の部屋があった。
深い奥行き、高い天井。左の壁いっぱいに張られた窓たち。部屋の口と称すべき大きな扉。そんな部屋の割に小さな長机。机の長辺を挟むソファー二つ。そして、奥側のソファーに座る姫。
これらが揃って姫の部屋であった。
扉をノックする音が聞こえた。姫は座ったまま、和やかに答えた。
「どうぞ」
扉を開け、一礼。部屋に入って来たのは、
背筋は伸びていたが、肩肘は張っていなかった。緊張はしていなかった。顔にも緊張は見られなかった。その代わり、顔に表れていたのは、いかにも面白くなさそうな感情であった。八草辷は冷めた視線を姫に向けていた。
そんな八草辷に、姫は笑顔を向けた。
「ようこそお越しくださいました。さあ、ご遠慮なさらず。どうぞそちらにお掛けください」
姫は向かいのソファーを手で指した。
ところが、八草辷はソファーに見向きもしなかった。姫から視線を外さなかった。
「いえ、結構。自分、長居するつもりはないので」
八草辷は姫の勧めを拒んだ。足を肩幅だけ広げ、両手を自身の後ろに回した。右手首を左手で掴んだ。
「そうですか」
姫は寂しそうに笑んだ。
姫は姿勢を正した。
「では、ススムさん。ススムさんが従業員になってより、一日と半日が経ちました。生活はいかがですか? 業務には慣れましたか? 皆さんと仲よくできていますか?」
「可もあり不可もあり、ですね」
八草辷は首を傾けた。
「別段、辛い事はないです。嫌な事もないです。ですが、業務には慣れてないです。そも、業務内容を知らされてないです」
八草辷は淡々と答えた。姫は穏やかに笑った。
「そうですか。それはよい事ですね」
「よい事な訳がねぇだろ」
八草辷の声が怒気を孕んだ。
姫は目を丸くした。と云っても、八草辷の不敬は今に始まった事でもなかった。姫も、突然声を荒らげられたことに驚いただけであった。程なく元の表情に戻った。静かに笑顔を着け直した。
八草辷は調子を変えずに文句を垂れた。
「そもそも、なんで
懇切丁寧な教え方じゃなくてもいいんだよ。雑だろうと粗かろうと、教えてくれればなんだっていいんだよ。
けどな、あいつ、自分からは何も言わねえんだよ。こっちから聞いても真面に答えねえんだよ。見て覚えろってか。けどな、あいつ自身が業務やってる姿すら見たことねえんだよ。教える以前の問題だろ。
そうだよ。そもそもそも、なんで槌ノ子が従業員として成り立ってんだよ。そこからしておかしいだろ」
八草辷は存分に嘆いた。姫は依然と微笑んでいた。
「そうですか。それは大変ですね」
「なんで余所事なんだよ。夢ノ国の事だぜ? あんた直属の従業員について話してるんだぜ? もっと身を入れようぜ」
八草辷は呆れ返った。背筋も緩んでしまっていた。
「そうですね。そうですよね」
姫は微笑みを残したまま、次の質問へ移った。
「それでは、他の従業員さんはどんな様子ですか?」
「他の?」
「はい。もっと言えば、夢ノ国ですね。夢ノ国の有り様をどう思いましたか?」
八草辷は姫から視線を外した。纏まった答えを持っていなかった。
「どうって聞かれてもなぁ。客人が不満を持っていないなら、それでいいんじゃねえか? それ以上は考えても仕方ないだろ」
「『客人』ですか…」
姫はその単語を復唱した。
八草辷は姫に目を戻した。姫の顔は少し俯いていた。ただ、八草辷から見る限り、姫の表情は楽しげであった。八草辷には姫が何を思っているのかわからなかった。
姫は下を向いたまま呟いた。
「そうですよね。ススムさんは素晴らしい考え方をなさっておいでです。私たちはお客さまの御要望に沿うべきです。お客さまのことを考えねば、私たちは正しい活動を成せませんものね」
「そりゃそうだろ。あんた、今まで何を考えて活動してきたんだよ」
八草辷は苦笑いを浮かべた。
姫は力強く頷き、顔を上げた。八草辷と目を合わせた。
「ところで、ススムさんの仰る「客人」とは、人間さまのことですよね?」
「そりゃ、…そうだろ」
「では、その人間さま方をどう思いましたか?」
「人間?」
「はい。『人間』です」
八草辷の反応は若干遅れた。姫の笑顔が目に飛び込んでいた。言葉の意味を噛み始めるには、姫を視線から外す工程が必要となった。
「人間ねえ…」
八草辷は窓の外に目を遣った。しかし、八草辷は窓から離れていたため、大した物は見えなかった。見えた風景と云えば、背高い建物の頭々と七色蠢く空ばかりであった。
八草辷は七色の蠢きようを眺めていた。
「つっても。俺、人間にあまり会ってねぇんだよな。遠くから見ているだけだったから。
そりゃあ、まあ、お誂え向き。ついさっき、槌ノ子に連れて行ってもらったさ。人間の多い場所を見に行ったさ。群がる人間を見はしたさ。けど、それだけで評価すんのもなぁ」
「それで構いません」
姫は身を乗り出した。
「それで? 近づいてみて、観てみて、どうでした? 人間さま方をどう思いましたか?」
「なんと言うか。すげえなあ、って思った」
八草辷の声音に起伏はなかった。殺したのか死んでいたのか、声の中には感情が居なかった。生きた感情は表情筋に縋って活動していた。
八草辷の横顔を見て、姫も表情を陰らせた。八草辷は言葉を紡いでいった。
「あいつら、活動が自分勝手なんだよな。風が吹いても雨が降っても、活動が変わらないんだろうなって。
いや、記憶が曖昧なのも根拠としてあるんだろうけど。にしても、あれだ。見えている物しか考えていないと言うか、考えられる事しか見ていないと言うか。…世界を見ていないんだろうな。きっと」
「そうですか」
姫も窓の方へ顔を逸らした。姫はソファーに座っていたため、八草辷より見える物が少なかった。姫に見えた物は空だけであった。かと云い、今さら、何かを見ようとしていた訳でもなかった。
出し抜けに八草辷は呟いた。
「あ。でも、そうじゃない奴も居たな」
「え?」
姫は八草辷を見た。声は弾み、目は輝いていた。
ところが、八草辷はそんな姫に気付かなかった。正面を見ていなかった。そのまま、発言を取り消した。
「あ。でも、あいつらは違うか。人間は人間でも、ノーカウントだろ。見知ったから、ってのはあるだろうし。どんな人間でも、いくら人間でも、知った物のことくらいは考えるんだろうよ」
「…そうですか」
姫は顔を伏せた。
八草辷は姫に視線を移した。姫は黙っていた。沈んでいた。
八草辷が部屋に入った時、姫は笑顔であった。八草辷が無礼を働こうとも、姫は微笑んでいた。姫はいつも笑んでいた。あるいは、慌てていた。
付き合いの長さが原因か、こう暗がる姫を八草辷は見たことがなかった。
ただ、姫がどんな顔をしていようとも、八草辷の心持ちは大して変わらなかった。八草辷は部屋に入ってより今まで、一貫して不機嫌であった。
「なあ。姫さん」
八草辷は姫に声を掛けた。声音は重かった。
姫は顔を上げた。それも一種の笑顔。八草辷の語調はわずかに弱まった。
「さっきも言ったが、俺に長居する気はねえんだ。俺はこんなアンケートのためだけに呼ばれたのか? だったら、わざわざ来る必要もなかったろ。
そも、俺に聞いてどうすんだよ。俺は人間とも業務とも縁遠いんだぜ? もっと適任な奴も居ただろ。そもそも、新入りに聞いてどうすんだよ。無知の塊だぜ? この分なら槌ノ子とかに聞くほうがまだマシだろ。そもそもそも、従業員に聞く必要がないんじゃないか? あんたなら全部わかるんだろ? いや、確証もないんだが。
とにかく、さっさと本題に入ってくれないか? 俺は持ち場に戻りたいんだ。俺にだって見たい物があるんだ」
「そうですか。そうですね。そういう事にしましょうね」
姫は改めて姿勢を正した。表情も普段と大差ない笑顔に変わった。普段の笑顔に戻った。
「ススムさん。いえ、八草辷さん。この度お呼びした用件は他でもありません。それは、…その。ええっと」
歯切れが悪くなっていった。段々と、再び、姫の視線は下がっていった。八草辷は静かに聞いていた。
「ススムさんの呼称に関するお話なのですが、従業員さんの多くがススムさんを『スベル』とお呼びしていまして。それで、その…」
姫は一度、目を瞑った。大きく息を吸った。深く吐いた。八草辷を見た。
「『ススム』という名前を『スベル』に変えませんか?」
「断る」
姫が言い終えるや否や、八草辷は答えた。
「俺は『ススム』だ」
姫は息を呑んだ。八草辷の顔に表れていた感情は、不愉快や不機嫌と云ったものでなかった。
八草辷はぽつりぽつりと言葉を置いていった。
「周囲がなんて呼ぼうとな、実のところ、俺には関係ないんだ。呼んでくれるんだったら、もう、呼びやすいように呼んでくれて構わない。変な話、呼んでもらえるってだけで、十分にありがたいんだ。
周囲がなんて云おうとな、俺には関係ないんだ。根拠がなんであろうと、俺は俺として活動するだけだから。俺が俺を俺だと思えれば、それでいいんだ」
姫は八草辷を見つめていた。八草辷は姫の方を見ていた。少し俯いていた。
「名付け親がなんて言おうとな、俺には関係ねえんだ。俺は『ススム』だ。何が起こっても『ススム』として活動してきたんだ。何が起こっても『ススム』として活動するんだ。それが俺の意思だ。
だから、その案は断る」
姫はうまく言葉を纏められなかった。何かを言おうとしたが、言葉は喉より先へ進まなかった。姫は「そうですか」とだけ答えた。
「…本題が済んだなら、もう戻っていいよな」
そんな姫に背を向け、八草辷は歩きだした。
扉の前で立ち止まり、振り返り、姫に一礼した。それから扉を開け、部屋から出て行った。
扉が閉まった。部屋の外で、八草辷は大きく息を吐いた。
「周囲がなんて云おうと、か。よく言うよ」
独り、笑った。
とりあえず、八草辷は城から出ることにした。城を出てからの道はわからないが、城を出るくらいは自分だけででもできそうだと考えた。
城を出てからの事は、ぼんやりとしか考えられなかった。自分だけで持ち場に戻れるのだろうか。来た時と同じように、帰りも
「て云うか。槌ノ子の奴、どこに行ったんだ?」
ぼやきつつ、八草辷は元来た方へ向いた。ゆっくりと歩きだした。
ところが、歩きだしてすぐ、八草辷は立ち止まった。進行方向に人影を二つ見つけた。一つは槌ノ子乃文、もう一つは
槌ノ子乃文も八草辷に気付いた。鬼怒川晃には八草辷が視認できていなかった。まだ距離があった。
鬼怒川晃が十分に近づいてから、八草辷は鬼怒川晃に声を掛けた。
「おー。鬼怒川じゃねえか」
「あ。…八草さん」
鬼怒川晃は八草辷の名前を口にした。声の出る前に妙な間が入った。
ただ、八草辷は気付かなかった。そんな細かい所に気を回す余裕がなかった。
「城は従業員以外立入禁止って聞いていたんだが、なんであんたがここに居るんだ? 業務見学か? 業務体験か? そういう体の業務妨害か?」
八草辷はへらへらと笑った。鬼怒川晃は苦笑いをした。八草辷は視線を端に逃がした。今、笑顔を外す訳にはいかなかった。
「いや、すまん。冗談だ。それで…」
「…姫さまとお会いするために来ました」
「なるほどな。いや、そうだよな。こんな所に来る根拠なんて、そんくらいだよな。ハハハ」
八草辷はどこかを見たまま笑った。
八草辷は独りになりたがっていた。
姫の部屋を出た時、槌ノ子乃文が居ないことには驚いていた。反面、安堵していた。あるいは、感謝していた。
八草辷はまだ内部を整理しきれていなかった。部屋の中で起きた事が思考を巡っていた。姫の言葉、姫の活動。自身の活動、自身の言葉。じっくりと整理するために、外部からの情報を遮断したかった。
加え、整理の結果生まれた意思や感情を、独りで処理してしまいたかった。どんな活動や表現を起こしても、例えば泣き出してしまっても、独りで抱え込めるのであれば、それでよかった。
見世物ではないのだ。その時ばかりは、観衆を気にしていたくないのだ。
ところが、八草辷は独りでなくなってしまった。鬼怒川晃と槌ノ子乃文が現れた。整理を始める訳にはいかなくなってしまった。
それでも、頭は整理を始めたがった。中枢からすれば、内部混雑の解消に比べてしまうと、外部の事などどうでもよかった。もちろん、八草辷にとっては、外部の事も内部の事と同じくらいに重大である。整理の開始はなんとしてでも避けたかった。
そして、今、八草辷は話し続けることに専念していた。気を紛らすことに必死であった。この場を笑って乗り切れれば上出来であった。
対し、鬼怒川晃は口数を減らしていた。
かつてどうであったかはさて置き、今の鬼怒川晃は八草辷と話がしたかった。
八草辷に言いたい事があった。謝りたかった。名前は大事なのである。鬼怒川晃も呼称について不満を持ったことがあった。だのに、鬼怒川晃も八草辷を『スベル』と呼んだ。せめて、それだけでも謝り直したかった。
八草辷から聞きたい事があった。八草辷は『スベル』と呼ばれ、どう感じていたのか。否、そんな事を尋ねる必要はなかった。そんな事より、『スベル』と呼ばれた時、八草辷が言いたかった事を聞きたかった。たくさんあったはずである。決まり文句一つで収まるはずがないであろう。それらを聞きたかった。
八草辷の話を聞きたかった。鬼怒川晃は八草辷と話がしたかった。八草辷について知りたかった。別段、八草辷に限った事でもなく、鬼怒川晃は相手を知ることが大切なのだと思い始めていた。
しかし、鬼怒川晃はそのどれをも口に出さなかった。八草辷の様子を見て、言葉にすべきでないと感じた。
そんな鬼怒川晃の隣から、槌ノ子乃文が声を飛ばした。
「ところで、姫とのお話はどうでしたか?」
思わず、鬼怒川晃は槌ノ子乃文に視線を向けた。槌ノ子乃文は鬼怒川晃の方を見ていなかった。八草辷はなぜか得意げに、まるで得意げに答えた。
「なんて事はなかったぜ? 「従業員生活は慣れましたかー?」とか、「夢ノ国はどんな感じー?」とか。そんな質問ばっかだった。これ、新入りはみんな答えてんのか? 研修の一環なのか? 通過儀礼か?」
「あー、いえ。そちらではなくてですね…」
八草辷は槌ノ子乃文に目を遣った。槌ノ子乃文は言い放った。
「改名の件、どうでした?」
「ハハハ」
存外すぐに、八草辷は高笑った。乾いた笑い声であった。
「言ったろ? なんて事はなかったって。俺は『ススム』だ。それだけだ。…そうだ。それだけの事なんだ」
八草辷は無駄に笑うことをやめた。槌ノ子乃文の顔を見た。
「俺は『ススム』として活動する俺を見る。あんたらは『スベル』として活動する俺を見る。そうだよな。呼称なんて、どうでもよかったんだよな」
「…そうですか」
槌ノ子乃文の声は淡々としていた。興味がないようですらあった。人間味がなかった。
鬼怒川晃は恐る恐る八草辷の方を見た。八草辷は仄かに笑んでいた。
槌ノ子乃文は向かう先へ目を向けた。
「それでは。私はヒーさまをお連れします。スベルさんは城の口へ向かってください。そこでまた会いましょう」
「わかってる、わかってる。わざわざ言われなくたってそうすらぁ」
八草辷はひらひらと手を振った。ふと、鬼怒川晃に目を遣った。
「じゃあ、鬼怒川も。また後でな」
「ええ。また後で」
鬼怒川晃はそれだけ返した。微笑んで見せた。
八草辷の様子がどうであれ、今の鬼怒川晃に八草辷と話す時間はなかった。これから、鬼怒川晃は姫と話すのだ。優先順位が違った。
同じく、八草辷にも八草辷の優先順位があるのだ。
八草辷は歩きだした。槌ノ子乃文の隣を通り過ぎていった。その後ろ姿を、鬼怒川晃と槌ノ子乃文は眺めていた。そして、八草辷はしばらく進み、立ち止まった。振り返った。
優先順位、その第一位。
「…って、おい! 『スベル』って呼ぶな!」
「それでは、ヒーさま。行きましょうか」
「はい。そうですね」
「おい!」
槌ノ子乃文と鬼怒川晃は進み始めた。八草辷も、それきり、すんなりと前へ向き直った。双方、それ以上は振り返ることも、何かを伝えることもなかった。
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