第四話(1/2) 輔翼ある日々が

 辛見ツラミクラは広げた弁当箱の前で手を合わせた。

「「いただきます」」

 鬼怒川キヌガワヒカルは右手と左手を離した。ランチボックスの蓋を開けた。蓋が場所を空けた。鬼怒川晃は両手でサンドイッチを掴み上げた。鬼怒川晃の両手はサンドイッチを掬い上げた。そして、口へ運んだ。

 ここで、鬼怒川晃は動きを止めた。辛見伖の視線に気付いた。サンドイッチを顔から遠ざけた。

「辛見さん。どうかした?」

「え?」

 辛見伖は我に返った。手すら合わせたままであった。ただただ鬼怒川晃を眺めていた。

「あ。いや。ヒーちゃん大丈夫かなーって思って」

「大丈夫だけど、どうして?」

「ほら。ヒーちゃん、さっきの授業で居眠ってたじゃん? 珍しいなーって思ってさ」

「そう言えばそうだったね」

 鬼怒川晃はサンドイッチを一齧りした。鬼怒川晃の表情に変化はなかった。

「ヒーちゃん。本当に大丈夫?」

 辛見伖は鬼怒川晃の顔を覗き込んだ。鬼怒川晃は笑顔で答えた。

「大丈夫、大丈夫。ホントに大丈夫」

 辛見伖は心配そうに鬼怒川晃を見ていた。しかし、それ以上は踏み込まなかった。当人が大丈夫だと言っているのだ。大丈夫だと信じることにした。自分にできる事はないと信じるべきだと思った。

 鬼怒川晃は普段と変わらない調子で、辛見伖に尋ねた。

「ところで、辛見さんはさっきの授業、起きてたの?」

「え? あ、うん」

 辛見伖はようやく鬼怒川晃から視線を外した。箸を手に取った。

「なんだか眠くなくって。しょうがないから羊の数を数えてたんだけど、結局眠れなかったの」

 辛見伖はもう一度手を合わせた。

「いただきます」

 一方、鬼怒川晃は一切れ目のサンドイッチを食べ終えていた。おもむろに二切れ目へ手を伸ばした。

「それで。辛見さんは大丈夫なの?」

「大丈夫だけど、どうして?」

 辛見伖は首を傾げた。鬼怒川晃も首を傾げた。

「いや。居眠りしなくて大丈夫なのかなーって思って」

 鬼怒川晃は「何を今さら」と言わんばかりの表情で答えた。



「この世界のある場所に『犬の国』はあった」

「犬の国には多くの犬が居た」

「また、その犬たちは、犬は犬でも、大きく二派に分かれていた」

「一派は肉塊、もう一派は石塊であった」


「肉塊の犬は体が肉でできていた」

「肉塊は石塊を蔑ろにしていた」

「肉塊は石塊を非生物だと云った」

「生物でないことを、意思も記憶も寿命もないことだと思っていた」


「石塊の犬は体が石でできていた」

「石塊は肉塊を軽んじていた」

「石塊は肉塊を低俗だと云った」

「生物と非生物の境界に拘ることを、愚かな事だと思っていた」


「ベガという犬が居た」

「ベガは石塊の長老であった」

「ベガもまた、肉塊を嫌っていた」

「ゆえに、ついに、仲間たちに一つの計画を叩き付けた」

「それは肉塊を犬の国から払う強行策であった」

「ベガには時間がなかった」


「ところが、ある日、ベガはケンと出会った」


「ケンは肉塊であった」

「しかし、ケンは変わりものであった」

「肉塊にして、生物と非生物の境界を持ち合わせていなかった」


「ベガは衝撃を受けた」

「世界にケンのような肉塊が居ることを知らなかった」

「ベガは自身の知見が狭いことを知った」

「それまで、ベガは幾百の石塊と考えを交わしてきた」

「幾万の肉塊を見掛けてきた」

「ベガが培った経験や体験は、他の追随を許さぬ量となっていた」

「しかし、それらも所詮、犬一匹分の量であることに変わりはなかった」

「ベガは多くの生涯を見聞きしてきたが、その見聞きに用いた知覚や感性もまた、ベガのものであった」

「ベガ自身はベガとしてしか生きたことがなかった」

「世界は広いのだ」


「ベガは石塊たちに、ケンのような肉塊が居ることを伝えた」

「そして、もう一度、世界を見つめ直させた」

「境界のない肉塊を探させた」


「居なかった」


「結局、ベガは肉塊を犬の国から消すことにした」

「しようとした」

「できなかった」

「決心がつかなかった」

「何かを見逃している気がした」

「どこか間違えている気がした」

「そんな気がして仕方なかった」


「よって、ベガはソルを作った」

「ソルは石塊であった」

「しかし、ソルは無知であった」

「犬の国に居て、肉塊を知らなかった」

「石塊でありながら、石塊の活動もその根拠も知らなかった」

「何より、肉塊と石塊の境界がなかった」


「ベガはソルに世界を見せることにした」

「犬の国も肉塊も石塊も、十を一から知ってもらうことにした」

「その果てで、ベガはソルがどう思ったかを聞きたかった」

「自分たちと同じ意見を期待した」

「「生物と非生物に境界などない」と云ってくれればよかった」

「同様に、自分たちと違う意見を期待した」

「「肉塊は低俗でない」と云ってくれればよかった」

「ベガは踏みとどまったことに意味を見出だしたかった」


「加えて、ベガはケンにも意見を求めたかった」

「石塊とも肉塊とも違う答えをケンは出してくれる、そう信じていた」



「はい。ありがとうございます」

 先生はそこで区切った。生徒たちはプリントから目を離した。

 例えて云えば、ひねくれた笠地蔵。

 この物語は先生がどこからか引っ張って来たものであった。授業の始めに配布され、まさに今、詳しい説明がなされている。

 ところが、鬼怒川晃は先生の話を聞いていなかった。窓の外を眺めていた。爆発的に発生した文章も、他の生徒たちが各々の担当する箇所を音読している間に、さっさと目を通してしまっていた。鬼怒川晃は授業を真面目に受けていなかった。

 窓の外に一羽の小鳥が留まり、チチチッと鳴いた。

 辛見伖は相変わらず机に伏している。ただ、それが居眠りかどうかの判別は、余所から見ただけだと難しいかもしれない。


 先生は教壇の上で歩いていた。

「…ところで、「ケンには境界がなかった」と書いてありますが、なぜなかったのでしょうか」

 個人的な疑問であった。おそらく、『境界』については、先生から軽く解説がなされたのであろう。おそらく、この疑問の答えは文中になかったのであろう。おそらく、この先生にはその『境界』があるのだろう。

 先生は立ち止まり、顔を上げた。視線の先には辛見伖の席があった。

「辛見さん?」

「…はい」

 辛見伖は憂鬱そうに頭を上げた。お淑やかに目をこすった。そして、寝惚けた声を出した。

「寝ていたのでわかりませヌ」

「正直でよろしい」

 先生は溜め息もつかなかった。その後、他の生徒に視線を移していった。指名された生徒は順に、思い思いの感想を答えた。

「ケンには肉塊と石塊の区別が付かなかったから」

「ケンには生物としての自覚がなかったから」

「ケンには物を雑に扱う理由がなかったから」

 次々と現れる答えを聞くうちに、辛見伖の表情は曇っていった。難しい顔で文章に目を遣った。

 鬼怒川晃は依然と窓の外を見ていた。人知れず、窓辺の小鳥に微笑み掛けた。

「肉塊と居ることに疲れたからだと思いまーす」

 鬼怒川晃の囀りは小さく、どの人間に聞こえることもなかった。

 辛見伖は再び顔を伏せた。辛見伖には生徒たちの考え方を受け入れることができなかった。

 小鳥は首を傾げた。



 先生は号令係に合図した。

「ありがとうございました」

 鬼怒川晃も号令に合わせて立ち上がった。御辞儀をし、腰を下ろした。声は出していなかった。

 授業が終わった。

 辛見伖は今日も早かった。

「ヒーちゃん、帰ろ!」

「ちょっと待ってね。まだ支度を済ませてないから」

「えー、遅いよ。さっきまで何していたのさ」

「何って、授業を…」

 鬼怒川晃はピタリと動きを止めた。

 鬼怒川晃は授業を受けていたのであろうか。授業中、自分の席に着いていた。先生の話を耳に入れていた。配布物にも教科書にも目を通していた。

 ただ、今一瞬、鬼怒川晃は「授業を受けていた」と言えなかった。言葉が喉につっかえた。これまで、鬼怒川晃は授業を真面目にしか受けたことがなかった。

「ヒーちゃん?」

 辛見伖は眉を顰めた。辛見伖には鬼怒川晃の様子が、心なしか、いつもと違って見えた。今の鬼怒川晃は辛見伖の知らない鬼怒川晃であった。辛見伖は違和感を覚え始めていた。

 対し、鬼怒川晃は顔を上げないまま、帰り支度を再開した。

「いえ。授業を受けていました」

 鬼怒川晃の声は微かに弾んでいた。辛見伖は鬼怒川晃の一挙一動を注視した。受けた違和感の根拠を探した。

「…そうなんだ」

「ええ。そうなの。それより、お待たせ。準備、済みましたよ」

 鬼怒川晃は席から立ち上がり、辛見伖の方を見た。そして、固まった。


 辛見伖の表情が険しかった。しかし、それは原因でなかった。鬼怒川晃の目に辛見伖は映っていなかった。

 今日の帰り支度はいつもより早く済んだ。筆記用具や教科書がお利口にしていた。しかし、それも原因でなかった。鬼怒川晃は、机の上が散らかっていなかったことも根拠の一つとし、自身の授業態度が不真面目であったことを認識していた。つまり、これはすでに過ぎた話であった。

 早く支度が済んだ分、視界に居る人間が多かった。しかし、それも原因でなかった。直接の原因ではなかった。

 鬼怒川晃の目に映った物は、光景は、鬼怒川晃の期待していたものと違っていた。

 椅子、机、窓、教卓、黒板、掛け時計、扉。近くの物ほど歪んで見えた。遠くの物ほど整って見えた。それでいて、眩暈の類いはなかった。

 むしろ、以前から歪んでいたよう、鬼怒川晃には思えていた。最初から。人間が生まれる前から。進化の前提となる頃から。

 つまり、鬼怒川晃は歪んだ風景を気に留めていなかった。これも原因でなかった。


 鬼怒川晃の目を奪った物事は、視界に人間の姿がなかったことである。もとい、人間の姿しかなかったことである。

 そこには人間の形だけがあった。天上から垂れた糸が、一体一体の襟首手首に結ばれていた。さながら、操り人形のようであった。何に操られているのであろうか。糸の先に操り主は居るのであろうか。

 そして、人形は七色であった。一体一体が七色であった。一体一体の表面に、あるいは内部に、七色が蠢いていた。混ざり合っていた。濁りだしていた。壊れ始めていた。


 鬼怒川晃は視野を窄めた。それ以外の感情表現や意思表示はなかった。何事もなさそうな表情で佇んでいた。

「ヒーちゃん?」

 辛見伖の声が聞こえた。

 鬼怒川晃は辛見伖を見つけた。視界が元に戻った。辛見伖は鬼怒川晃の正面に立っていた。

「ヒーちゃん。本当に大丈夫?」

 辛見伖は心配そうに鬼怒川晃の顔を覗き込んだ。

 辛見伖は、鬼怒川晃のためであれば、なんでもするつもりだった。何をしてでも、鬼怒川晃の助けになるつもりでいた。そんな辛見伖が鬼怒川晃に様子を尋ねた。答えを求めた。

「大丈夫、大丈夫。辛見さん、気に揉みすぎ」

 鬼怒川晃は辛見伖に笑って見せ、歩きだした。

 辛見伖は…、辛見伖は鬼怒川晃を追った。隣に並んだ。


 辛見伖は鬼怒川晃を見つめていた。鬼怒川晃が何をしていた訳でも、何か話していた訳でもなかった。ただただ、辛見伖は不安を拭いきれないでいた。鬼怒川晃のどこに異変があるのか。自分は何ができるのか。辛見伖は答えを探し続けた。

 鬼怒川晃は鬼怒川晃で、辛見伖の視線が気になっていた。辛見伖が心配か何かをしているのはわかっていた。ただ、その心が何に向いているのか、わからなかった。辛見伖が何を気に掛けているのか、わからなかった。

 事実、鬼怒川晃の体調は悪くなかった。気分はよかった。非常に、過剰に、未曽有なまでによかった。心が軽かった。いくらか自由になった気がしていた。鬼怒川晃は自分が自分でなくなったように感じていた。


 鬼怒川晃は辛見伖の気を紛らすことにした。とりあえず、辛見伖の視線を散らしたかった。

「そう言えば。辛見さん、さっきの授業で指されていたよね」

「え。あ、うん。そうなの。久々に指されたの。答えられなかったけど」

 辛見伖は揚々と話し始めた。鬼怒川晃は内心でホッとした。

 ところが、辛見伖もそこまで単純ではなかった。

「それでさ、ヒーちゃんならなんて答えてた?」

「私?」

 辛見伖は視線を別な方向から当てるよう切り替えた。返って来る言葉に注意した。手探りにでも形を知ろうとした。

「私なら…」

 先生の問い。なぜケンには境界がなかったのか。

 鬼怒川晃の答え。ケンは生きる犬と居ることに疲れていたから。

「…私もわからなかった」

「ヒーちゃんが?」

 辛見伖は顔を顰めた。

「じゃあ、「わかりませんでした」って言うつもりだったの?」

 鬼怒川晃は楽しそうに笑んだ。

「いいえ? 「具体的な事が書かれていないので、わかりかねます」って」

「…それでダメだったら?」

 辛見伖は鬼怒川晃の表情を窺っていた。鬼怒川晃は前を向いたままであった。

「ダメだったら「そういう場合だったから」って答えてたね。「ケンに限らず、誰でも同じ行動をとっていたはずです」って」

 鬼怒川晃は辛見伖の方を見た。

「そうなんだ」

 辛見伖は微笑んで見せた。

「ねえ、ヒーちゃん?」

「はい?」

「ゆっくり休んでね?」

 これが辛見伖の結論であった。辛見伖は鬼怒川晃が疲れているのだと捉えた。今日は金曜日であった。

 ただ、そう結論付けても、辛見伖には声を掛けることしかできなかった。

「え? ええ。ありがとう」

 鬼怒川晃は辛見伖の真意を汲み取れないまま答えた。



 この日、鬼怒川晃は辛見伖に夢ノ国の話をしなかった。

 鬼怒川晃から話さないのであれば、辛見伖も詳しく聞こうと思わなかった。話さないということは、その夢を見なくなったか、忘れてしまったかだと考えていた。自分から鬼怒川晃の悩みを掘り返すことは不本意であった。

 もちろん、鬼怒川晃は眠る度に夢ノ国へ至っている。夢ノ国での記憶もまだ抱えている。

 しかし、辛見伖に話さなかった。話さない根拠はいくつかあった。例えば、槌ノ子ツチノコ乃文ノブンにお願いされたから。辛見伖に相談する必要がなくなったから。辛見伖を再び悩ませてしまうから。

 ところが、どれも重要ではなかった。実際の根拠はたった一つであった。

 鬼怒川晃には話す気がなかった。だから、話さなかった。話そうかなと思えていれば、他の根拠が残っていても、鬼怒川晃は話していたであろう。

 本来、鬼怒川晃は話すことを得意としていなかった。

 どこまで話したか、鬼怒川晃は気にした。そのくせ、対人活動に対する興味が薄く、思い出そうとして思い出せる事もなかった。結局、鬼怒川晃は似通った話しかできなかった。

 どう話せばよいのか、鬼怒川晃は気にした。そのくせ、定型文を備え持ち、それだけで会話を済ませようとしていた。伝わらない話を伝えるためにできることが極端に少なかった。

 どうして話さなくてはいけないのか、鬼怒川晃は気にした。会話で得られるものに比べ、会話で失うもののほうが大事に思えていた。そのくせ、鬼怒川晃は上手く切り上げる方法を持ち合わせていなかった。聞きたい相手も話したい自分も居ないまま、よろよろと話は進み続けるのであった。

 鬼怒川晃はつまらない人間であった。

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