第三話(2/2) 苦労ある教育役が

 辛見ツラミクラ八草ハッソウススムに立ちはだかった。

「別段、お嬢ちゃんから名乗ってくれてもいいんだよ? せっかくの自己顕示欲求横行社会なんだ。それくらいで罰を当てるほど、神様仏様も暇しちゃいないでしょ」

「ほう。それじゃあ、お言葉に甘えようじゃねえの」

 八草辷はにやりと笑った。

「俺は八草ススムだ。スベルじゃねえ。ススムだ。よく覚えとけ!」

「なるほど。スーちゃんか。その名、よく覚えておこう」

「待て待て待て」

 八草辷は咄嗟に引き止めた。辛見伖は真面目な顔でとぼけた。

「どったの?」

「いや、「どったの?」じゃねえよ。あだ名で呼ぶにしたってワンクッション置けよ。そも、あだ名で呼ぶな。そもそも、勝手にあだ名を付けるな。そもそもそも、『スーちゃん』ってなんだよ」

「ふっふっふ。君は浅はかだね」

 辛見伖は意味ありげに笑った。

「これはあだ名じゃない。コードネームだよ!」

「コードネームだから、なんだってんだよ」

「コードネームってのは本名を隠すための呼称。そして、本名を隠す理由は本名で呼ばれたくないから。これをスーちゃんに適用したってだけの事よ」

 八草辷はハッとした。

「つまり、俺が『スベル』と呼ぶなって言ったから、即座に『スーちゃん』で呼んだっていう事か。じゃあ、『スーちゃん』というのは…」

「そう。『スベル』だから『スーちゃん』!」

「誰がスベルだ!」

 八草辷は溜め息をついた。

「まあ。今回は大目に見てやろう。とにかく、次の名乗り手はあんただ。あんたは何者だ?」

「私はクーちゃんだ!」

「ワンクッション!」

「クッションではない。クーちゃんだ」

「そうじゃなくて、ワンクッション。頼むからワンクッション置け。お願いします。置いてください!」

 八草辷は辛見伖に恐怖すら覚え始めていた。


 辛見伖と八草辷の自己紹介合戦は熾烈を極めていた。その攻防を横目に、鬼怒川キヌガワヒカル槌ノ子ツチノコ乃文ノブンに声を掛けた。

「槌ノ子さん。お聞きしたい事があるのですが、よろしいですか?」

 槌ノ子乃文は鬼怒川晃を見た。そして、何かに納得すると微笑んだ。

「ええ。彼女の名前は『八草ススム』ですよ」

「いえ。八草さんのことじゃないです」

 鬼怒川晃は辛見伖を一瞥し、槌ノ子乃文に目を戻した。

「辛見さんの記憶に関する件です。詳細を伺いたいのですが…」

「ああ。そうですね。そうでしたね」

 槌ノ子乃文は鬼怒川晃に正面を向けた。姿勢を正した。

「現在、お伝えする事が三つ、お願いしたい事が一つ、ございます。まず、お伝えしなければならない事から」

 槌ノ子乃文は右手の人差指を上げて見せた。

「一つ目。辛見伖さまに対する待遇は、ヒーさまに対する特待の一環とします。つまり、辛見さまはヒーさまと違い、特待の対象となった訳ではありません」

 続いて中指が上がった。

「二つ目。辛見さまの記憶は夢ノ国でのみ維持されます。現実へは、今まで通り、夢ノ国で得た記憶を持ち越すことができません。

 例えば、今、辛見さまが目を覚ましても、スベルさんのことは覚えておられません。しかし、再び夢ノ国にいらっしゃった時には、しっかり思い出しているはずです。

 いえ、ご安心ください。その際、夢ノ国の外で記憶を失っていたことに、辛見さま自身はお気付きになれません」

 最後に薬指が上がった。

「三つ目。辛見さまの記憶において、ヒーさまとの会話が含まれた部分は編集いたしません。

 そして、お願いしたい事とは、この三つ目に関する事です」

 槌ノ子乃文は右手を下ろした。

「重ね重ね申しておりますが、夢ノ国の存在が現実に残りますと、非常にマズいのです。他方、夢ノ国はヒーさまの御要望をどうしても通したいのです。極力、辛見さまの記憶に手を加えないでいたいのです。

 それゆえ、ヒーさまにお願いいたします。辛見さまに夢ノ国の事を話し過ぎないでいただきたいのです。夢ノ国が編集すべき部分を減らしていただきたいのです。

 差し出がましいことに、こちらの都合を押し付けることとなってしまいます。ですが、どうか御了承頂けないでしょうか」

 槌ノ子乃文は首を前に傾けた。浅く、重かった。

 鬼怒川晃も槌ノ子乃文に頭を下げた。

「もちろんです。本当にありがとうございます」

 槌ノ子乃文はゆっくりと顔を上げた。すでに鬼怒川晃の姿はなかった。


 八草辷はふらふらとベンチに腰を下ろした。

「なんだ。ホントなんなんだ、あいつ」

 辛見伖の姿も消えていた。槌ノ子乃文はベンチに近づいた。

「辛見さまもお客さまです」

「そうだろうな。なんか、生き生きしてたもんな」

 八草辷は肩を落とした。槌ノ子乃文は遠くに目を遣った。

「でも、あれですね。娘に初めての友達ができたみたいで、お兄さん、嬉しいです」

「おい…」

 八草辷は槌ノ子乃文を見た。視線は尖っていた。

「子ども扱いだの私若いアピールだのは、百歩譲って許してやる。けどな、あんたらの表現は耳に突く。どうにかならねえのか」

 槌ノ子乃文はケタケタと笑った。

「文化の違いとでも思って慣れてください。それより、スベルさん。業務です」

「誰がスベルだ」

 八草辷は力なく、こうべを垂れた。

 槌ノ子乃文の目が八草辷に向いた。

「その表現は許しているのですか?」



 金曜日


 目覚まし時計が泣きだす。鬼怒川晃は目覚まし時計をなだめる。体を起こす。布団から離れる。衣服を交代させる。鞄の持ち物を確認する。鞄を連れて部屋から出る。鞄と居間で別れる。洗面所で自身の支度をする。台所で食べ物の支度をする。朝食を机に、ランチボックスを鞄に預ける。椅子に座る。

 手を合わせ、一言。

「いただきます」

 鬼怒川晃は食事を始めた。箸を介して食べ物を掴む。口へ運ぶ。噛む。呑み込む。いずれ、一部にする。

「ごちそうさまでした」

 食器を台所へ連れて行く。食器を洗う。もう一度、洗面所で支度をする。居間で鞄と合流。玄関で靴と合流。鞄に再び持ち物を確認する。扉に手を添える。

「いってきます」


 二年三組の教室に人間は居なかった。鬼怒川晃は教室の中を見渡した。扉、掛け時計、黒板、教卓、窓、机、椅子。鬼怒川晃は教室の名札を確認し、中へ入っていった。

 自分の席へ向かう。鞄を机の上に座らせる。鞄の中からすぐ必要になる物を呼び出す。鞄を机の左に掛ける。椅子に腰を下ろす。鞄から預かった物たちを机に預ける。読書を始める。時間が経つに連れ、教室内の人間は増えていった。

「おはようございます!」

 その声が耳に入り、鬼怒川晃は顔を上げた。辛見伖が登校したところであった。生徒は揃っていた。先生は教壇に立っていた。

 チャイムが鳴り、先生は点呼を始めた。鬼怒川晃は読書をやめた。本を机に引き渡した。



「なあ。槌ノ子」

 八草辷は突っ立っていた。空を見上げていた。空は七色に蠢いていた。

 槌ノ子乃文は八草辷に目を遣った。

「どうしましたか?」

「俺、今、何をやってんだ?」

 槌ノ子乃文は見たままに答えた。

「天を仰いでいます」

「そっか。教えてくれて、ありがとな」

「いえ。当然の事をしたまでです」

 槌ノ子乃文は遠くに焦点を合わせ直した。

「なあ、槌ノ子」

 八草辷は再度、槌ノ子乃文に声を掛けた。

「どうしましたか?」

「さっきは俺の聞き方が悪かったのかもしれねえ」

 槌ノ子乃文は八草辷に目を遣った。八草辷は顔を下げ、正面を向いた。

「俺らの業務って、なんだ?」

 槌ノ子乃文は顔を顰めた。

「そんな事も知らないのですか?」

「教わってねえからなぁ!」

 八草辷は声を荒らげた。槌ノ子乃文に視線を向けた。

「あんた、教育係だろ?」

「教育係ではありません。教育役です」

「そこはどっちでもいいんだよ。とかく、新入りに業務を教える役割があるんだろ? 俺、従業員として何もしてねえぜ? 立っているだけで一日が過ぎていったぜ? そろそろ業務を教えろよ」

「なぜですか?」

「あんた、教育役なんだろ? 当然の事をしたまえよ!」

 八草辷は顔を真っ赤にしていた。槌ノ子乃文の表情は薄かった。

「スベルさん」

「スベルって呼ぶな」

 槌ノ子乃文は遠くを見た。

「向こう、人間のお客さまが多いでしょう?」

「そうだな。それがなんだ?」

「ちょっと行ってみますか?」

「え。いいのか?」

 八草辷は無邪気な笑顔を槌ノ子乃文に向けた。槌ノ子乃文は八草辷を見なかった。

「ええ。ただ、ちょっと歩くだけですよ」

 八草辷は何度も首を縦に振るということをしなかった。首を傾げた。笑顔のまま尋ねた。

「で、業務は?」

「また別の機会に、ということで」

 八草辷は再び喚きだした。


 結局、八草辷の怒声は槌ノ子乃文に届かなかった。八草辷は騒ぎ疲れ、ベンチに座り込んだ。

「ホント、教育役を替えてもらいたい。そも、なんでこんな奴が教育役なんだよ」

 槌ノ子乃文は依然と遠くを眺めていた。

「姫さまがお決めになったから、ですね」

「じゃあ、なんで姫さんはあんたを教育役にしたんだよ。そもそも、姫さんが無能なのか? あいつ、俺の名前は間違えるし、説明は不十分だし…」

 ようやく槌ノ子乃文は八草辷の方を向いた。そして、静かに御辞儀した。

 八草辷は槌ノ子乃文の動作に気付かなかった。空を見上げていた。

「そもそもそも、姫さんって何もんだ?」

「あ。それ、私も聞きたいです」

 鬼怒川晃がそこに居た。八草辷は鬼怒川晃の登場に驚いた。体がバランスを失い、ベンチの低い背凭れに頭を打った。

 鬼怒川晃は八草辷の驚きように驚いた。

「そんな事ってあるんですか?」

「おい。言う事が違うんじゃねえのか?」

「えっと…。御機嫌よう?」

「御機嫌よう!」

 八草辷は打った箇所をさすった。うっすら涙を浮かべていた。さすがに鬼怒川晃の心も痛んだ。

「大丈夫ですか?」

「あ? なんて事ねえよ、こんくらい」

 八草辷は頭から手を離し、その手で自身の膝を叩いて見せた。

「それよりも、だ。鬼怒川も姫さんについて知りたいんだろ?」

 鬼怒川晃は黙って頷いた。八草辷は槌ノ子乃文に意地の悪い笑顔を向けた。

「だそうだぜ、槌ノ子さん。特待さまのご質問だ。無下にはできないよな。な?」

 槌ノ子乃文は八草辷から視線を逸らした。鬼怒川晃に微笑んだ。

「そうですね。これに関しては隠す必要もございません。お話しいたしましょう」

 八草辷は槌ノ子乃文を見つめた。槌ノ子乃文は、八草辷が思っていたより、すんなりと頷いた。もう少し渋ると思っていた。張り合いがなかった。なんとなく不満であった。

 しかし、八草辷も案外あっさりとしていた。大抵の事は気にしなかった。

 八草辷は振り返り、鬼怒川晃を手招いた。

「鬼怒川。あんた、立ったまま長話の相手をする気か? 座れ、座れ。それとも、俺は一緒に座っていないほうがいいか?」

 鬼怒川晃は首を横に振り、八草辷の隣に腰掛けた。

「ありがとうございます。…スベルさん?」

「スベルって呼ぶな! ダメだ。やっぱりあんたとは座れねえ」

 鬼怒川晃が何度か謝ったが、八草辷は聞かなかった。鬼怒川晃をそのままに、八草辷はベンチの後ろに移った。


 鬼怒川晃と八草辷の位置は落ち着いた。その頃合いで、槌ノ子乃文は説明を始めた。

「つまるところ、姫は夢ノ国そのものです」

 八草辷は酷く苦い顔をした。

「つまるところってなんだよ。俺はなぞなぞに挑みたい訳じゃねえんだよ。初手で詰めるなよ」

 対し、鬼怒川晃は記憶に沿い、言葉を絞り出した。

「たしか、「夢ノ国の活動は姫の活動となる」でしたっけ?」

 鬼怒川晃は期待に満ちた目で槌ノ子乃文を見上げた。槌ノ子乃文は優しく微笑んだ。否定も肯定もしなかった。

「姫の活動は大きく二つ。記憶の編集と夢ノ国の編集です。

 記憶の編集とは、お客さまの記憶を編集する活動です。例えば、お客さまがお帰りになる際、夢ノ国に関する記憶を消し、現実に夢ノ国の存在が残らないように計らっております」

 八草辷が手を挙げた。

「質問です。どうして鬼怒川さまの記憶はバリバリに残っているんですか。姫さまはおサボりやがってんですか」

「ヒーさまが特待の対象だからです。第一、姫がおサボりやがっていても、スベルさんに咎める権利はありません」

「スベルって呼ぶな」

 次に鬼怒川晃が手を挙げた。

「質問です。どうして私は特待の対象なんですか?」

「姫がヒーさまを特待の対象としたからです。曰く、他の御客人と違い、ヒーさまには記憶を編集する必要がないのです」

 槌ノ子乃文は微笑んで見せた。鬼怒川晃は眉を顰めた。

 過去、鬼怒川晃は辛見伖に夢ノ国のことを話した。鬼怒川晃とて、十分、現実に夢ノ国の存在を残しうる。槌ノ子乃文の説明はズレていた。あるいは、意図的にずらされていた。

 いずれにせよ、鬼怒川晃は腑に落ちていなかった。一方、八草辷には心当たりがあった。

 槌ノ子乃文は説明を続けた。

「さて。二つ目の活動、夢ノ国の編集ですが、こちらも単純な話です。姫は夢ノ国の形を変えております。ヒーさまは風景が変化し続けていることにお気付きでしょうか」

「そうなのかな、とは思っていました。気のせいじゃなかったんですね」

 八草辷は感心の声を出した。

「よくわかったな」

「観覧車がわかりやすかったから」

「確かに。あのデカい奴が大胆に動いてりゃ気付くか」

 鬼怒川晃は槌ノ子乃文に視線を戻した。

「でも、どうして形を変えているのですか?」

「お客さまの活動を止めないためです」

 槌ノ子乃文は遠くを見た。

「夢ノ国はお客さまが活動を続けられるよう、お客さまの活動に応じ、形を変えております。例えば、光が必要なお客さまには光を、水が必要なお客さまには水を、人間が必要なお客さまには人間を、提供しております」

 槌ノ子乃文は顔を鬼怒川晃に向けた。

「そして、記憶の編集と夢ノ国の編集、この二つを合わせた活動は、俗に『夢』と云われておりました。「夢ノ国の活動は、原則、姫の活動となる」 これは、夢ノ国の活動が姫に受け持たれているという現状を、客観的に表した文言なのです」

 槌ノ子乃文による説明、終了。

 鬼怒川晃の感想。

「薄々感じてはいましたが、姫さまってすごい方なんですね」

「ええ。姫はすごいのです」

 槌ノ子乃文は満足げに頷いた。対し、八草辷は槌ノ子乃文から視線を逸らしていた。顔が青くなっていた。槌ノ子乃文は冷ややかに追い撃ちを掛けた。

「ですので、姫が無能など、間違っても言えぬのです」

 鬼怒川晃は不思議そうにした。

 ところが、八草辷は青かった。若気が至っていた。追い詰められれば、悪手でもなんでも打った。八草辷は無理に笑い、槌ノ子乃文に同調した。

「そうだよな。姫さまは偉大だよな。なにせ、夢ノ国の編集、それゆえに俺たちは存在するんだもんな!」

 鬼怒川晃は振り向こうとした。八草辷の言い回しが引っ掛かった。しかし、槌ノ子乃文はこれを妨げた。

「ところで、ヒーさま。私からも質問、よろしいでしょうか」

「え? はい。もちろんです」

 鬼怒川晃は振り返ることなく、槌ノ子乃文に向き直った。

 槌ノ子乃文は首を傾げた。微笑みは優しかった。

「現在、ヒーさまは夢ノ国におられて、よろしかったのでしょうか」

 瞬間、周囲の光や音が暴れだした。鬼怒川晃は思わず目を瞑った。



「鬼怒川さん?」

 鬼怒川晃の顔がゆっくりと上がった。先生や生徒たちは鬼怒川晃の方を見ていた。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫、です?」

 授業中であった。鬼怒川晃は我に返り、答え直した。

「あ。いえ。大丈夫です」

 これが、鬼怒川晃、三度目の居眠りであった。

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