第三話(1/2) 苦労ある教育役が

 夢ノ国には城がある。和風でなく西洋風。背はそこそこ高い。しかし、城より高い建物は、観覧車など、他にもいくつかあった。城自体がちんまりとしているため、敷地も大して広くない。その敷地は低い壁で囲われている。入り口として、城の正面だけは壁が途切れている。

 従業員以外立入禁止。お客さま、そちらへ入られては困ります。

 城の特長。例えば、城は作られて以来、夢ノ国に存在し続けている。夢ノ国が自身の形をどう変えようとも、城の姿が消えることはなかった。夢ノ国において、そのような建物は城と門だけであった。

 ただし、城と門、どちらも象徴の類いでなかった。象徴と呼ぶには控えめすぎた。もっとも、控えめであることが象徴でない根拠という訳でもなかったが。

 第一、『象徴』が一般大衆に媚びる必要などなかった。城の控えめさを不都合とする道理もなかった。城の存在意義が人間による評価で揺らぐこともなかった。

 ただただ、従業員たちが城の姿を想えれば、それだけでよかった。夢ノ国が城の実在根拠を失わなければ、それだけでよいのだ。


 そして、城には姫が居る。



 昼頃。夢ノ国中の従業員が城の大部屋に集められた。


 ちなみに、この瞬間も夢ノ国に客は来ている。従業員が居ても居なくても、本来的に問題はない。従業員の業務とは、そのような活動であった。夢ノ国へ至る客にとって、従業員は緑色を纏った人形に過ぎなかった。

 対し、姫の見た目は八、九歳の人間である。服装はまるでプリンセス。動きづらそうな、派手でない、華麗な装飾。しかし、姫は城から離れないため、この先、客がその姿を拝めることはないであろう。


 とかく、その姫が大部屋に入り、従業員たちの前に立った。

 姫は踵を上げ、大きく手を振った。

「後ろの皆さん、聞こえていますか? 姫でーす」

 背伸びと云うにはあまりに無力であった。それでも、姫の声に応え、いくつか手が上がった。

「あ。ありがとうございます」

 姫は踵を下ろし、一呼吸置いた。

「えー、皆さん。急に、それも二日連続で、集まっていただき、ごめんなさい。今日の用件は二つです」

 姫は大きすぎない声で続けた。

「一つ目。先ほど、ヒーさまから御要望を承りました。これにより、ヒーさまに対する特待を拡大することとなりました。現時点ではそこまでです。周知のほど、よろしくお願いします。以上が一つ目です」

 話を区切り、姫は大部屋の袖に目配せした。そこには八草ハッソウススムが居た。姫の視線を受け、ゆっくりと歩きだした。堂々としていた。何にも臆していなかった。

 八草辷は姫の隣で立ち止まった。従業員たちの方へ向いた。姫も正面に顔を向けた。

「こちら、八草ススムさんです。ついさっき従業員になりました。皆さん、仲よくしてあげてください」

 八草辷は黙したまま会釈した。パラパラと手を叩く音が聞こえだした。

槌ノ子ツチノコさん、槌ノ子さん。新入りが来ましたね」

 羽田ハネダ共輔キョウスケに話し掛けられ、槌ノ子ツチノコ乃文ノブンは小声で応じた。

「そうですね。もうそんな時期なんですね」

 他の従業員たちも大なり小なり戸惑っていた。

 そんな中、後ろの方で手が一つ上がった。姫はその従業員に声を掛けた。

「はい。なんでしょうか」

「すみません。名札に書いてある『辷』という漢字なのですが、読み方は『スベル』じゃないんですか? 『ススム』でよいのですか?」

「え?」

 姫は八草辷を見て、質問主を見て、八草辷を見て、従業員たちを一望した。そして、八草辷を見た。尋ねた。

「そうなんですか?」

 八草辷は煩雑そうな表情をしていた。

「いや。名前を決めたのは姫さまなんですし、姫さまがきっぱりと答えれば済む話じゃないですかね」

「そうですね。そうですよね。わかりました」

 姫は妙に意気込むと、再び従業員たちに正面を据えた。

「大丈夫です。八草スベルさんで間違いないです」

 物音一つしなくなった。

「あ。間違えた。八草ススムさんです!」

 物音一つなかった。



 放課後。二年三組の教室。鬼怒川キヌガワヒカルの席。

「ヒーちゃん!」

 辛見ツラミクラが駆けつけた。ところが、鬼怒川晃は手元から目を逸らさなかった。

「はいはい。支度をしているので、少し待っていてくださいね」

「ヒーちゃん、冷たい。久々の再会なのに」

 辛見伖はわざとらしくショックを受けた。鬼怒川晃は動じなかった。

「お昼一緒に居なかっただけでしょう?」

 鬼怒川晃は辛見伖に視線を向けた。視線に大した気迫はなかった。

「それも、辛見さんが寝過ごしてくださった御蔭で」

 鬼怒川晃は辛見伖から視線を外した。帰り支度に戻った。辛見伖はいじけていた。

「だってさ、だってさ。一日振りに眠ったんだよ? そりゃあ、寝過ごしますさ。むしろ、昼休みのうちに目覚めたことを褒めてほしいくらいだよ。さあ、褒めて?」

「でも、辛見さん。起きるなり涙目で睨んできたじゃない?」

 辛見伖は口を尖らせた。

「だって、起こしてくれてもよかったじゃん。ヒーちゃんの意地悪。意地悪イーちゃん」

「はいはい」

 鬼怒川晃は鞄を閉め、立ち上がった。

「お待たせしました」

 辛見伖は応えなかった。そっぽを向いていた。鬼怒川晃は机と椅子の位置を正し始めた。

「それで、辛見さん。体調はどう?」

 辛見伖は鬼怒川晃に顔を向けた。輝かしい笑顔であった。

「心配してくれるの? ヒーちゃん、優しい! 優シーちゃん!」

「はいはい」

 鬼怒川晃は適当な返事をした。しかし、その場から動かなかった。椅子に手を添えたまま俯いていた。

 辛見伖はきまり悪そうに笑んだ。

「うん。バッチリです」

「そう」

 鬼怒川晃は歩きだした。辛見伖はいそいそと鬼怒川晃の隣に並んだ。

「それとね。ヒーちゃんの話も覚えてるよ。バッチリです」

「まったく。存外大変だったんだから」

「私の知らない所で、いったい何が!」

「最初、槌ノ子さんには「難しい」って言われてしまったの。でも…」

 辛見伖が鬼怒川晃の話を止めた。

「『槌ノ子さん』って、昨日言ってた従業員さんだよね? 三人で自己紹介し合ったって話だったよね」

「え? …ええ」

 辛見伖は記憶の正否を確認し、改めて安堵した。対し、鬼怒川晃はこの問答に違和感を覚えた。

「…でも、そこに羽田さんがやって来たの」

「羽田さん?」

「そう。羽田さん」

 鬼怒川晃はそこで言葉を切った。辛見伖の顔を見つめた。

 辛見伖は首を傾げた。

「あれ。羽田さんって誰だっけ?」

 辛見伖は微笑んでいた。淀んだ表情であった。辛見伖の記憶には失われた部分があった。

 鬼怒川晃も微笑んで見せた。

「今朝初めて会話した人。羽田さんも従業員さんだって言ってた」

「あ、そうなんだ。へー」

 辛見伖は澄んだ微笑みを取り戻した。

 鬼怒川晃は前を向いた。

「それで、その羽田さんが「大丈夫」って言って、大丈夫になったの」

「わあ。いきなり説明が雑になった。「大丈夫」しか言ってない」

 辛見伖は手を挙げた。

「じゃあ、質問です。なんで羽田さんは大丈夫って言えたんですか?」

 鬼怒川晃の調子は変わらなかった。

「夢ノ国のお偉いさんが大丈夫って言ったらしいの」

「どこまでいっても『大丈夫』が続くだなんて! なんて素晴らしい場所なのでしょう、夢ノ国!」

 辛見伖は楽しそうであった。そんな辛見伖の隣で、鬼怒川晃は辛見伖と違う事を考えていた。

「ねえ、ヒーちゃん?」

 辛見伖は笑った。

「夢ノ国ってさ、まるでさ、楽園みたいだね」



 夢ノ国は自身の存在が現実に残ることを嫌った。

 この事を根拠の一つとして、夢ノ国は客の記憶を編集している。現在、例外は鬼怒川晃だけである。そして、その鬼怒川晃も、夢ノ国について詳しく知らなかった。

 鬼怒川晃が知っている事は、例えば、夢を見ると夢ノ国に関する話を忘れること。遠くに居る人間たちが作り物でないこと。見える風景が固定されていないこと。それくらいであった。知っている事には、鬼怒川晃の推測も含まれていた。

 推測を確かなものにするため、夢ノ国に着くと、鬼怒川晃は槌ノ子乃文の下へ向かっていた。

 と云うか、鬼怒川晃はそこ以外に行ける場所を知らなかった。行く当てがなかった。


 鬼怒川晃は件の場所に着いた。ベンチはあった。しかし、鬼怒川晃の視界に槌ノ子乃文は居なかった。

 代わりに、鬼怒川晃は八草辷を見つけた。

 八草辷は突っ立っていた。体の後ろで左手が右手首を掴んでいた。深く帽子を被っていた。目を閉じていた。その佇まいは、八草辷の関わりづらさを増長させていた。

「あの。すみません」

 恐る恐る、鬼怒川晃は八草辷に声を掛けた。人見知りしていた。

 ややこしい事を云えば、これは『人見知り』でない。ただ、客観的には同じ活動であるため、『人見知り』と表現しておく。

 八草辷はすうっと目を開いた。鬼怒川晃に顔を向けた。

「いかがされましたか?」

 八草辷は優しく微笑んだ。柔らかな物腰であった。

 ところが、鬼怒川晃は八草辷に不気味さを感じた。急いで本題に入った。

「えっと。槌ノ子さんって、今どこにいらっしゃいますか?」

「槌ノ子さん?」

 心なしか、八草辷の表情が強張った。

「お客さまが仰る「槌ノ子さん」というのは、従業員である『槌ノ子乃文』のことでしょうか」

「え? はい。そうです」

 八草辷の目から温かさがスッと引いた。鬼怒川晃は小声で「たぶん」と付け足した。

 八草辷は顔を伏せた。実際は少し俯いただけであったが、帽子のつばに隠れ、表情はすっかり見えなくなっていた。

 鬼怒川晃は何も言えなかった。声を掛けるべきか判断しかねていた。

 鬼怒川晃が迷っているうちに、八草辷は顔を上げた。

「あのさぁ…」

 八草辷の表情には、穏やかさも丁寧さも優しさも、残っていなかった。荒々しく、粗雑で、嫌気の差している態度であった。

「あんたら、いい加減にしてくれます? 何度も何度もさぁ。手を替え品を替えさぁ。

 そも、服装をどうにかしろよ。作業服を着ろよ。そういう恰好じゃあ、お客さんと見分けがつかねぇんだ」

 鬼怒川晃は状況を理解できていなかった。それでも、八草辷の文句は続いた。

「そもそも、従業員の場所なんぞ、俺に聞いても仕方ねえだろ。と言うか、俺に聞く必要がないだろ。それとも、なんだ。槌ノ子だけは見つからねぇのか。神出鬼没か。幻の従業員か。だったら賞金でも懸けとけよ」

 鬼怒川晃はようやく、自身が誤解されていることに気付いた。

「あ。いえ。私は従業員じゃないです」

「従業員じゃなかったら、お客さんか? そんな訳ないだろ。だったら、あんた、なんで従業員の名前を知ってんだよ」

 鬼怒川晃は何も答えなかった。

 鬼怒川晃が従業員の名前を知っている理由は、鬼怒川晃が特待の対象であるから、である。鬼怒川晃もこの事を知っていた。答えを持っていた。問いに答えられた。

 ところが、鬼怒川晃は何も答えなかった。知っている事でなく、知らない事に意識が向いていた。鬼怒川晃が特待の対象である理由を、鬼怒川晃は知らなかった。根拠を持ち合わせていなかった。記憶になかった。考えてもわからないはずの事を、鬼怒川晃は考え始めていた。


 ところで、八草辷は文句を吐き続けていた。

「そもそもそも、槌ノ子は従業員としてどうなんだ。なんで奴に教育係を任せてんだよ」

「教育係?」

 鬼怒川晃はその単語に反応して顔を上げた。八草辷はまだ何か言いたげであった。しかし、次に来る言葉は、八草辷のものでも鬼怒川晃のものでもなかった。

 槌ノ子乃文のものであった。

「どうかしましたか、スベルさん。声なんて出して」

「誰がスベルだ!」

 槌ノ子乃文が現れても、八草辷は止まらなかった。

「あんたら、いい加減にしろよ? みんな仲よく俺の名前を間違えやがって。こいつに至っては「私は従業員じゃない」だぜ? いったいどうなってんだ」

 八草辷は鬼怒川晃を親指で指した。槌ノ子乃文は鬼怒川晃と目が合い、黙って御辞儀した。鬼怒川晃も静かに御辞儀で応えた。そして、槌ノ子乃文は頭を上げ、八草辷に答えた。

「いえ。この方はお客さまですよ?」

「じゃあ、なんであんたのことを知ってんだよ。マジで賞金が懸かってんのか?」

「スベルさん、『ヒーさま』って覚えていますか?」

「誰がスベルだ」

 八草辷は少し大人しくなった。

「まあ、覚えてるよ。特待の対象になったお客さんだろ? そいつがどうしたんだ? そいつに賞金が懸かったのか?」

 槌ノ子乃文は歩きだし、鬼怒川晃の隣で立ち止まった。

「こちら、ヒーさまです」

「…鬼怒川晃です」

 鬼怒川晃は軽く頭を下げた。

 八草辷は鬼怒川晃を見つめ、しばらく固まっていた。情報処理を行っていた。それが済むと、帽子を脱ぎ、深く頭を下げた。

「大変失礼いたしました」



 槌ノ子乃文は鬼怒川晃にベンチへ腰掛けるよう促した。それから、八草辷を鬼怒川晃の前へ連れて来た。八草辷は不機嫌そうに余所を向いていた。

 槌ノ子乃文は八草辷の紹介を始めた。

「こちら、今日から加わった新入りです。まだ教えていない事も多いため、業務を満足にこなせる状態ではありません。加えて、このような性格ですので、対応に不備を生じさせる可能性がございます。その際は教育役である私までお伝えください。しかし、新入りに対する活動は我々も初めてでして、色々と試行錯誤をしております。それゆえ、ヒーさまに御迷惑をお掛けすることがあるやもしれません。その点、どうか御了承ください」

 鬼怒川晃はおずおずと頷いた。槌ノ子乃文は頷き返した。

「ありがとうございます。それで、遅くなりましたが、彼女の名前は『八草スベ…」

「誰がスベルだ!」

 途端、八草辷は槌ノ子乃文に吠えた。そして、鬼怒川晃を見下ろした。

「俺は八草ススムだ。あんたが客だろうとヒーさまだろうと、誰だろうと何物であろうと、呼び違いは許さねえ。わかったか!」

 鬼怒川晃は小さく頷いた。

「わかりました。八草さんですね」

「…おう」

 君子、危うきに近寄らず。鬼怒川晃はむやみに危険を冒さなかった。限度を弁えていた。優等生であった。危うきに近寄ったことがなかった。限度を知らなかった。この境界もなかった。

 八草辷は不服そうであった。ただ、鬼怒川晃の在り方にケチを付けようとも思わなかった。

 しかし、槌ノ子乃文は八草辷を咎めた。八草辷の鬼怒川晃に対する態度は、十分に小言の対象であった。

「無礼ですよ。辷さん」

「槌ノ子さん?」

 八草辷は拙い笑顔を槌ノ子乃文に向けた。

「読み方に関して四の五の言っている時に、漢字表記はないんじゃないっスか? せめてルビを振るとかしましょうよ。これ、音の出る絵本とかじゃないんスよ。稚拙な小説の一文なんスよ。

 槌ノ子さん。それを踏まえて質問です。『辷』をなんて読んだ?」

「『スベル』」

「槌ノ子、てめえ!」

 八草辷は槌ノ子乃文に掴み掛かった。ところが、暴力描写となる前に遮られた。

「待って。私のために争わないで!」

「…誰だよ」

 辛見伖であった。

「いや、誰だよ」

 辛見伖は振り返った。視線の先には羽田共輔が居た。羽田共輔は一同に一礼だけして去っていった。辛見伖はその後ろ姿に大きく手を振った。

 鬼怒川晃は辛見伖に尋ねた。

「辛見さん。あの人が誰だかわかるの?」

「羽田さんでしょ? 今朝も会ったよね?」

 辛見伖は八草辷の前を通り過ぎ、鬼怒川晃に近づいた。辛見伖の表情はにこやかであった。

 鬼怒川晃には疑問が浮かんでいた。しかし、難しく考えることをやめた。後で槌ノ子乃文から聞くことにした。

 今、槌ノ子乃文に疑問を投げているのは八草辷であった。

「なあ、槌ノ子。こいつ、何奴?」

 そんな八草辷に、辛見伖が声を掛けた。

「なあなあ、嬢ちゃん。なあ、嬢ちゃん!」

 鬼怒川晃は静かに腰を上げた。こっそりとその場から離れた。

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