第二話(1/2) 親愛ある友好が

 一年ほど前


 春。一年一組の教室。

 順番が回り来て、辛見ツラミクラは元気よく立ち上がった。

「一年一組、辛見伖です。目標は毎日休まずに登校することです。一年間よろしくお願いします」

 辛見伖は無邪気に笑んでいた。


 辛見伖という人間は大変素直であった。

 学習活動や学級活動に積極的で、友達作りや人付き合いにも前向きであった。

 朝は定刻の十五分前までに登校し、他生徒と談笑した。興味・関心を豊富に抱えていた。先生や生徒の話を熱心に聞いていた。理解が難しければ難しい顔になり、内容がわかれば明るい顔になった。当然、授業も真面目に受けていた。

 辛見伖は誰からも好かれやすい性格をしていた。社会に好ましい人間であった。


 率直に云えば、辛見伖という人間は、たいそう変であった。

 辛見伖は暗い雰囲気に合わせることをしなかった。雨空を見て「晴れればいいのに」と笑える人間であった。雨の日特有の湿っぽさを味わえない人間であった。天性陽気であった。空気が読めなかった。

 辛見伖は知らない話にも混ざっていった。「権利がない」と言われれば、「どうすればよいのか」と聞ける人間であった。勇敢であった。引き下がることを知らなかった。図々しかった。自らの分を弁えていなかった。できていなかった。

 辛見伖は元気であった。その事を、生徒たちは煩わしく感じ始めた。

 学校における辛見伖の成績は悪くなかった。人並みであった。あり余る興味・関心を以てして、人並みであった。先生たちは、辛見伖を意欲・態度の伴わない生徒だと捉えるようになった。

 そして、以上のように思われていることを、周囲の人間たちがそう思ったと自覚するより先に、辛見伖自身が感づいてしまった。辛見伖は誰からも好かれやすい性格をしていた。社会に好ましい人間であった。


 次第に、辛見伖は独りを選ぶようになった。

 登校しても会話に交ざらなくなった。人付き合いを避けるようになった。時折、他生徒から話し掛けられることもあったが、辛見伖はできる限り普通に、自分を抑えて、交友関係を処理した。

 興味・関心を隠すようになった。授業中を含め、顔を机に伏せる時間が長くなっていった。伴い、活動は消極的になった。意欲・態度はいっそう影を潜めた。意思が減っていった。



 そんなある日、辛見伖は朝早くに目を覚ました。日が昇ったばかりであった。二度寝すら許されそうであった。それでも、辛見伖は起き上がった。急かされるように支度をし、外へ出た。別段、理由はなかった。季節の割に風が冷たかった。

 校舎が開いていることにむしろ驚きつつ、辛見伖は一年一組の教室へ向かった。静かであった。一年一組の教室には、まだ誰も登校していなかった。

 辛見伖は教室に入らなかった。かと云い、帰途に就いた訳ではなかった。ただただ時間を潰したかったのだ。早くから独り、教室でお座りしていることに、魅力を感じなかったのだ。独りでいた場所に人間の流れ込むことが嫌であった。

 辛見伖は隣の教室に目を遣った。早朝の学校を見て回ることも乙だろうな、と。なんとなく何気なく、馴染みもない場所へ足を伸ばすことにした。教室の名札には「一年二組」と記されていた。


 さて、一年二組の教室には鬼怒川キヌガワヒカルが居た。早くから一人、椅子に座っていた。ただ、手持ち無沙汰にお座りしているのでなく、本を読んでいた。辛見伖は鬼怒川晃の姿勢に惹かれた。歩きだしてすぐ、足が止まった。

 本を読みたかったならば、図書室へでも行けばよかった。そうでなかったならば、校内散策でも続けていればよかった。人間と話したかったにしても、もっと話しやすい相手くらい、どこにでも居ただろう。しかし、辛見伖は鬼怒川晃に近づいた。おそらく、根拠はなかった。

「何か御用でしょうか?」

 鬼怒川晃は本に目を向けたまま、辛見伖へ声を掛けた。

「ハソス!」

 不意を衝かれ、辛見伖は大袈裟なまでに驚いた。

「わ、私は辛見伖です! 一年一組に所属していて…。その、怪しい者ではございません。ご安心あれ!」

 辛見伖の言動は、本来の辛見伖そのものであった。つまり、普通でなかった。

 そんな辛見伖をちらりとも見ず、鬼怒川晃は本を読み進めた。

「それで、御用件は?」

 鬼怒川晃の対応は距離感を生んでいた。相手にされぬような態度でいた。ところが、その頃の辛見伖にとっては、人間と話すこと自体がハードルであった。したがって、鬼怒川晃の冷血さなど、気にならなかった。

「御用はございません。ごめんなさい!」

 一方、辛見伖の対応は、鬼怒川晃の態度と関係なく、距離感が膿んでいた。相手にされぬような態度であった。ところが、その頃の鬼怒川晃にとっては、人間と話すこと自体が壁であった。したがって、辛見伖の変哲さなど、気にならなかった。

 ゆえに、鬼怒川晃の全方位に対する拒絶は、皮肉な事に、辛見伖の活動を無差別的に許容してしまっていた。

「そうですか」

 鬼怒川晃は片時も本から目を離さずに応答していた。だが、それすらも、結果として辛見伖の興味を引く原因となった。

「あの。何を読んでいるんですか?」

 辛見伖はとてとてと鬼怒川晃に近寄った。鬼怒川晃は辛見伖を一瞥し、読んでいたページを見せた。

「あ。難しいタイプの本だ」

「そうでもないですよ」

 鬼怒川晃は本を手元に戻し、顔を辛見伖に向けた。鬼怒川晃の表情は薄かった。

「と言いますか、どこを見て「難しい」と判断したのですか」

「教科書より文字が詰まっているかどうか」

 辛見伖は目を丸くして答えた。鬼怒川晃は辛見伖から視線を外した。本に注意を戻した。

「道徳的ですね」

「えへへ」

 辛見伖は照れ笑いをした。そして、首を傾げた。

「道徳的?」

 鬼怒川晃は読書を再開していた。加えて、一年二組の教室には他の生徒が入って来た。

 忘れかけていた緊張が、辛見伖の下に帰って来た。

「あ。私、もう行かなきゃ。お邪魔しました」

 辛見伖は反射的に教室を出た。

 一年一組の教室には依然と人間が居なかった。辛見伖は席に着いた。机の上に腕を組み、顔を伏せた。

「…えへへ」

 一度だけ笑った。


 翌朝。辛見伖は目覚まし時計を止めた。まだ夜は明けたばかりであった。辛見伖は前の日より丁寧に身支度し、外へ出た。季節の割に空気が澄んでいた。

 校舎はしっかり開いていた。辛見伖は一年一組の教室を覘いた。人間は居なかった。辛見伖は一年二組の教室へ向かった。

 はたして、そこには鬼怒川晃が居た。教室で一人、本を読んでいた。辛見伖は、意味もなく湧き上がった喜びを抑えながら、恐る恐る教室に入った。

「何か御用でしょうか?」

 鬼怒川晃は本に目を向けたまま声を掛けた。辛見伖は扉から二、三歩しか進めていなかった。

「いや、あの。相変わらず御用はないのですが、つい来ちゃいました。はい。すみません」

 辛見伖は頭に手を添え、おどけるように謝った。鬼怒川晃は来訪者に違和感を覚え、顔を上げた。そして、辛見伖を眺めた。

 睨まれていた訳でもなかったが、辛見伖はその場で動けなくなった。当てられた視線に思い当たる節がなかった。前日、鬼怒川晃はなかなか顔を上げなかった。そんな鬼怒川晃に凝視される根拠が、辛見伖にはわからなかった。

 ついに、鬼怒川晃は呟いた。

「あ。昨日の」

「え。今気付いたんですか」

 辛見伖の肩が少し下がった。

「ごめんなさい。人を識別することが得意でないものでして」

 鬼怒川晃は本を閉じ、机の端に置いた。

「それで、何さんでしたっけ?」

「心してお聞きください?」

 辛見伖は鬼怒川晃のそばまで近寄った。

「私は辛見伖です。得意な事は楽しむこと。好きな事は食べること、遊ぶこと、眠ること、です。よろしくお願いします」

 辛見伖は誇らしげに述べた。鬼怒川晃はちらっと目を逸らし、再び辛見伖に視線を戻した。

「鬼怒川晃です。得意な事は数えるほどもありませんが、苦手な事は数え切れないほどあります」

 鬼怒川晃は口を閉ざした。辛見伖は何度か瞬きをした。

「えっと、そうですか」

「はい」

「じゃあ、質問です」

「なんでしょうか」

「鬼怒川さんの好きな事ってなんですか?」

「好きな事…」

 鬼怒川晃は視界の隅に目を遣った。考え込んでいるような、あるいは、何も考えていないような表情であった。

 辛見伖は不思議そうに本を指差した。

「読書は? 昨日も本を読んでいたけど、読書は好きな事じゃないんですか?」

 鬼怒川晃は本に手を伸ばし、親指でページをパラパラした。

「休み時間など、したい事がない時は読んでいますが…。そうですね。それで読書を好きな事と言えるのであれば、その解釈で構いません」

「じゃあ、します。私は鬼怒川さんが読書好きだと解釈します」

 辛見伖は何度か頷いた。鬼怒川晃は辛見伖から顔を逸らし、本から手を引いた。

「そうですか」

 鬼怒川晃の表情や態度は変わらなかった。辛見伖はそんな鬼怒川晃をつまらなそうに眺めた。黙り込んでしまった。

 鬼怒川晃は恐る恐る顔を上げた。何も言わなくなったのに、何もしなくなったのに、それなのに去らない辛見伖を不思議に思った。鬼怒川晃はそんな人間を知らなかった。

 しかし、鬼怒川晃が顔を上げるより先に、辛見伖は振り返った。一年二組の教室に生徒が入って来た。

「それじゃあ、私、行きますね。また明日!」

「え? ええ。機会があれば」

 辛見伖は逃げるように教室を出て行った。鬼怒川晃は本を手に取った。しばらく脳を文字で濯いだ。それから、再び本を読み始めた。


 翌朝。辛見伖は目を覚まし、体を起こした。目覚まし時計はまだ鳴っていなかった。辛見伖はより丁寧に身支度し、鏡に一度だけ微笑み掛けた。そして、元気よく飛び出していった。

 辛見伖は一年一組の教室を通り過ぎ、真っ直ぐ一年二組の教室へ向かった。

「おはようございます。また来ちゃいました」

 辛見伖は顔を覗かせた。鬼怒川晃は顔を上げた。その日も、教室で一人、本を読んでいた。

「ああ。昨日の」

「覚えていてくれたんです?」

 辛見伖は机たちの間を縫いつつ、鬼怒川晃に駆け寄った。机の前で屈んだ。目が輝いていた。

 鬼怒川晃は腕を縮め、本を引いた。

「ええ。あなた、異様に元気ですから」

「えへへ。そうですか。えへへ…」

 辛見伖は乾いた声で笑った。次第に顔が下がっていった。

「私、元気なんですよね。人と居ると楽しくなっちゃって、つい、はっちゃけちゃうんです。それで気付いたら、いつも独りではしゃいでて」

 鬼怒川晃の目は本に向いていた。辛見伖は俯いたまま続けた。

「でも、大人しくしていると、なんか息苦しくなっちゃって。私って、私にとっても周りにとっても、居なくていいんじゃないかなって思えちゃって。みんなが上手に楽しんでいるのを見ると、すごいなって思っちゃうんです」

 言葉が途切れた。鬼怒川晃は本のページを捲った。辛見伖は小さな声を出した。

「私、うるさいですよね? 迷惑じゃないですか?」

「ええ。それなりに」

 即答であった。辛見伖は再び「えへへ」と笑った。下を向いたままであった。鬼怒川晃は本から目を逸らさず、言葉を吐いた。

「第一、人間なんてそんなものですよね。みんな一概に鬱陶しくて、面倒で、どうでもいい」

 辛見伖は鬼怒川晃を見上げた。涙目であった。

「わからないです」

 鬼怒川晃も辛見伖を見た。

「どこら辺が、でしょうか?」

「全部です!」

 辛見伖は立ち上がった。

「だって、みんながみんな鬱陶しい訳、ないじゃないですか。誰かと一緒に居て、ありきたりだった時間が楽しくなったこと、なかったんですか?」

 鬼怒川晃の表情が陰った。それでも、辛見伖は止まらなかった。

「みんながみんな面倒な訳、ないじゃないですか。誰かに会いたいからって、いつもと違う事をした経験、ないんですか?」

 それでも、鬼怒川晃は辛見伖から視線を外さなかった。

「みんながみんなどうでもいいとか、言わないでよ。私、嬉しかったんですよ? 鬼怒川さんは私の話でもなんだかんだ聞いてくれて、反応してくれて。

 鬼怒川さんにとってはどうでもいいのかもしれませんけど、でも、言わないでよ。口に出さないでよ。私に気付かせないでよ」

 辛見伖は泣いてしまっていた。袖で涙を拭っていた。そんな辛見伖に、鬼怒川晃は言った。

「人間ですね」

 辛見伖は鬼怒川晃を見た。微笑んでいた。鬼怒川晃は本に目を落とした。

「私も、人間が嫌いな訳じゃないんです。ただ、人間と関わるよりは本を読んでいたい、それだけなんです」

 再び鬼怒川晃は顔を上げた。以前と同じく、無表情であった。微笑みは消えていた。

「あなたはどうですか? あなたは、あなたの言う『好きな事』と人間、どちらのほうが好きですか?」

 辛見伖は怯えるように後退りした。

「わからないです」

「…そうですか」

「私、もう行きます」

 辛見伖は逃げるように出て行った。一年二組の教室は、鬼怒川晃が一人の空間に戻った。


 それ以降、辛見伖が一年二組の教室へ行くことはなくなった。ただ単に、辛見伖の早起きが続かなかったのだ。

「でも、鬼怒川さんは、最後まで私の話を聞いてくれていたんだよね」

 辛見伖は目覚まし時計に呟いた。



 木曜日


 鬼怒川晃は目覚まし時計を止める。体を起こす。布団を出る。制服に着替える。鞄の中身を確認する。鞄を持って部屋から出る。

 鬼怒川晃は額に手の甲を当てた。まだ少し頭痛が残っていた。

 鞄を居間に置く。洗面所で身支度をする。台所で食事の支度をする。ランチボックスを鞄に入れる。椅子に座る。手を合わせる。

「いただきます」

 箸と茶碗を手に取り、食べ物を食べ始める。

 頭痛はすっかり治まっていた。


 完全に悪手であるが、鬼怒川晃は頭痛の原因を思い返していた。

 頭が痛みだしたのは、いつからか。夢ノ国に居る人間が本物であると思い始めた頃からであった。それまで、遠くを蠢く人間たちは幻か何かだと思っていた。信じていた。ところが、本物だと云われた。群衆の一点一点が生物だ、と。各々が各々の意思に従った活動を成しているのだ、と。そして、それを否認する術が鬼怒川晃にはなかった。

 夢ノ国で、鬼怒川晃は人間の真贋を疑い始めた。その疑心は槌ノ子ツチノコ乃文ノブンによる説明を聞く中で生まれた。しかし、その説明を促したのは鬼怒川晃であった。因果応報。誰も悪くない。何もおかしくない。答えを得るまでに悩んだか、答えを得てから悩んだか。その違いである。元より、簡単に呑み込めやしなかったのだ。

 鬼怒川晃は答えを受け取った。その一片が消化不良を起こした。一遍に頬張るべきでなかった。質問コーナーとて、第一編は慎んで終うべきであった。鬼怒川晃が聞きたかった事は『夢と記憶の関連性』だけであった。辛見伖の様子を見ていると、関連があるように思えて仕方なかったのだ。


 ふと、鬼怒川晃は気付いた。昨晩の夢には辛見伖が現れなかった。夢ノ国で辛見伖を見掛けなかった。

「…まあ、夢は結局夢でしょうけど」

 手を合わせ、一言。

「ごちそうさまでした」

 鬼怒川晃は立ち上がる。食器を台所に移す。洗う。再び洗面所で身支度。洗面所を出て、居間で鞄を拾い、玄関へ向かう。靴を履く。鞄の中身を確認する。扉を開ける。

「いってきます」

 鬼怒川晃は学校へ歩いて行く。片道十五分の距離。

 登校路の景色は季節によって色を変えた。日光の差す角度、漂う空気の温度、生きているものの存在感。

 ただ、季節を問わず、人間は少なかった。それが根拠の一つであった。それがために、鬼怒川晃は朝早く登校していた。

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