第一話(2/2) 座睡ある授業が

「とは言え、本当に同じ夢を見るなんて」

 鬼怒川キヌガワヒカルは夢ノ国に居た。前回と同じ場所に居た。しかし、鬼怒川晃は気付いていないであろうが、周囲の風景は僅かに変わっていた。

 鬼怒川晃は辺りを見回した後、おもむろに歩き始めた。


 少し進むとベンチがあった。その先には槌ノ子ツチノコ乃文ノブンも居た。鬼怒川晃はベンチの前を通り、槌ノ子乃文に近寄った。

「すみません」

 鬼怒川晃は槌ノ子乃文に声を掛けた。槌ノ子乃文は鬼怒川晃に顔を向けた。

「いかがされましたか?」

「あの。ここって夢ノ国ですか?」

 槌ノ子乃文は口を噤んだ。不思議そうに、不可解そうに、不都合そうに眉を顰めていた。その表情は鬼怒川晃の不安を掻き立てた。

「…違いましたか?」

 鬼怒川晃はおずおずと尋ねた。槌ノ子乃文は優しく微笑んだ。

「いえ。ここは夢ノ国です。お客さまは間違えていませんよ」

 そして、槌ノ子乃文は笑顔のまま首を傾げた。

「ただ、お客さま。どうして『夢ノ国』という名称を用いたのでしょうか?」

「お昼前、ここが夢ノ国だと聞いたので」

「昼前…。となりますと、私のことも記憶に残っているのでしょうか」

「はい。あ、でも、お名前はお聞きしてない、です?」

「そうでしたね。そうですね」

 槌ノ子乃文は左胸の名札に手を添えた。

「私は…」

「あ。ヒーちゃん!」

 槌ノ子乃文はそこで言葉を切り、後方に顔を向けた。鬼怒川晃も声の聞こえた方を見た。視線の先からは、辛見ツラミクラが駆けて来ていた。鬼怒川晃は少し驚いた。

「辛見さん。どうしてここに?」

「ん? 知らないお兄さんに付いて来た」

 辛見伖は鬼怒川晃のそばで止まり、振り返り、大きく手を振った。

 辛見伖が手を振った先、そこにも従業員が居た。槌ノ子乃文と同じく、緑色の作業服と帽子を身に着けていた。名札も身に付けていたが、鬼怒川晃には読めなかった。距離があった。

 その従業員は槌ノ子乃文と御辞儀を交わし、向こうへ歩き去った。

「彼は羽田ハネダ共輔キョウスケです。羽田さんも従業員ですので、不審がる必要はありませんよ」

 槌ノ子乃文は改めて鬼怒川晃の方へ向いた。

「それと、私は槌ノ子乃文と申します。以後、機会がございましたら、よしなに」

「ご丁寧にどうもです。私は辛見伖です。こちらこそ、よろしくです」

 鬼怒川晃は辛見伖の横顔を一瞥した。それから、槌ノ子乃文に軽く頭を下げた。

「鬼怒川晃です。よろしくお願いします」

「『ヒーちゃん』って呼んであげてください」

 鬼怒川晃はついに辛見伖を睨んだ。ところが、槌ノ子乃文は辛見伖の提案に肯定的であった。

「しっくりきますね。しかし、お客さまを『ちゃん』付けで呼ぶ点は頂けません」

「じゃあ、『ヒーさま』で」

「採用させていただきます」

「ありがとうございます」

 辛見伖と槌ノ子乃文が頷き合う隣で、鬼怒川晃は不服そうな声を出した。

「辛見さん。さっきから言いたい事がたくさんあるのだけれど、とりあえず一つ。勝手なあだ名を広めないでいただけるかしら」

「そうだよね。ヒーちゃんを『ヒーちゃん』と呼ぶ人は私だけじゃないとね」

「いや、正直、辛見さんが呼ぶこともやめてほしいのだけど」

「ヤダ」

 辛見伖は笑顔で答えた。鬼怒川晃は納得していなかった。ところが、鬼怒川晃はそれ以上何も言わなかった。

 代わりに口を開いたのは、槌ノ子乃文であった。

「そろそろお時間ですね」

「時間?」

 辛見伖は首を傾げた。槌ノ子乃文は頷いた。鬼怒川晃は耳を塞いでいた。鬼怒川晃の頭では、すでに騒音が響いていた。


 水曜日


 鬼怒川晃は目覚まし時計を止めた。思い切り伸びをし、ゆっくりと体を起こした。布団を出た。

 制服に着替え、鞄の中身を確認する。持ち物の用意自体は前の晩に済ませてあるため、時間は掛からない。鬼怒川晃は鞄を持ち、部屋から出て行く。

 鞄を居間に置き、洗面所に入る。鬼怒川晃の身支度は必要最低限である。一片にして十全である。これにも時間を掛けず、鬼怒川晃は洗面台の前から去る。そのまま台所に入り、朝食を用意する。昼食も用意する。できあがると、朝食は居間の机に置く。昼食は鞄に入れる。

 鬼怒川晃は椅子に腰を掛けた。朝食を前にした。手を合わせ、一言。

「『ヒーさま』って何よ」


 夢ノ国では辛見伖が戸惑っていた。

「あれ? ヒーちゃん?」

 鬼怒川晃が辛見伖の隣から消えていた。辛見伖は周囲を見回した。鬼怒川晃の姿を探した。

「ご安心ください」

 槌ノ子乃文は辛見伖をなだめた。

「ここは夢ノ国ですから、ヒーさまはお目覚めになっただけです」

 辛見伖は槌ノ子乃文の顔を見た。

「じゃあ、ヒーちゃんはここから居なくなったってだけなんですね?」

「そうですね。現実に帰る時間だったそうです」

「なるほど」

 辛見伖はとりあえず納得した。ふらふらとベンチに腰を下ろした。

「ところで、辛見さまはよろしいのですか?」

「何が、ですか?」

 槌ノ子乃文は言い辛そうに続けた。

「ヒーさまはお目覚めになりましたが、辛見さまはここに居てよろしいのでしょうか? その、遅刻とか…」

「よろしいのです。大丈夫なのです」

「そうですか」

 槌ノ子乃文もそれ以上はとやかく言わなかった。辛見伖自身がそれでよいと言うならば、槌ノ子乃文に言える事はなかった。この話を続けられるのは辛見伖だけであった。

 その辛見伖が槌ノ子乃文に尋ねた。

「大丈夫、ですよね?」

 直後、辛見伖の姿も消えた。

 鬼怒川晃も辛見伖も居なくなったため、槌ノ子乃文は歩きだした。しかし、すぐに立ち止まり、振り返った。ベンチには辛見伖が座っていた。

「辛見さま、大丈夫ですか?」

 槌ノ子乃文は思わず声を掛けた。辛見伖は笑顔で答えた。

「大丈夫です。大丈夫です」

 そして、笑顔のまま首を傾げた。

「ところで、どちら様でしたっけ?」

 辛見伖の姿は再び消えた。槌ノ子乃文は、今度こそ、その場を後にした。



 鬼怒川晃は二年三組の教室に到着した。鬼怒川晃はまず中を覗き、次に教室の名札を確認し、それから教室に入っていく。鬼怒川晃が登校する時刻、教室に人間は一人も居ない。

 入って右手が教卓、左手が生徒の机々である。鬼怒川晃の席は、教卓を教室の前方とした時、左後ろの方に位置する。教卓の右後ろにも扉があるが、鬼怒川晃は右前の扉を使う。おそらく深い意味はない。ちなみに、辛見伖の席は教室の右前にある。

 鬼怒川晃は自身の席に行き着くと、鞄を机の上に置く。鞄を開き、すぐ必要になる物を取り出し、鞄を閉める。机の左に掛ける。鬼怒川晃は席に着き、鞄から出した物を机の中にしまう。そして、一人、読書を始める。しばらくすると生徒がちらほら現れだすが、本を読んでいれば気にする必要もなかった。

 定刻に近づき、先生が教室に入る。生徒は一人一人の席に着く。鬼怒川晃は本を閉じる。ただ、先生は腕時計を見つめるだけで何もしない。生徒たちや鬼怒川晃は、掛け時計や前の扉に注意する。秒針や他教室の喧噪と違う、非善的な駆け音を待つ。

 今日はいつもより少しだけ早かった。ガラガラと扉を開け、辛見伖は先生に挨拶した。

「おはようございます!」

 辛見伖は先生の溜め息に軽く頭を下げ、自身の席に着いた。机に顔を伏せた。

 チャイムが鳴る。先生は点呼を始めた。



 午前最後の授業が終わると、鬼怒川晃は少し椅子を引く。鞄を膝の上に置き、机の上を片付け始める。

「ヒーちゃん、お昼だよ!」

「はい、はい」

 鬼怒川晃はランチボックスを出し、鞄を机の左に掛け直した。辛見伖は弁当箱を机に置き、近くの椅子を拝借してきた。

「「いただきます」」

 鬼怒川晃はランチボックスの蓋を開けた。辛見伖は風呂敷を解き、嬉しそうに箸を持った。

「いやー、ホントに。お昼のために学校へ来ていると言っても、もう過言じゃないよね」

「いや。授業を受けるためでしょう。本当は、ね」

「授業? 私、居眠ってたから、そういうのわかんない」

 辛見伖は楽しそうに首を傾げた。鬼怒川晃は何か言いたげな表情のまま、サンドイッチを一口齧った。その表情を見て、辛見伖は顔を顰めた。

「あー。ダメだよ。ご飯は美味しそうに、感謝の心を持って頂かなきゃ」

「それを言うならば、辛見さんも。授業は感謝の心を持って受けなければ、ダメじゃない?」

「授業?」

 辛見伖は笑顔で首を傾げた。鬼怒川晃は目を瞑り、サンドイッチを咥えた。


 鬼怒川晃が一切れ目のサンドイッチを食べ終える頃、辛見伖は三段弁当を片付け終えていた。

「ごちそうさまでした」

「相変わらず、食べるの速いよね」

「えへへ」

「すごく消化に悪そう」

「えへへへへ」

 辛見伖は幸せそうに笑った。その笑顔を見て、鬼怒川晃はある事を思い出した。

「そうそう。昨日言っていた夢、また見たの」

「夢?」

「そう。夢」

 鬼怒川晃は二切れ目のサンドイッチを手に取った。

「昨日会った従業員さんと新しい従業員さん、あと、辛見さんも出て来たの」

 鬼怒川晃は辛見伖の顔に視線を戻した。ところが、そこにあった笑顔は引き攣っていた。泣き出しそうですらあった。

「ヒーちゃん、夢ってなんの話だっけ?」

 相変わらず鬼怒川晃は淡々としていた。

「ほら。昨日、私が授業中に居眠りしたじゃない?」

「うん」

「その時に見た夢の話」

「あ。聴いた。聴いたけど、…あれ?」

 辛見伖は自身の頭に手を添えた。辛見伖の記憶には話の存在だけが残されていた。話の内容が失われていた。

 一方、鬼怒川晃は槌ノ子乃文の言動を思い返していた。「どのみち、お忘れになるのですから」と、槌ノ子乃文は言っていた。加えて、鬼怒川晃が夢ノ国や槌ノ子乃文を忘れていないことに驚いていた。

 鬼怒川晃は記憶と夢になんらかの関連があることを疑い始めた。しかし、あくまで妄想だった。まだ、夢ノ国を物だとは考えていない。

「ヒーちゃん、ごめんね」

 鬼怒川晃は再び辛見伖を見た。辛見伖は涙目であった。

「私、ヒーちゃんの話、忘れちゃって。ヒーちゃんの話は忘れたくないのに…。ごめんなさい。ごめんなさい」

 辛見伖は弱々しく謝った。そんな辛見伖に、鬼怒川晃は小さく手を振った。

「いや、私は気にしていないよ。話を全部覚えておくって、むしろ、すごい事だと思うし」

「でも、でも。ヒーちゃん、怖い顔だったし、何も言ってくれなかったし、怖かったし。あと、怖かったし…」

 辛見伖は袖で涙を拭った。鬼怒川晃は目を伏せた。

「うん。ちょっと考え事をしていたの」

「考え事?」

 辛見伖は首を右に傾げた。鬼怒川晃は一度頷いた。

「槌ノ子さんは、私が夢ノ国を覚えていたことに驚いていたの。それに、最初に会った時も、忘れることが当然みたいな言い方をしてた。たぶん、夢ノ国と記憶になんか関連があるんだよ」

 鬼怒川晃は顔を上げた。辛見伖に声を掛けられたことを切っ掛けとし、鬼怒川晃は思考を口に出してしまっていた。鬼怒川晃がその事に気付いた時、辛見伖は首を左に傾けていた。

「どゆ事?」

「あー。つまり、夢と記憶に関係があるのかなーって思ったの。まあ、夢は結局夢だから、気にしなくても大丈夫だよね!」

 鬼怒川晃は恥ずかしそうに話を切り上げ、サンドイッチを咥えた。

 辛見伖は黙っていた。


 この日、午後の授業で辛見伖が眠ることはなかった。



 先生の合図を受け、号令係が活動をした。

「ありがとうございました」

 鬼怒川晃は椅子に腰を下ろし、帰り支度を始めた。椅子を少し引き、膝に乗せた鞄を開けた。所作省略。閉めた。鬼怒川晃は立ち上がった。

「お待たせ」

 ここでようやく、鬼怒川晃は異変に気付いた。いつもと変わらず、辛見伖はそこに立っていた。ただ、何も言わず、顔を伏せていた。

「辛見さん、大丈夫?」

 辛見伖は俯いたままであった。

「ふっふっふ」

 俯いたまま、わざとらしく笑った。そして、辛見伖は顔を上げた。満面の笑みであった。

 辛見伖が元気そうだったので、鬼怒川晃は机と椅子の位置を正し、辛見伖に挨拶した。

「それでは、辛見さん。また明日」

「待って。ちょっと待って」

 辛見伖は急いで鬼怒川晃を追った。

「ほら。ヒーちゃん、問題です。今の私はさっきまでの私と一味違います。ニューワタシです。何が違うでしょうか?」

「呼称」

 鬼怒川晃は前を向いたまま答えた。辛見伖は鬼怒川晃の顔を覗き込んだ。

「いや、そこじゃなくて。ほら、私を見て何か思わなかった?」

 辛見伖は鬼怒川晃の前に立ちはだかり、腕を広げた。鬼怒川晃も立ち止まった。

「故障?」

「え。どこが?」

「頭」

「ひどい! その上、見た目でもない」

 辛見伖は不機嫌そうに呟いた。

「まあ、正解っちゃ正解だけど」

「正解なの…。まさか、誇張でしょ?」

 鬼怒川晃は不信気味に尋ねた。辛見伖はにこりと笑った。

「ふっふっふ。正解は『午後の授業で居眠らなかった』でした」

 辛見伖は楽しそうに回転した。ところが、鬼怒川晃の暗い表情が目に映り、自転の真似事をやめた。

「どうしたの?」

「眠らなかった? あの辛見さんが授業で起きていた? それは、つまり、寝不足? いや、眠れず?」

「否、眠らず」

 辛見伖は冷めた視線を鬼怒川晃に送った。今度は、鬼怒川晃が微笑んだ。

「ごめんなさい。あまりにも意外だったから」

「もう。それだと私が眠ってばかりみたいじゃん」

 辛見伖は頬を膨らませて歩き始めた。鬼怒川晃は辛見伖に続いた。


「と言うか、私の話、まだ本題に入ってないんですけど」

 辛見伖は人差指で公転の真似事をしていた。

「そうなの?」

「ふっふっふ。聞いて? 驚いて?」

 辛見伖は振り返った。意味ありげに笑んでいた。

「ニューワタシはヒーちゃんの話を忘れません」

「そうなの?」

 辛見伖は後ろを向いたまま、器用に歩いた。

「私、お昼の話、覚えてます。従業員さんや私が夢に出て来たとか。『槌ノ子さん』っていう人が居るだとか」

「そうなの」

 鬼怒川晃の顔が下がった。辛見伖は再び前を向いた。歩調を緩め、鬼怒川晃の隣に並んだ。

「ヒーちゃん?」

 辛見伖が声を掛けると、鬼怒川晃は顔を上げた。

「ごめんなさい。なんでしたっけ?」

「ううん。まだ何も言ってないよ。ヒーちゃんは何を考えてるのかなーって思って」

「ああ。いや、大した事は考えていないの。夢と記憶の関連性が真実みを帯びたなーって思って。でも、大した事じゃないから」

「そう?」

 辛見伖は目を輝かせた。

「じゃあさ、じゃあさ。夢の話、もっと聴かせて? 私が忘れちゃった話も、もう一度聴かせて? 今度は忘れないから。お願いですから。後生ですから」

 辛見伖は軽く頭を下げ、頭の上で両手のひらを合わせた。

「そんな大仰に頼まなくても。私の話でよろしければ何度でも話しますよ」

「ホント? ありがとう!」

 辛見伖は嬉しそうに笑った。鬼怒川晃は思い出すように話し始めた。

「変な夢を見たの。夢ノ国っていうテーマパークみたいな場所で、槌ノ子さんっていう従業員の人に会ったの。今朝は辛見さんも夢に出て、辛見さんと私と槌ノ子さんで自己紹介し合ったの」

「え。ヒーちゃんも自己紹介したの?」

 辛見伖の反応に、鬼怒川晃は目を丸くした。

「え? ええ」

「あのヒーちゃんが自己紹介? あのヒーちゃんが? それは、つまり、異状? いや、成長?」

「否、平常。ここ、そんなに動揺するとこ?」

「ごめんなさい。あまりにも意外だったから」

「辛見さんは私をなんだと思っているの」

 鬼怒川晃は溜め息をついた。

「辛見さん。初対面の相手に変な紹介とか、本当にやめてね?」

「ヒーちゃんが嫌がることは基本的にしないよ。私は自分の身よりヒーちゃんが大切ですから」

「はい、はい」

 鬼怒川晃は困ったように微笑んだ。辛見伖も鬼怒川晃に微笑んで見せた。



 鬼怒川晃は夢ノ国を歩いていた。今回も風景は変わっていた。遠くで人間たちが蠢いていた。

「あ。槌ノ子さん」

 鬼怒川晃は槌ノ子乃文を見つけ、駆け寄った。槌ノ子乃文も鬼怒川晃に気付いた。

「これは、ヒーさま。いかがされましたか?」

 槌ノ子乃文はにこやかに挨拶した。ところが、鬼怒川晃は凍り付いたかのように足を止めた。

「本当に『ヒーさま』と呼ぶんですか」

「え? ええ。皆、しっくりくると申していました」

 鬼怒川晃の表情が悴んだ。

「「皆」というのは、昨日居た羽田さんのこと、ですよね?」

「羽田さんを含めた、夢ノ国一同ですね。特に、姫が気に入っておりました」

 槌ノ子乃文は笑顔で答えた。鬼怒川晃の顔はいっそうと熱を失っていた。

「あの、槌ノ子さん。お願いですから、勝手なあだ名を広めないでください」

「ご安心ください。勝手なあだ名ではありません。今や夢ノ国の公認する名称です」

「勝手に公認しないでください」

 鬼怒川晃は項垂れた。


 鬼怒川晃はベンチに座り、空を見上げた。空は七色であった。七色が不規則に蠢いていた。それでも、鬼怒川晃の気持ちは不思議と落ち着いていった。そして、鬼怒川晃は槌ノ子乃文に話し掛けた根拠を思い出した。

「あの、槌ノ子さん。質問、よろしいでしょうか」

「はい。なんなりと」

 槌ノ子乃文は鬼怒川晃に視線を戻した。逆に、鬼怒川晃は槌ノ子乃文の見ていた方へ目を遣った。

「これは夢ですか?」

「ええ。『夢』です」

 槌ノ子乃文は頷いた。鬼怒川晃は質問を続けた。

「この夢と辛見さんの記憶って、何か関連があったりするのでしょうか」

「ええ。ありますよ」

 槌ノ子乃文は頷いた。

「夢ノ国に関する記憶は夢ノ国が消しております。

 夢ノ国とは『万物が休眠により至る場所』のことです。まあ、城や門も作られましたので、今はテーマパークと名乗ったほうが適切かもしれませんが。

 ともあれ、夢ノ国の存在が現実に残りますと、それなりに不便があるのです」

「…万物?」

 鬼怒川晃は槌ノ子乃文に視線を向けた。

「もしかして、昨日ここに居た辛見さんって、本当に辛見さんだったんですか?」

「ええ。そうですよ」

 槌ノ子乃文は頷いた。鬼怒川晃はさっきまで見ていた所に目を遣り、指を差した。そこには、人間たちが行き交っていた。

「あれも、作り物でなく、実際の人間だったりします?」

「ええ。申し訳ございません。仰る通りです」

 槌ノ子乃文は鬼怒川晃に謝った。槌ノ子乃文の表情は強張っていた。

 鬼怒川晃はゆっくりと体を縮こませ、こめかみに手を添えた。その状態で質問を続けた。

「あの。私から聞いておいてなんなのですが、こういう事って機密事項だったりしないんですか? 存在が残ることも避けているのに、それ以上の事を明かしてよかったんですか? 問えば答えが頂けるような事だったんですか?」

「いいえ。機密事項ですよ。他言無用ですよ。それがために、夢ノ国は記憶を編集しております」

 槌ノ子乃文は再び遠くを見た。

「ですが、先ほど、「ヒーさまは特待の対象である」と姫が言い渡しましたので」

「姫?」

 鬼怒川晃はなんとか顔を上げた。

「姫って誰ですか?」

 槌ノ子乃文は鬼怒川晃に微笑んだ。

「お時間ですね」

 鬼怒川晃の頭に騒音が響きだした。

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