形ある夢が

背向ヤタラ

第一話(1/2) 座睡ある授業が 

 して、少女は『夢ノ国』に至った。


 茶色一色のレンガ路、整列する植木、七色の空。遠くでは、人間たちが不規則に行き交っていた。建築たちは景色に溶け込んでいた。さらに遠く、観覧車や城などの背高い建物たちは、互いの領域を譲り合いながら佇んでいた。

 そんな風景の真ん中で、少女は立っていた。

「ここ、どこ?」

 少女には記憶がなかった。夢ノ国に居る根拠を失っていた。少女は今がいつだかも、自身がなんだかも忘れていた。

 それでも、少女は軽やかに歩き始めた。不意に両腕を広げ、くるくると回ったりした。少女のそばに人間は居なかった。


 少し進むとベンチが居た。少女はベンチの前で立ち止まり、一礼し、腰を下ろした。遠慮がちに、静かに、当然のように座った。

 そして、空を見上げた。空は七色であった。七色が蠢いていた。混ざり合っていた。濁りつつあった。

 その光景を見て、少女は二つの声を思い出した。

「ヒーちゃん、お昼だよ!」

「あの…」

 少女はそのまま空を見つめていた。しかし、それ以上の事を思い出すことはなかった。その前に、少女は空から目を逸らした。何度か首を回した。上を向き続けると首が痛くなるらしい。

 顔を正面に戻してすぐ、少女はある物を見つけた。立ち上がった。トコトコと歩きだした。


 褪せているような、新しいような。そんな緑色を纏った作業服と帽子であった。別段目立つ飾りはなかったが、作業服の左胸には名札が付いていた。名刺サイズ。大きくはない。

 少女が向かった先に居た従業員は、槌ノ子ツチノコ乃文ノブンであった。

「あの。すみません」

 少女の声に気が付くと、槌ノ子乃文は少女に顔を向けた。

「いかがされましたか?」

「えっと…」

 少女は、自分から話し掛けておきながら、ひどく戸惑ってしまった。

 少女は目的があって槌ノ子乃文に声を掛けた訳ではなかった。近くに人影を見つけた。何やら突っ立っている。じゃあ、話し掛けてみよう。と、それだけであった。

 かと云い、槌ノ子乃文の活動に対する興味もさほどはなかった。話し掛けた拍子に、話し掛けた根拠を手放してしまった。何に興味を持ったのか、忘れてしまった。あるいは、興味を持ったことすら忘れていた。

 つまるところ、少女は頭が真っ白になっていた。

 それでも、少女は一つ思い出した。

「あ。ここはどこ、ですか?」

「ここは夢ノ国です」

 槌ノ子乃文は笑顔で答えた。しかし、その答えでは少女を納得しえなかった。少女は肩を竦め、眉を顰めた。

「あの。夢ノ国って誰ですか?」

 槌ノ子乃文の笑顔は変わらなかった。

「お気になさる必要はございません。どのみち、お忘れになるのですから」

 槌ノ子乃文は笑顔であった。少女はいっそう顔を顰めた。

 ところが、この時、少女の頭に声が響いた。

鬼怒川キヌガワさん、大丈夫ですか?」


 少女は目を覚ました。はっきりしない思考のまま顔を上げた。先生は心配そうに尋ねた。

「…大丈夫ですか?」

 少女は小さく返事をし、頷いた。その頃合いでチャイムが鳴った。先生もむやみに少女を咎めず、号令係に合図した。

「ありがとうございました」

 少女を含めたクラス一同、立ち上がり、先生に御辞儀した。



 少女は学生である。その高校の二年三組に属する、鬼怒川キヌガワヒカルである。

 鬼怒川晃は椅子に腰を下ろした。いまだに思考も視界もぼんやりとしていた。そのまま、なんとなく目の前を眺めていた。生徒たちが行き交っていた。色々な人間が混ざり合っていた。七色が蠢いていた。鬼怒川晃は小さく首を傾げた。

「ヒーちゃん、お昼だよ!」

 鬼怒川晃は顔を右に向けた。そこに立っていたのは辛見ツラミクラであった。辛見伖は鬼怒川晃と目が合うと、楽しそうに弁当を掲げた。

「ヒーちゃん。お昼だよ?」

 遅ればせながら、鬼怒川晃は辛見伖の発言を理解した。机に目を遣った。筆記用具や教科書が広がっていた。

「ああ。ごめんなさい。今、片付けるから」

「ううん。ゆっくりでいいよ」

 辛見伖は近くの椅子に座った。鬼怒川晃にキメ顔を向けた。

「私、食べるの速いから」

 ところが、鬼怒川晃は辛見伖を見ていなかった。物を机や鞄にしまっていた。辛見伖はきまり悪そうに笑んだ。

「いつも机借りちゃって、ごめんね」

「別に構わないよ」

 鬼怒川晃は辛見伖を見ないまま答えた。

「辛見さん、恐ろしい勢いで来るんだもの」

「えへへ。それ程でもないよ。ちょっと人よりスタートが早いってだけですから」

「早いことには違いないんだけど、フライングはダメだからね?」

「えへへ」

 鬼怒川晃は片付けを終え、ランチボックスを取り出した。辛見伖も三段弁当を机の上に置いた。

「でも、さ。今日は私が早いってだけじゃないよね。ヒーちゃん、さっきの授業で居眠ってたもんね」

 鬼怒川晃の動きがピシリと止まった。辛見伖はうきうきと弁当箱の包みを開いていた。

「ダメだよ。授業は真面目に受けなくちゃ」

 鬼怒川晃は溜め息をつき、ランチボックスの蓋を開けた。中にはサンドイッチが二切れ入っていた。

「それを辛見さんに言われる日が来ようとは」

「これをヒーちゃんに言える日が来ようとは」

 合掌。

「「いただきます」」

 辛見伖は箸を持つと話を再開した。

「でも、ホント珍しいよね、ヒーちゃんが授業中に寝るの。初めての経験じゃないですか?」

「そうね。学校で寝たことはなかったかも」

 鬼怒川晃はサンドイッチの一つを手に取った。

「ところで、辛見さんは起きてたの?」

 鬼怒川晃に問い掛けられ、辛見伖は一生懸命に頷いた。食べていた物を呑み込んだ。一呼吸置いた。そして、不思議そうに答えた。

「そうなの。なんだか眠くなくって。しょうがないから羊の数を数えてたんだけど、結局眠れなかったの」

「授業を受けなさいよ」

「八十一皿まで数えたのに眠れなかったの。どう思う?」

「授業を受けなさい、と思う」

 辛見伖は視線を手元に落とした。

「あのね、ヒーちゃん。違うんだよ」

 辛見伖は箸でおかずを転がし始めた。

「私は眠いから居眠りをするんじゃないんだよ。授業の内容がわからないから居眠りをするって訳でもないんだよ。居眠りがしたくて居眠りをしている訳でもないんだよ。…違うんだよ。起きていたくないから、眠るんだよ」

 辛見伖は俯いたままであった。鬼怒川晃は一切れ目のサンドイッチを食べ切った。辛見伖に答えた。

「うん。授業を受けなさいよ」

 辛見伖は顔を上げた。妙に得意顔であった。

「ヒーちゃんにはまだ早かったかな。

 まあ、一度目の居眠りでチャイムを迎えられたことは褒めてあげてもいいよ。でもね、ビギナーズラックはそう長く続かないよ! 私くらいになると、授業中ずっと居眠っていてもバレないんだから」

 対し、鬼怒川晃は呆れ顔であった。

「なんだか言いたい事がたくさんあるけど、とりあえず一つ。辛見さんの居眠りはバレてるから」

「…そうなの?」

 鬼怒川晃は頷きだけで応えた。ところが、辛見伖はすぐに目を輝かせた。

「なるほど、なるほど。つまり、私の居眠りは公認? いや、黙認?」

「否、放任よ」

 鬼怒川晃は言い放った。ようやっと、辛見伖は大人しくなった。


 鬼怒川晃は二切れ目のサンドイッチを手に取った。

「そう言えば。さっき、変な夢を見たの」

 辛見伖は頷いた。

「わかる。居眠りで見る夢っていいよね」

 そして、辛見伖はミニトマトを一つ口に入れた。鬼怒川晃はサンドイッチを見つめたまま続けた。

「いや、そうじゃなくて。抽象的な話題じゃなくって、具体的な、さっき見た夢の話。なんと言うか、夢の内容をはっきり覚えていて、とにかく変な感じなの」

「わかる、わかる。私にもそう思っていた時期がありました」

 辛見伖はもう一つのミニトマトを口に入れた。鬼怒川晃は手元から辛見伖に目を移した。

「テーマパークみたいな場所で、従業員みたいな人と話したの」

 辛見伖は弁当箱を三段に戻し、手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

「辛見さん、聞いてる?」

 鬼怒川晃の視線は冷ややかなものに変わっていた。しかし、辛見伖の様子は穏やかであった。

「安心して、ヒーちゃん。私はね、ヒーちゃんの話なら全部こぼさずに聴くし、いつまでも忘れない。たとえ聴き逃すことがあっても、その時に聴き直す。もし忘れそうになっても、…それでも、なんとかして忘れないでいる。そのための努力なら、私、なんだってできるから」

 辛見伖は弁当箱を風呂敷で包みながら続けた。

「夢の事も気にしなくって大丈夫だよ。夢は結局、夢だから。テーマパークも従業員さんも実在しないだろうし、しばらくすればちゃんと忘れるよ。

 だから、そうだね。放課後まで忘れてなかったら、もう一度聴かせてよ。その時は一緒に悩みからさ」

 辛見伖は「ね?」と鬼怒川晃の顔を覗いた。鬼怒川晃は視線だけ逸らし、サンドイッチを咥えた。辛見伖は楽しそうに微笑んだ。


 この日、午後の授業で鬼怒川晃が眠ることはなかった。対し、辛見伖は全ての授業で眠っていた。



 放課後も、昼休みと同様に、辛見伖は鬼怒川晃の席へ飛んでいく。

「ヒーちゃん、帰ろ!」

「ちょっと待ってね。まだ支度を済ませてないから」

「えー、遅いよ。さっきまで何していたのさ」

「何って、授業を受けていましたが?」

 鬼怒川晃は椅子を少し引き、机の左に掛けていた鞄を膝の上に移した。

「むしろ、何をどうしたらそんなに早く来られるの? チャイムすら鳴り終わっていなかったのだけれど」

 教科書や筆入れを鞄に入れながら、鬼怒川晃はQを投げた。辛見伖は「何を今さら」と言わんばかりの表情で答えた。

「そりゃあ、まあ。早め早めの行動を心掛けましょう」


 鬼怒川晃は立ち上がり、鞄を肩に掛けた。

「お待たせ」

「ううん。私も今来たとこ」

「それが事実なら、わざわざ「お待たせ」なんて言わないから」

 鬼怒川晃は机と椅子の位置を正しながら、思い出すように話し始めた。

「そうそう。まだ覚えてるよ、夢の内容」

「夢?」

「そう。夢」

 鬼怒川晃は辛見伖に目を遣った。辛見伖は難しい顔で足下を見つめていた。

「どうしたの?」

 辛見伖は顔を上げた。いつになく、その表情は暗かった。

「夢って、なんの話だっけ?」

 鬼怒川晃は平然としていた。

「ほら。昼休みに話した、と言っても、あまり話してないけど。…私が居眠りした時に見た夢の話です」

 鬼怒川晃の顔は少し赤くなった。辛見伖の顔は青白くなっていた。

「うん。ヒーちゃん、寝てた。私、話、聴いた。でも、あれ?」

 鬼怒川晃は鞄を抱え直し、歩き始めた。

「まあ、いいよ。別に、大した話じゃなかったし」

 辛見伖は慌てて追いかけた。

「ヒーちゃん、ごめんね。私、ヒーちゃんの話、忘れちゃって」

「気にしてないから」

「でも、ヒーちゃんの顔、赤いよ? そんなになるまで怒らせちゃって。本当にごめんね」

 鬼怒川晃は立ち止まった。そして、ゆっくりと振り返った。

「あのね、辛見さん。大丈夫だから。大した事は話してなかったし、むしろ、それで覚えていたらすごいと思う」

「でも、ヒーちゃんの顔、赤いよ?」

「あのね、辛見さん。一般的に言って、授業中に居眠りをすることは恥ずかしい事なの。顔が赤くなるくらい、恥ずかしい事なの」

 鬼怒川晃の顔はいっそう赤くなっていた。辛見伖は鬼怒川晃の意図を汲み取ろうとした。

 三秒間、沈黙。

 ふと、辛見伖は優しく微笑んだ。

「なら、次からは恥ずかしくない居眠りをすればいい」

「はい。この話、終わり!」

 鬼怒川晃は前へ向き直った。早足で進み始めた。辛見伖もトトトと歩きだした。鬼怒川晃の隣に並んだ。

「ううん。終わりじゃない。終われない。ヒーちゃんの話、もう一度聴かせて?」

 鬼怒川晃の歩調が緩まった。

「いや、本当に。大した内容じゃないよ?」

 鬼怒川晃は申し訳なさそうに言った。しかし、辛見伖の勢いは治まらなかった。

「それでもいい。私が聴きたいの。覚えていたいの」

「本当に大した話じゃないのだけれど、ね?」

 辛見伖の熱意に晒され、鬼怒川晃は観念した。

「たしか、夢ノ国っていうテーマパークみたいな場所で、従業員みたいな人と会ったの」

「ふむ」

「で、その事をよく覚えていますって話」

「ふむふむ」

「私からは以上です」

「ふむふむふむ」

 辛見伖は何度か頷いた。そして、言い放った。

「ホントに大した話じゃないね」

 鬼怒川晃の歩調が早まった。辛見伖は急いで謝った。

「ごめんなさい。待って。今のは嘘。ほんの冗談。本当は面白かった。実に興味深かった。学術的価値が見出せそうだった。だから、待って。もっと聴かせて!」

 辛見伖は再び鬼怒川晃に追い付いた。鬼怒川晃は辛見伖に顔を向け、意地悪く笑んだ。

「まあ。また同じ夢を見たら、ね?」

「うん。お願い」

 辛見伖は笑顔で頷いた。


 火曜日

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