第9話

 早坂、という表札のある家は、大きくはなく住みやすそうで、手も金もかかっているようだった。庭にはふんだんに緑があり、薔薇が咲いている。北斗と鏡花と御堂と若い刑事の四人で訪ねると、鳥井祥子こと早坂理香子はまず鏡花を見て微笑んだ。

「ああ須藤さん。久しぶり。大きくなって」

「お久しぶりです」

 鏡花はおとなしい挨拶をした。鳥井は彼女を抱きしめた。

「会いたかったの。なんだか顔を見るとほっとする」

「ありがとうございます」

 借りてきた猫のような鏡花の様子に、御堂と北斗は顔を見合わせた。北斗は、そういえば大学時代教授にも気に食わなければ平気で噛みついていたが、年上の女性には妙に大人しかったことを思い出した。逆らう必要も特にないからだと思っていたが、そうでもないのかもしれない。

 鳥井祥子は白髪の混じった豊かな黒髪を短く切り、黒いブラウスに黒いスカート。大きな赤いイヤリングを付け、いくつも大ぶりの指輪を嵌めている。唇は真っ赤だが、目元の化粧は薄い。インターネットで確認した写真の通りで、おそらくいつもこういう服装なのだろう。あまり若いころの姿が想像できない人だなと北斗は思った。ひとつのキャラクターとして外見が完成されている。

 居心地のいい居間に通され、紅茶とクッキーを出された。カップはおそらくアンティークの繊細なもので、刑事二人は恐縮していた。六脚ある椅子もアンティークらしく、カップも一つ一つ買い集めたのかばらばらだが、統一感がある。一応六人掛けのテーブルは、五人集まるといささか狭い。

「大変なことになってしまって」

 鳥井は悲しみよりもまだ困惑の中にいるようだった。小さく首を振る。

「早坂が亡くなってることは……正直、そんなに驚かなかったんだけど……そのあとがもう……どういうことなのかしら」

「失踪に気づかれた経緯をもう一度お伺いしても?」

 御堂が尋ねる。その横で、若い刑事がメモを取る。そういう役割分担のようだった。

「ええ」

 頷いたあと、軽く額を抑えた。

「早坂は集中したいことがあるとちょくちょく軽井沢に行っていたの。私も同行することもあったけど、基本一人。あの人は自分のことは自分でできる人で、ときどき静かな環境が必要だったみたい。東京にいると、ちょっと出てこないかとか、何かと声が掛かるでしょう」

 鏡花は微妙な顔をした。賛同できないのだろうか。鳥井は気にせず話を続ける。

「私は私でいろいろと出かけたり人と会ったりするのが好きだから。子供もいないしお互い好きに暮らしてたわけ。不干渉だったってだけで不仲ってわけじゃないの。全然ね」

 警察にそれを納得させるのが難しかったのか、強調した。御堂は頷く。

「仲のいいご夫婦だったんですね」

「べたべたした関係ってわけじゃなかったけどね。だから失踪したときも……ああ、順に話したほうがいいでしょう。ええと……そう。三年前の八月も、思い立って一人で軽井沢に行くって言いだした」

「前からの計画ではなかった?」

「ええ。そういうふうに使いたいからそんなに遠くない場所に別荘を買ったの。週に一回クリーニングに来てもらう契約で。思いついたらいつでも使えるようにって」

「買ったのは早坂氏の意向で?」

「そう。具体的にどういう物件にするかや内装は私の意見のほうが強いぐらいだけど、あそこに別荘を持つのは早坂が言いだしたこと」

「なるほど」

「八月の十九日に新幹線や管理会社にも自分で手配して別荘に行った」

「別荘に行ってからの連絡は?」

「ついたときについたって連絡があったけど、それだけ。『あ、そう、頑張ってね』ぐらい」

「いつごろ帰る予定だったんですか?」

「九月の一日に知人と観劇と食事の予定があったから、それまでに帰るとは思ってた。でも早坂がどう思ってたのかはわからない。気分転換がてら二、三日で帰るつもりだったのかもしれないし、じっくり仕事しようと思っていたのかも。ちゃんと仕事はしてたみたいだけどね」

「原稿を送っていますね」

「ええ」

 御堂はちらりと鏡花のほうを見た。鏡花はなんの反応もしなかった。

「そちらの原稿は見ましたか?」

「しました。三年前にパソコンの中身は手当たり次第に確認した」

「チャットの内容も?」

「一応ね」

「早坂氏の文でしたか?」

 鳥井は深くうなずいた。

「間違いなく早坂の文。あれが誰か他の人の仕業だったら本気で天才だと思う。人を殺しても許されるぐらいの才能」

「そんなものはありませんよ」

 御堂の鳥井はあいまいに微笑んだ。鏡花はぼんやりと座っていた。

「あなたは二十五日に軽井沢に向かったんですよね」

「二十四日のお昼に蔵書のことで電話したんだけど出なくて。メールも送ったけど返信がないの。管理会社に電話して確認してもらったんだけど別荘にはいないって言われて。合鍵を持っているから中に入って見てくれたんだけど見当たらないって。どうしていいのかわからなくて。とりあえず一旦新幹線で軽井沢に行ってみたの」

「なるほど。警察に連絡したのも二十五日でしたね」

「そう。ちょっと思いついて一人で出かけたにしてもおかしいなと思って。スマートフォンや財布や鍵はなくなっていたけど、いつも外出のときには持っている鞄も置いたままだったから。でも……あの人はそんなに稚気のあるタイプじゃないけど、やっぱりああいう仕事でしょう。悪ふざけかもとは思った」

「なるほど」

「やっぱり失踪したなんて信じたくないし……なんでもないって思いたかったんだけど」

「そうでしょうね」

 鳥井は悲し気に微笑んだ。

「べたべたしてないけどいい関係の夫婦って信じていて、ちょっと自分でもいい気分でいたのがね、急にみっともなく思えてきて。だって早坂のこと、本当は何にもわかってないんですから。同じ業界にいるし交友関係もかぶっているからお互いのこともなんとなくわかったつもりでいても、いざそんなことになったら早坂が失踪なんてするわけないとも言えないし、かといって最近ここが変だったとも言えないし。情けなくて。夫婦って、結局そういういざというときのためにあるものじゃないのとも思ってね。それなのにあの人のこと、何にも確証がもてないんだから」

 首を振った。

「警察に通報はしたけど、向こうもそれほど熱が入ってないようだったし、こちらとしても強く捜査してくれとも言えなかった。ただ何かあったら連絡してくれるって約束して、」

 言葉を切って、四人に微笑む。

「何かあって、この間連絡してもらった……。そういうこと」

 御堂は事務的な無表情で頷いた。

「なるほど。早坂氏が別荘で誰かと会うとか、そういう話は聞いていない?」

 鳥井は頷く。

「ええ。私は本当に原稿をしに行ってると思ってたし。軽井沢に特に知人がいたとかそういうこともなかった。いつもどこに出かけるでもなく一人で原稿や読書をしてたんじゃないかな。あの人も私ほどじゃなくても東京だと社交的なほうだけど、軽井沢は本当にこもるための場所だった」

「本当に一人だったんでしょうか?」

「ああ……女がいたかもってこと? そういうことがないとは言い切れないけど、私が突然向こうに行ってもそんな気配はなかったから……少なくとも愛人とあそこで入り浸ってたってことはないでしょうね」

「なるほど。早坂氏は殺害されたと考えられますが、動機に心当たりはありますか?」

 鳥井は即座に首を振った。

「それがまったくないの。誰にとってもいい人だったとは思わないけど……年相応の嫌なおじさんだった……ね?」

 突然鳥井に視線を送られて、クッキーをかじっていた鏡花は目を見開いた。

「須藤さんどう思う?」

「どう……と言われても……」

 鏡花は生真面目に考え込むように眉を寄せた。

「うーん……やっぱり、早坂雄一郎は文章がよかったですよね。あまり個性はないけどすっと読みやすいし状況が理解しやすくて。書き出しもかっこいい。語彙は日常的なんだけどこの表現は見たことのないっていう絶秒さで、どういう話なのか読んでみようって気になるんですよね。ちょっと読むつもりがどんどん進んで、いつのまにか読み終わっちゃう。心情描写も流れを切らないのに要所を抑えているというか、油断しているところに来るちょっとした一文でぐっと内容の深みが出て、さりげない上手さがありますよね。キャラクターもいい。設定だけだとわりとありがちですごく個性があるわけじゃないんだけど、些細な描写に実在感があって、かつそういうところが伏線になってるみたいなの、読者としても印象的だしいいんですよね。読みやすさを優先させながら予定調和にならない絶妙さがまさにエンタメ小説のお手本って感じで」

 突然饒舌になる鏡花に、鳥井は気が抜けたように笑った。

「……ありがとう。でもそういうことじゃないんだけど」

「プロットやトリックは……っていうと、とにかく多彩ですよね。早坂雄一郎と言えばこのネタ、みたいなものがいい意味でなくて、次は何を仕掛けてくるのか作家の名前で読めないっていう。それでいてどの話もネタの活かし方がうまいんですよね。そうくるのか、って。わりと新鮮というか稚拙なぐらいの発想を、熟練の技で書くみたいな。『夢のなかの夢』とか、あのトリック他の人が書いたらちょっと……いやかなり、ばかばかしくなると思うんですよね。それを堅実な書き方と人物造形でひとつの物語として成立させている。ぎりぎりの筆致の安定とそういうアンバランスさが魅力だなと思っていました」

 淡々とまくしたてる鏡花に鳥井が尋ねる。

「それで、それを書いてる本人はどう?」

「ええと……小説は好きでした」

「ふふ……ありがとう。小説以外は?」

 鏡花はちいさく唇を尖らせた。そうすると本当に幼げに見える。その顔でいろいろな場面を乗り越えてきたのだろうと北斗は思った。

「……コメントは差し控えます」

 予想できた答えなのだろう。鳥井は他の三人を見て肩をすくめた。

「……この子は特に素直だけど、こんな感じで若い子に好かれるタイプじゃなかったのは確か。でも話すのも嫌ってほど嫌われてる相手っていうのは心当たりがない」

「須藤さんの意見と同じですね」

「あら」

 御堂の言葉に鳥井が笑いながら軽く咎めるように鏡花を見る。

「でも、ま、そういう感じ。仕事の面でもプライベートでも大きなトラブルはなかったと思う。書くだけの単純な作家で、書くことがすべての単純な男。それ以上のことはしようとしなかった」

「あの付近から見つかった遺体について、心当たりはありますか」

 鳥井は首を振った。

「本当に全然ないの。あのへんに住んでる人ではなさそうだし。まだ身元はわからないの?」

「わかりません。年齢も性別もばらばらですし、顔の判別がつかない。いつ頃の遺体なのかもまだ判別がつきません」

「そう……あのあたり何があったのかしら」

「不審な様子はなかったですか? 些細なことでも」

「別に……ただ、静かなところだなと思ってた。近所の別荘も留守のことが多くて」

「早坂氏が何か話していたことはありませんか?」

「いいえ」

「そうですか。わかる範囲で結構ですので早坂氏が別荘に行っていた時期をまとめていただけますか? 何かの参考になるかもしれませんので」

「ええ。多分私の予定をさかのぼればある程度はわかると思う」

「お願いします」

「警察では何も情報はないの?」

「捜査中です」

「何もわかっていないの? それともわかっていて黙っている? 私も容疑者?」

 やや棘のある鳥井の発言に、御堂は一切顔色を変えず穏やかに言う。

「警察は全力で捜査を進めていますが、正直なところほぼ何も掴めていないという状況です。全力で捜査をしているということはつまり、すべての可能性について検討しているということでもあります」

「警察にもこんなにちゃんと話せる人がいるの」

「よく言われます」

 鳥井は笑って紅茶を飲んだ。

「監視カメラが動いていたらもうちょっと役に立てたんだろうけど」

「そういえば、何故カメラを切っていたんですか?」

「資料のために監視カメラの実物がほしくて、ちょうどその頃別荘を買おうって話になってたからつけてみたの。もともと防犯のためっていうよりも資料のためのカメラだったわけ」

「惜しいことです」

「と言ってもそんなに高いやつじゃないから、つけててもそんなにデータは残ってなかったと思うけど」

 軽井沢の監視カメラは管理会社のものではなく個人で購入して取り付けたもので、データをパソコンに送り、古い映像から上書きされていくタイプだと鳥井は説明した。早坂は機械類、特にパソコン関係に疎く、データの管理を嫌がり基本的に電源を切っていたらしい。

「つけてても残るデータが何日分かはわからないけど、警察がほしいのはもっと長期間の目撃情報でしょう? ついてても難しかったかもね」

「そうかもしれません。周辺にも企業が管理している監視カメラがついている別荘はいくつかありましたが、データが残っていないそうです」

 鳥井は頷いた。

「そういえば三年前私もデータ頼んで調べてもらったんだった。周辺の監視カメラ」

「何かわかりましたか?」

「全然。十九日に一人で買い物に行ったの見たぐらいで」

 冷凍食品の買い出しに行ったところが確認できたが、それだけだったと言う。

「そのときは早坂氏に着目していたと思いますが、他に気になることはありませんでしたか? 怪しい集団がいたとか」

「全然。いつも通りの軽井沢の別荘街だった。変な……というか変わった様子もなかったし、早坂も本当にいつも通り買い物に行ってるように見えた。もともと見覚えのない人は多いしね。観光地だから」

「なるほど」

 御堂は頷くと、北斗と鏡花に目を向けた。

「お二人は何か聞きたいことはありますか?」

 北斗が口を開く前に、鏡花が尋ねた。

「鳥井さんは小説を書かないんですか?」

「え?」

 声を出したのは鳥井だけだったが、北斗と御堂もあっけにとられた。若い刑事もメモから驚いたように顔を上げ、すぐにメモに視線を落とした。

「もう書かないんですか?」

 鏡花は繰り返す。鳥井は困惑したように微笑んだ。

「書いても誰も読まないでしょう」

「私は読みますよ」

「あなた私の小説読んでないでしょう」

「昨日読みました。二冊とも家にあったので」

 鳥井は黙って瞬きをしていた。何かを恐れるように、同時に待ち望むように。

「面白かったです。あとから考えるとすごくシンプルな話なんですけど没入感があるというか、あれは視点がうまいんですよね多分。読んでいるときはどこに連れていかれるのかわからなくて楽しい。でも読み終わったらこうなるしかないってかたちになってて。デビュー作の終わり方もあれしかないって納得できるのに感情的には受け入れられないのが余韻として残ってよかった。二作目はちょっと軽さというかユーモアがあってすごく好きですね。そういうふうに入っていく分最後の方の感情の盛り上がりがすごい。筆致は落ち着いてるのに一文一文突き刺さってくる感じ。切実で悲しくて残酷で、すごくいいです。すごく好きです。もっと読みたかった。二冊しかないのが残念。書いてほしい」

 鏡花は一息にそう言うと、我に返ったように目を伏せて、組み合わせた自分の指を見つめた。鳥井は鏡花の言葉を一つ一つ頭の中で繰り返しているのか、しばらくその場にいる他の四人には何の反応もしなかった。やがてふと顔を上げ、鏡花を見て微笑んだ。

「ありがとう。嬉しい」

「そうですか」

「あんまり評価されなかったの。自分ではいいと思ったものが、これ以上ないって思ったものが評価されないと、どうしていいのかわからなくなる」

「いいものが評価されるとは限らないですからね。同じぐらいいいものでも、やっぱり評価されやすいタイプの長所と見過ごされやすいものはあると思います」

「私は評価されにくいタイプだった?」

「多分。あんまり上手にやると上手なことにも気づかれないんですよ。人はいい加減だから」

「そう……そうかもね。ありがとう」

「いえ」

 鏡花は気まずそうに俯いた。

「でも、私、多分もう書かないと思う。書けないの。誰もがずっと書けるわけじゃない。私はあれでおしまい」

「そうですか」

 鳥井は鏡花の顔を覗き込むようにした。

「あなたは? あなたはもう書かないの?」

 鏡花は目を見開いた。

「私は……私は、書きます」

 ぎこちなく告げる。

「そう。そうでしょうね」

 鳥井は深く頷いた。

「でも、須藤さんがこんなに小説が好きだなんて知らなかった。色々読んで勉強してるんだなとは思ってたけど」

「そんなに好きじゃないです」

「そう?」

「そんなに好きじゃないです」

 鏡花は繰り返した。その部屋にいる誰も、その言葉を信じてはいなかった。

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