第8話

 二年生になる前の長い春休み、二人は約束して会うようなこともなかった。一緒にいるだけで、友達ではないのだ。授業が始まると北斗と鏡花はゼミがわかれた。鏡花は一度距離が空くと、その距離を再度詰めるのが難しいようだった。北斗はそうでもなかったが、少しよそよそしくなった鏡花に「荷物持とうか?」と言うのはさすがに憚られた。もともとおかしな距離だったのだ。そう自分に言い聞かせて納得した。それでも時間が合えば一緒に食事をしたり、学内のイベントに参加したり、授業のノートを見せてやった。

 金ならあるから。

 鏡花はそう言って、奢ってくれるようになった。大した金額ではないので、北斗は喜んで奢られた。北斗の家は決して貧しくないが、一人暮らしで趣味も交友関係も少なくないので、金銭的にはいつもかつかつだった。細く見えるが上背があり筋肉質なので、北斗はよく食べた。セットに追加でおかずをトレイに載せるのをためらうと、鏡花は笑って北斗の好きなものを載せてくれた。鏡花は少ない量を早々に食べ終わり、大盛を食べる北斗をぼんやり眺めていた。

 足りるの?

 あるとき北斗が尋ねると、向かい合って座っていた鏡花は微笑んで首を振った。蒸し鶏のサラダとほうれん草のおひたし。鏡花が食べたのはそれだけだった。

 全然足りない。

 じゃあ、どうして食べないの。

 原稿やってるときお菓子いっぱい食べるから。

 七分袖から、細い細い白い手首が覗いていた。頬がふっくらしているので極端に痩せている印象はないが、鏡花はとても細い。

 もっとたくさん食べたほうがいいよ。

 なんの気もなく言った次の瞬間、北斗は米を吐き出しそうになった。鏡花が北斗のすねを、テーブルの下で思い切り蹴ったのだ。なんの躊躇もない一撃だった。北斗は痛みよりも衝撃で言葉が出なかった。

 余計なこと言わないで。

 ぞっとするような低い声だった。

 ごめん。

 北斗はつい謝ってしまった。鏡花の目には涙が溜まっていた。

 二度と言わないで。二度と言わないで。二度と言わないで。

 つき刺すように何度も繰り返した。

 ごめん。二度と言わない。

 北斗は謝り、そして二度と言わなかった。鏡花はその日革の靴を履いていたので、北斗のすねは痣になって、しばらく消えなかった。

 それまでなんとなく、北斗は自分が鏡花のそばにいるのはいいことだと思っていた。自分にとってではなく、鏡花にとっていいことだと。だがすねにできた紫の痣は、北斗の自信を揺らがせた。

 一緒にいることは、お互いにとって良くないかもしれない。

 だが彼女を一人にしておくことも不安だった。どちらが悪いのかを考えて、最悪を避ける意味で、北斗は彼女のそばにいた。好奇の視線の盾になり、彼女の行動のフォローをした。北斗の揺らぎが伝わるのか、鏡花は時折責めるようなまなざしを北斗に向けた。北斗はそれを見ると、彼女から離れられないと思った。こんな子を一人にしておけない。言い訳だったのかもしれない。彼女のそばにいるための。北斗にはわからなかった。自分の感情を整理しようとしても、鏡花の微笑みや痛々しさを思うと、たちまち混乱してしまう。物事の遠近感を狂わせる。だがあとから思えばそういう自分の基準を狂わされること自体にある種の楽しみがあった。須藤鏡花は強烈な人間で、桐生北斗は、強烈なものが好きだった。その善悪に関係なく、好きだった。

 そんな北斗の葛藤とは関係なく、少しずつ、北斗と鏡花の親密さは薄れていった。鏡花から離れていったのだ。二年生の夏休みが終わったころだろうか。鏡花は少しずつ、美しくなっていった。化粧をしている、という言い訳のためのような薄化粧から、自分の顔立ちを引き立たせるための化粧に変わった。服装も、派手ではないが明るいものを選ぶようになった。一つ一つは小さな変化だが、それが合わさると、大人しい不思議な魅力のある少女が、個性的で洗練された美しい女性になった。鏡花は知名度と奇抜さではなく美しさで人を惹きつけるようになった。

 三年生になって、鏡花は特定の男子学生と行動をともにするようになった。同じ学年の、法学部の男。噂によると法曹志望で両親ともに弁護士らしい。鏡花ほどではないが学生の割には高価な服を着て、手のかかった髪形をしていた。背が高く手足が長く、遠くから見ても目立った。彼の顔立ちが整っていることに、北斗はなんとなくほっとした。顔のいい男がいい。鏡花がそう言ったのであれば、そうであってほしかった。そして、認めたくないことに、彼と一緒にいるときの鏡花がそれほどべたべたとしていないことにも、ほっとした。行動をともにする頻度が高くなければ、カップルというよりは友人同士に見えるような距離感だった。鏡花は荷物を彼に持たせたりはしていなかった。話しかけるのはおおむね彼のほうで、鏡花は高い位置にある顔を見上げ、従順とも無関心ともつかない無表情でうなずいているのが常だった。

 一度、たまたま時間があって、三人で昼ご飯を食べることになった。三人とも会計はばらばらで、鏡花はパスタにサラダを付けていた。北斗が記憶する限り、鏡花が自分と学食にいるときまともに一人前を食べたのはそのときだけだった。鏡花はつまらなさそうに口に食事を押し込んでいた。その横で、彼は北斗によく話した。たいした話ではなかった。当たり障りのない法学部の授業内容や、北斗も鏡花もとっていない体育の授業の話。彼はフェンシングを取っていた。食べ方も話し方も、いかにも育ちがよさそうで、相手を不愉快にさせない態度が骨まで染みついている、と北斗は思った。真っ白な、綺麗な歯並び。彼は北斗を桐生さんと呼び、鏡花を鏡花ちゃん、と呼んだ。鏡花を鏡花ちゃん、と呼ぶ人間がいることに、北斗は驚いた。鏡花がそれを許したことにも。食事が終わると三人でそれぞれのトレイを片付け、彼は授業があると去っていった。鏡花と残された北斗は、また怒らせるかもしれないと思いながら口にした。

 顔がいいのは確かだね。

 つまらなそうにしていた鏡花は、北斗を驚いたように見て、それからにっこりと笑い、

 そうなの。

 と言った。その一言とその微笑みに、あまりに多くのものが詰め込まれていて、北斗はまた、自分が彼女に抱いている全てが一瞬で書き換えられてしまったのを感じた。またやり直しだ。鏡花にとって自分がもうお払い箱だろうと、自分にとって鏡花が古くなることは、決してない。鏡花は微笑みひとつで、いつでも新鮮に不可解だった。飽きることがない。自分の中に、須藤鏡花という人間を作ることができない。彼女はいつでも外側にいる。予想ができないかたちで。

 彼と鏡花がどういう関係だったのか、本当のところ北斗は知らない。恋人同士だと思っていたが、はっきりとした確信があったわけではない。そういう関係でないのなら、彼の顔や性的な魅力ではなく人間性が彼女の眼鏡にかなったということで、そちらのほうが納得がいかない気がした。

 だが彼とも、結局鏡花はうまくいかなかった。北斗とのように静かに距離ができたわけではない。

 その日、北斗はノートをまとめていた。授業が終わったあとの空き教室に一人で残っていた。そろそろテストが近かった。鏡花とは疎遠になっていたが、完全に縁が切れたわけではない。きっとノートは自分に頼ってくるだろうと思っていた。それは第一の動機ではないが、見せる相手を明確に想定できていると、作業がはかどる。北斗のいる三階建ての小さな校舎は他に授業もないのか、とても静かだった。

 いつの間にか、外はすっかり暗くなっていた。そろそろ帰ろうと思っていたら、足音がした。気にするようなことではない。だが、なぜだか気になって、北斗は荷物をまとめてそっと廊下に出た。静かさに気が引けたのかそれとも何か感じるところがあったのか、自分でも定かではないが、とにかく足音は立てないようにした。

 そこに彼がいた。廊下に立っている。人を待っているのか、階段とエレベーターが両方目に入るところに立ち、スマホを見ていた。壁にもたれることなく立っていて、そのぽつんとした立ち姿が、なんとなく不吉だった。声をかけようか迷ったが、人気のない場所で話す気が起きず、やめることにした。彼が立っている方とは反対側にも階段があるので、そちらを通ろうと背を向けた。校舎は古いので階段が最近のものと比べてかなり急なのだが、北斗は三階ぐらいなら昇りも下りも階段を使う。

 音がした。何か軽い音、と思ったら、続けて聞こえてくる。何かが階段から落ちるような音だ。空き缶か、それより少し重いものを転がり落としたような。

 なんだろうと振り返ると、彼がいた。音に反応して階段の方が見たのだろう。階段の下を覗き込むようにしている。何故だか、音を立てた何かを落としたのが彼だという気がしなかった。階段を見る彼も、音の正体がわかっていないようだった。

 その背中を、誰かが押した。鋭く、素早く。まったく無防備に背を向けていた彼は、階段を転がり落ちた。

 北斗はとっさに声が出なかった。誰かが誰かを、こんなに明確な悪意をもって害するところを、初めて見た。衝動性など全くない、相手を傷つけることだけを目的とした悪意。呆然と立ちすくむ北斗を、加害者はちらっと確認すると、何も言わず、表情も変えずに、その横を通り過ぎた。

 北斗がとっさに確認すると、加害者は階段の近くの教室から出てきたらしい。ドアが人一人通れる分だけ開いている。電気がついていない。おそらく彼が立っている地点を中から見張っていたのだろう。自分の姿を見られないようにタイミングを見計らってドアから何かを投げ落とし、彼が無防備に背を向けたタイミングで飛び出し、突き落とした。

 ぞっとして、それから慌てて階段を駆け下りた。踊り場に彼が倒れていて、さらに血が引いた。

 大丈夫ですか。

 声をかけても反応がない。死んでいるのかと疑ったが、呼吸をしているのを確認して、何度か呼び掛けてみる。迷ったあと、結局救急車を呼んだ。北斗は初めて救急車に乗り、その車中で彼に意識が戻った。結果的に命に別状はなく、脳震盪と打撲ということで、一日念のための入院しただけだった。何日かあと、お礼ということで、彼は北斗と大学のラウンジで落ちあった。もともと連絡先など交換していなかったのだが、病院で渡した電話番号に向こうから連絡があったのだ。少し歩きにくそうにしているのとこめかみにある薄い痣以外、特に大きな支障はなさそうで、北斗はとりあえず安堵した。少し痩せた、というか窶れて元気がなさそうなのは、ショックのせいだろうか。

 これどうぞ。

 北斗の隣の椅子に座ると、菓子折りを渡してくる。

 え、いいのに。

 いや、こういうの親がうるさくて。遠慮なく受け取って。意識なかったからあのまま放置されてたらと思うと本当に助かったよ。

 高そうな焼き菓子の詰め合わせだった。受け取ることにする。

 怪我大丈夫?

 え? うん。大丈夫。

 何があったの?

 あれから警察から事情を聞かれるかと思っていたが、何もなかったのだ。どうなっているのかと尋ねると、彼は笑って首を振った。

 いや、恥ずかしいよね。躓いて階段から落ちるとか。

 え?

 友達と待ち合わせしてたんだけど、スマホ見てぼーっとしてたらつまずいて。迷惑かけるし本当に大変だよ。

 嘘だ。

 北斗ははっきり思った。ほとんど口に出しかけて、慌てて押しとどめる。

 あー……そうなんだ。

 こんなどじしたことないんだけどね。恥ずかしいな。

 嘘をついている人間は、こんなにはっきりわかるのか。北斗が自分の能力を明確に知ったのもそのときだった。

 ぎこちない会話をして、すぐに別れた。北斗が立派な紙袋を持って授業に行くと、鏡花がいた。前ほど親しくはなくとも、お互いの隣の席が空いていたら座ることもまだあった。

 お菓子?

 珍しい紙袋に目を留めて、鏡花が聞いてきた。北斗は頷いて、その「事故」の話をした。

 そうなんだ。最近あの人と一緒にいないから知らなかった。

 そうなの?

 うん。

 鏡花は頷くと、

 たいした怪我じゃなくてよかったね。

 と言った。微笑んで。いっそ可憐なほどの笑顔だった。

 嘘だ。

 と北斗は思った。嘘だった。鏡花は明らかにがっかりしていた。そして、それを隠そうともしていなかった。鏡花の発言は暗示だった。私は知らない。私は関係ない。そういう暗示。これは真実ではないが、自分はそういう態度をとる、と北斗に言外に告げている。彼女は北斗が自分の嘘を見抜くこともまた、知っていた。

 あの日、北斗は見ていたのだ。誰が彼を突き落としたのか。ちゃんと見ていた。あれは、鏡花だった。明確な害意をもって彼を階段から突き飛ばして逃げたのは、須藤鏡花その人だった。

 そして、あの日廊下にいた北斗のことを、鏡花は見ていたのだ。あの日、はっきり北斗は鏡花と目が合った。自分のしたことに呆然としているような無表情。誰かに見られたことへの怯え。相手が北斗だとわかったことへの安堵。そう。全部見ていた。

 何かが起こっているとき、巻き込まれた人間は自分の演じている役が理解できない。何がよくて何が悪い。それは終わってから判断できる。北斗は鏡花と話して、ようやく自分の演じている役が理解できた。寒気がした。ことを起こしたのは鏡花で、役を割り振ったのも鏡花だ。北斗は自分に割り振られている役と、それを自分が完璧にやり遂げたことを、そのときようやく理解した。

 おぞましい。

 心の底からそう思った。置かれた状況もおぞましければ、いつの間にかそこにいる自分もおぞましかった。だが、もう止めることができない。北斗は確かに演じてしまったのだ。共犯者の役。犯行を知ってなお黙っている役。それは北斗の自意識とあまりにもかけ離れていたが、鏡花は北斗にその役を割り振り、北斗は期待に応えた。もう取り返しがつかない。

 鏡花はそれ以上彼について言及することはなく、北斗もそうした。彼と鏡花が一緒にいることを見ることもなかった。彼のことはときどき見かけたが、怪我の影響は見かける程度ではわからなかった。鏡花の服装や化粧は少し落ち着き、一時期ほどではないものの、北斗とともにいる時間が戻ってきた。北斗も拒まなかった。平穏だった。あの夜起こったことは、夢なのではないかと自分を疑った。だが夢ではないことを知っていた。夢ならいいと思っているだけだ。起こったことの全ては常に取り返しがつかない。何かの役を割り振られたとき、状況を見極めようとしている間にも、事態はどんどん進み、渦中にいた人間がすべてを冷静に見られるようになるころには、終わっているのだ。本当に譲りたくないものがあるのなら、どんな状況であれ、正しいのかがわかる前に、それを選ばなくてはいけない。物事は保留できない。常にその場で決断しなくてはいけない。

 自分は探偵にはなれない。

 そう思った。そう思ったことに衝撃を受け、衝撃を受けたことで初めて、自分が探偵になりたがっていることに気づいた。探偵。突拍子もない。物語に出てくる探偵。起こった物事の判断を下し、物語の結末を決定する存在。確かに魅力的だ。現実がそういうものではないからこそ、一層。

 鏡花は三年生の夏には留学をして、帰ってきてからはもうあまり大学に顔を出す機会がなかったこともあり、また疎遠になった。アメリカから帰ってきた鏡花は少し体重を増やしたように見えた。華奢なのは変わらないが、折れそうなほどには見えなくなった。それにとても安心した。安心したと伝えたら彼女はまた北斗を蹴り飛ばしただろうか。

 周りが就職に騒いでいたころ、北斗は探偵になった。成り行きでいくつかの事件を解決したこともあるが、探偵になったのは自分の意思だった。なれないと思ったものになる。北斗は探偵になりたかった。そして、今度こそやるべきことをやりたかった。ことの最中に決断したい。自分のなりたい自分でいたい。わけもわからず巻き込まれる共犯者にはなりたくなかった。そのためには、ただ漫然と生きていくわけにはいかない。自分が何をしたいのか、何ができるのか、考え続けなくてはいけない。そのときが来た時のために。

 おそらく今がこのときなのだろう、と、北斗は自分の事務所で考える。きっとそのために探偵になったのだ。自分は探偵になり、須藤鏡花がやってきた。またやってきた。犯人として。

 今がこのときだ。自分がやりたいこと。できること。決してするわけにはいかないこと。考えなくてはいけない。やりたくない役に振り分けられるのはもうたくさんだ。自分の役は自分で選ぶ。もう間違えるわけにはいかない。

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