ママのサバラン
天原カナ
ママのサバラン
キッチンからラム酒の強い匂いがしてきて、ママがサバランを作っているのだとわかった。
今日は春休み最終日。
明日から私は高校生になる。
きっとそのお祝いのケーキも一緒に作っているのだろう。
私のママはお菓子作りが趣味だ。冷蔵庫にはいつだってバターが買い置きされていて、食料庫の小麦は切らしたことはない。パントリーにはたくさんのお菓子作りに必要な道具が置いてあって、ママの気分次第でいつでも作れるようになっている。
リビングのソファーに座って友達とメールをしていた私は、匂いに誘われるようにスマートフォンを放り出してキッチンに行った。床に座り込んでゲームをしている弟の徹平は、最近反抗期に片足突っ込んでいるみたいで、こちらのことなどちらりとも見ようとしない。
「ママ、なに作ってるの?」
「まなちゃんの好きなキャロットケーキよ」
ママの手元ではうっすらとオレンジ色をした生地が混ぜ合わせられている。これを焼けばママ特製の美味しいキャロットケーキができあがる。
「サバランは?」
「あら、匂いでバレちゃった?」
「そりゃわかるよ。ラム酒の匂いめちゃくちゃしてる」
「サバランはママのでーす」
お茶目に笑って、ママは生地と型に流し込んだ。きっとできあがったサバランは今頃冷蔵庫の中で冷やされているのだろう。
ママの作るつやつやしたサバランはラム酒がしっかりときいていて、未成年が食べるようなものではないかもしれない。でも、私たちに食べさせるパウンドケーキにはお酒をきかしたレーズンを入れるのに、サバランだけは絶対に食べさせてもらえなかった。パウンドケーキはよくてサバランがダメな理由がわからなくて、何度も不公平だって訴えたけど、ママは一度だってサバランを私にも徹平にも与えることはなかった。
ママがサバランを食べるのは、私たち子どもが寝た後か学校に行っているときって決まってる。だから、今日の夜私と徹平が寝た後に食べるのだろう。
私は麦茶を取るフリをして、冷蔵庫を開けた。中断にあるのは丸くて、茶色くて、つやつやしたサバラン。どんな味がするのだろうという興味はあるけど、それよりもママがこれを作る理由の方が気になる。
だってママはお酒に弱い。缶チューハイ一本だって飲めないのに、サバランだけは特別だ。
年に何回か作るそれは、突発的なようで時期が決まっているようで、よくわからない。そういえば去年もこの時期に作っていた気がする。
もしかしたら死んだパパとの思い出なのかもしれない。記念日とかそういうこと。ママは乙女趣味なとこがあるから、それはありえそうだ。
麦茶をグラスに注いで飲んでいるうちに、型に入れられたキャロットケーキはオーブンへと移動して焼かれている。
「ねぇ、パパってサバラン好きだった?」
「どうかなぁ……お酒弱かったしね」
生地が入っていたボウルを洗いながら、ママが考える。考えるってことは、サバランはパパの好物でも思い出のものもないということだろうか。聞き方が悪かったかなと思っていると、ママが壁の時計を見て声を上げた。
「やだ、もうこんな時間!」
時計は午前十一時を示している。お昼の用意をするにはちょっと早い気もする。でもママは慌てた様子でエプロンを取ると、リビングに小走りでやってきた。
「てつくん、テレビ見せてね」
「えー」
「朝からずっとゲームでしょ。休憩しなさい」
「やだよ。だいたいなに見たいんだよ」
「ゆいちゃんがテレビに出るのよ。だから、見せて」
「録画は?」
「もうしてる。リアルタイムでも見たいの」
その名前が出たら、反抗期徹平も諦めないといけない。渋々といった様子でゲームをセーブすると、画面が日曜の情報番組になった。
番組はちょうど始まったところで、司会が和やかに挨拶していた。ママはソファーの真ん中に座って真剣にそれを見ている。司会が好きでも、ゲストに好みの芸能人が出るわけでもない。目的の人物がいつ出るのかわからないまま、ママはテレビに釘付けだ。
私もママの隣に座る。徹平も床に座ったままテレビを見ることにしたようだ。しばらく興味のない話題が流れていたが、あるテロップが出た瞬間、ママが歓喜の声を出した。
「きたわ!」
それは最近話題のアイドルグループの密着コーナーだった。女の子七人のグループは激しいダンスが注目されて、人気が上がってきている。
ママがそのアイドルグループのファンというわけではない。ママが見たいのは、彼女らの振り付けを担当しているダンスの先生だ。
テレビにダンス練習のシーンが映し出される。そこには黒いウェアを着て、髪を結い上げた女性が現れる。激しいダンスを教えるシーンでは、叱咤する姿も見られた。
「ゆいちゃんかっこいい……」
ママがぽつりとこぼす。ママと同じ歳なのに、引き締まった身体と機敏な動きは本当に格好いい。
テレビに映る「ゆいちゃん」こと唯子さんは、ママの大学の同期で親友だ。ダンスの講師をしていながら、振り付け師もしている。
ママとは大学のダンスサークルで出会ってからそれからずっと仲がいいらしい。そのサークルでママはパパとも出会ったと聞いた。
テレビの画面が切り替わって、流行のスイーツ特集になった。唯子さんの出番は終わったようだ。
「唯子さんかっこよかったね」
「うん」
「ママもダンス続けたらよかったのに」
「ママはゆいちゃんみたいに上手くなかったし」
「徹平のゲームにダンスのやつあるじゃん。それやったら? ママダイエットしなきゃって言ってたじゃん」
「そうねぇ。それよりお昼なに食べたい? パスタ? ラーメン?」
聞きながらママが立ち上がる。徹平がラーメンと答えながらテレビをゲーム画面に切り替えた。
唯子さんと初めて会ったのは、パパのお葬式だった。本当は赤ちゃんの頃に会っているらしいけど、覚えていないからカウントしない。
パパは膵臓ガンだった。判明してから三ヶ月であっという間に亡くなった。まだ私は五つだったけど、ママに連れられて病院に行ったのを覚えている。
周りの人が真っ黒の服を着ている中、私と徹平も黒いワンピースとスーツを着せられてなにが起こっているのかよくわからなかった。ママやおじいちゃんやおばあちゃんは泣いているし、親戚のおばさんとやらが私たちの面倒を見てくれた。
それは通夜が終わったときのことだった。弔問客が全員帰って、控え室の親族たちは誰もが口を閉ざして静かすぎる空気が流れていた。私も徹平もいつもと違うママたちの雰囲気に飲まれて、一言も話せないでいた。ただ徹平の小さな手を握りしめていた記憶がある。
そんな中、葬儀場のドアが開いて入ってくる人がいた。それが唯子さんだった。ぴんと背筋を伸ばして、控え室に姿を現した唯子さんに、ママは駆け寄って抱きついた。ママをぎゅっと抱きしめる唯子さんの姿は今でも覚えている。安心したようにママが泣いているのも、力が抜けたようにそのままへたりこんだのも。そんなママを抱きしめて、背中を撫でて、優しく声をかける唯子さんも。
ママが落ち着くと、唯子さんは部屋の隅にいた私たちを笑顔で手招きした。
「こんなときだから、ね」
そう言って唯子さんは持ってきた紙袋から、スケッチブックやら色鉛筆やらを出してくれた。
喋ることも動き回ることも自由にできなかった私たちにとってそれは魔法の紙袋だった。
「ぶろっく!」
徹平は今日一大きな声を上げて、紙袋から出てきたブロックを持ち上げた。そのほかにも人形やおままごとセットも入っていて、私たちは寝るまでそれで遊んだ。
それから、パパを失った我が家に唯子さんはよく遊びに来てくれた。だから私も徹平も唯子さんが好きだ。唯子さんがテレビに出るというと、それは最優先されるべきことになった。
私が小学生になるときに、唯子さんは都内のダンススタジオでダンススクールを開講させた。ママは私に「ダンスする?」と聞いて、私は唯子さんに会いたくてすぐに「やりたい」と言った。
それは今でも続いている。
「こんにちは」
毎週土曜の午後が唯子さんのダンススクールの日だ。スタジオのドアを開けると一番乗りで、まだクラスの誰も来ていなかった。
ストレッチをしている唯子さん以外は。
「いらっしゃい。私の可愛い愛美」
そう言って唯子さんが近付いてきて、頭を撫でてくれた。誰もいないとき、唯子さんはそう呼んでくれる。それは小さい頃からのお決まりの言葉で、いつから始まったのかは覚えていない。
でも私はそう呼ばれるのが好きで、スタジオに一番乗りするのだ。
「高校入学おめでとう。新生活はどう?」
「勉強が難しい」
「部活は入らないの? ダンス部ないの?」
「ダンス部で忙しくなってココに来れなくなるのは嫌なんだよね」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん」
上着を脱いで、ダンス用のシューズに履く。唯子さんは真似して伸ばした髪を結うと準備はおしまい。他の生徒が来るには早い。まだ来てくれるなと思いながら、貴重な二人きりの時間を楽しむ。
「先週のテレビ見たよ。唯子さん結構映ってた」
「ああ、あれね」
「ママがかっこいいって言ってたよ」
「歩美は元気?」
唯子さんは振り付け師の仕事が多くなるにつれて、うちに来なくなった。だからママより、週一で会っている私の方がずっと唯子さんと会っている。
「うん。入学式のスーツが入らないって喚いてた。ママもダンスすればいいのに」
「歩美はしないだろうね」
「でもダンスサークル入ってたんでしょ?」
「そうよ。でも歩美、高校までは調理部だったって」
「だから、お菓子作るの好きなのかぁ」
先週ママが作ったサバランは次の日の朝にはなくなっていた。きっと私や徹平が寝ている間に食べたのだろう。
そういえば、ママはパパの葬式の次の日にはサバランを作っていた。あれもやっぱり一人で食べたんだろうか。やっぱりパパとの思い出の食べ物なんじゃないかなと思っていると、スタジオのドアが開いて生徒が入ってきた。
唯子さんとの二人きりの時間はおしまい。
「再婚しようと思ってる人がいるの」
ママがそう言い出したのは、GW前のことだった。夕食のとき、いきなり言い出したから、私も徹平も口を開けたまま呆然としてしまった。
「えっと、ママ、付き合ってる人いたの?」
「うん。会社の人なんだけど」
「どんな奴?」
「普通の人よ。初婚でね。ママより二つ上」
「その歳まで独身とかやばくね?」
反抗期徹平が棘のような言葉を吐いて、夕飯のハンバーグを飲み込んだ。
パパが死んだとき、ママはまだ三十過ぎで、多分私たちの知らないところで再婚を勧められたりしただろう。それでも今までそんな素振りは一つもなかったし、ママの恋人という人に会ったこともなかった。だから、ママはこれからもパパのことを一途に思って独り身を貫くのだろうと思っていた。
「とりあえず一度会ってみてくれないかな?」
「え?」
「会うだけでいいから」
お願いとママが言う。もやもやしたものは胸の中にあって、どうしてだかわからない。三人で暮らしてきたのに、そこに今更誰かが入るというのが思い描けない。
「会うだけだかんな」
そう言って徹平はハンバーグを平らげて部屋に行ってしまった。ママが心配そうに私を見てるのがわかる。でもなんて言っていいかわからなくて、私はただひたすらにハンバーグを細かくした。
「はじめまして。金子です」
GWの初めに、新宿のレストランで出会ったママの再婚予定相手は、背が高くがっちりとした体格で、尖った感じの雰囲気の人だった。
パパと正反対だなというのが第一印象。それは徹平も同じだったらしくて、反抗期を理由に金子さんから目を逸らしてしまった。
私も徹平もパパの記憶はあまりない。でも写真やビデオで何度も見ているからわかっている。そんなに高くない背も、細身の身体も、柔らかい表情も目の前にいる金子さんとは違っていた。あまりにもパパとの違いに、戸惑っているとママが私たちを紹介した。
「娘の愛美と息子の徹平です」
「こんにちは」
「ども……」
金子さんは私や徹平に「何年生?」や「部活はなにしてるの?」などと聞いてくれたが、私は曖昧な笑いで答えることしかできなかったし、徹平も一言返すだけだった。
もちろん食べた料理の味なんて覚えてない。ただこの人が私たち三人家族の中に入る未来が見えなかった。
四人掛けのダイニングテーブルの空いた席はいつまでだってもパパのものだし、代わりになるのは遊びに来たときの唯子さんだけだ。金子さんが空いた席に座ってしまうと不協和音があるような気がして、私はデザートの頃には泣きそうになっていた。
帰り道も金子さんと話すママの後ろを、徹平と二人でのろのろとついて行った。
「あいつはダメだな。うちには合わない」
徹平がばっさりとそんな風に言うから、やっと笑うことができた。
駅の改札で金子さんと別れて、私たち三人家族になって呼吸が軽くなった気がした。ママが私たちのことを伺っているような感じがしたけど、徹平はそれを無視して携帯ゲームに夢中のフリをしている。
「まなちゃん。どうだった? 金子さん」
まさか駅のホームで聞かれるとは思わなかったから、変な声が出た。あの人は嫌だ。我が家の空いている席に座らないで欲しい。あの席はパパの席で、唯子さんの席だ。
乗るべき電車のホームとは反対側に、電車が入ってくる。ドアが開くのと同時に、私はそっちに走り出した。
「まなちゃん!?」
「唯子さんとこ行く!」
反対側の電車に乗れば唯子さんの家に行ける。唐突に会いたくなった。会って、またうちに来て欲しいと言いたくなった。あの席に座って、空いた場所を埋めて欲しい。
きっとホームではママと徹平が驚いた顔をしているだろう。それを振り返ることなく、私は電車のドアが閉まるのを待った。
電車が動き出して空いてる席に座ると、スマートフォンを取り出して唯子さんにメールを送った。多忙な唯子さんが今家にいるかはわからない。でも返信はすぐに来て、家にいると言ってくれた。それがすごく嬉しくて、なぜだか安心感があって、私は鼻を啜った。
地下鉄に乗り換えて最寄り駅につくと、唯子さんは改札まで迎えに来てくれた。
「唯子さん」
「どうしたの? 私の可愛い愛美」
いつも言ってくれるその言葉が、ゆっくりと心に溶けていく。唯子さんは私の頬を撫でると、ゆったりと微笑んだ。
「酷い顔してる。うちであったかいものでも飲みましょう」
「……うん」
駅の階段を上って、地上に出る。高級住宅地のこのあたりは高そうなマンションがあちこちにある。
「歩美、再婚したいって言ったんだって?」
「ママに聞いたの?」
「さっき電話があったの。愛美がそっちに行くかもって」
「そっか」
唯子さんの手が伸びて、私の手に絡ませる。そうして手を繋ぐ形になると、私をひっぱるように歩き出した。
「パパと全然雰囲気の違う人だった」
「歩美は昔からモテてたから」
「今までも、恋人いたのかな。私たちが知らないだけで」
「どうかな」
「唯子さんも知らない?」
「知らないよ」
閑静な住宅街にあるマンションの一室が唯子さんの家だった。オートロックを開けて、中に入る。入り口にはコンシェルジュがいて、こんな場所に住む人が本当にいるのだなと思ったものだ。
唯子さんの家に通されると、広いリビングに大きなソファーがあって、うちとは大きさの違いにくらくらする。
「ソファーに座ってて。今お茶淹れるから」
唯子さんに言われるまま、ソファーに座る。ふかふかのソファーはうちのものとは大違いだ。
「ねぇ、唯子さん。パパって本当にダンスサークルにいたの?」
「いたよ。高校でダンスやってたって経験者だった」
「ママは?」
「歩美は私が誘ったの。大学の講義で隣の席に座ってね。仲良くなって誘った」
唯子さんがお茶を淹れてリビングにやってくる。アップルティーらしくいい匂いがした。
「私の知ってるパパってダンスってイメージじゃないんだけど」
「確かに、優一はそういうタイプに見えないものね」
優一はパパの名前だ。唯子さんは「愛美のパパ」とは呼ばずに、名前で呼ぶ。
「そういうタイプに見えないのに、あっという間に歩美と付き合っちゃってね」
唯子さんの目が細められる。私の知らないパパとママ、そして唯子さんの大学時代があるのだろう。
「優一も歩美もダンス辞めて普通の企業に就職するし、残されたのは私だけね」
「でも唯子さんはダンスですごいことしてるよ」
「私の可愛い愛美はいい子ね」
不意に唯子さんのスマートフォンが鳴る。唯子さんは慣れた様子でそれをタップすると、英語で話し出した。唯子さんは大学を卒業して、就職せずにダンス留学をしたのだと聞いたことがある。今は外国人のパートナーがいることも噂で聞いた。
英語はあんまり聞き取れないが、楽しそうに話しているから、もしかしたらパートナーなのかもしれない。通話はすぐに終わった。最後に「アイラブユー」という言葉を唯子さんが言ったのが聞き取れた。
「唯子さん、今の恋人?」
「そうよ」
「アイラブユーって初めて聞いた」
「海外では当たり前だからね」
「私もそうなりたいわ」
なにも考えず口から出たのはそんな言葉だった。恋も知らない子どもが憧れるような言葉。でも唯子さんに言われてみたいと思った。あんな綺麗な発音で、そんな風に囁かれたらどんな気持ちだろうと。
「私の可愛い愛美はそんなに早く成長しなくていいのよ」
「唯子さんの一番の恋愛ってなに?」
「大学生の頃かしら」
「どんな人だった?」
「可愛い人だったわ。さ、お風呂準備してるから入ってらっしゃい。パジャマもあるから。今日は泊まっていくといいわ。歩美には言っておくから」
唯子さんに促されるまま、お風呂を借りることになった私は、うちの倍はあるお風呂に驚いた。置いてあるシャンプーもリンスも聞いたことのあるブランドのものだ。高級ホテルだったらこんな感じなのかなと思いながら、身体と髪を洗い、ゆっくりと手足を伸ばして湯船に浸かった。
脱衣所に用意されていたタオルはふかふかで、パジャマもクラスの女子が憧れているブランドのものだった。
ダンス一つでこの生活を手に入れた唯子さんを尊敬する。私の将来はまだゆらゆらとした蜃気楼のようで、なにも定まっていない。なりたいものもなく、唯子さんのようにダンスを極める自信もない。
脱衣所で髪を拭いていると、唯子さんの声がした。どうやら電話をしているらしい。今度は日本語だったから、仕事の電話かもしれない。
「今日はうちに泊まらせるわ」
そんな言葉が聞こえてきて、相手がママだとわかった。
「徹平が高校卒業するまで再婚はしないことね。寂しいなら私を呼べばいいじゃない。仕事は忙しいけど、呼べば行くわよ」
唯子さんの笑い声が聞こえる。
「私の可愛い歩美のお願いだもの。最優先するに決まってる」
髪を拭く手が止まる。唯子さんは「私の可愛い徹平」とは言わない。その言葉は私だけのものだと思っていた。ママに言っているのを聞いたのは初めてだ。
自分だけの特別な呼び名だと勘違いしていた羞恥と寂しさが後頭部を殴りつける。唯子さんが私のことをそう呼ぶのは、ママの娘だからだ。
髪を雑に乾かしてリビングに行くと、電話は終わっていた。唯子さんはいつもと同じように笑って私の髪を乾かしてくれて、客間のベッドへ案内してくれた。ふかふかのベッドは寝心地がよくて、それでもいつまでも寝付くことができなかった。
次の日の朝早く、ママが迎えに来た。
まだ私は唯子さんと朝食をとっていて、その時間の早さに驚いた。ママはなにも言わなかった。ただ唯子さんにお礼を言って、小さなケーキ箱を渡した。
「まさか昨日の晩作ったの?」
驚いた唯子さんがケーキ箱を開けると、そこにはサバランがあった。あのママが作って、一人で食べるサバランが。
「私の好きなケーキじゃない」
「私が唯子の好きなケーキ忘れるわけないでしょ」
パパじゃない。パパじゃなかった。
サバランが好きなのは唯子さんで、サバランは唯子さんとの思い出のケーキなのだ。
感激した唯子さんがママを抱きしめる。
「私の可愛い歩美。大好きよ」
「私もゆいちゃんが好きよ」
大学時代の恋愛。可愛い人。唯子さんが好きだったのは、きっとママだ。ママだって唯子さんのことは好きだけど、きっと重さが違う。
唯子さんは早速サバランをお皿に出して食べている。サバランを誰かが食べるのを見るのは初めてだ。
きっとこの時、私は失恋した。
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