間話 第五 DROWN IN THE DARKNESS 巻の弐

 ある日、天野教授から連絡を受けた。

 彼の息子が人間と上手くいっていないようで、もし私さえ良ければ会ってみてくれないかということだった。教授にとって家というものは夜寝る為に帰ってくるぐらいだそうで、息子についてはいつ帰るか分からないらしい。その親子関係に問題があるんじゃないかとは思ったが、そこは私が言えることではない。それに、教授の息子にも興味がある。年齢もさほど離れていないなら、理解してあげられるかも知れない。

そういうわけで、彼に会えるまでは家にあるものは何でも自由にして良いという許可をもらった私は、夜になれば教授の家で待機させて貰うことにし、毎日少しずつ食糧をかっぱらうことにした。

 だからその日も私は当然の様に冷蔵庫から野菜を貰い、明日も食べようと贅沢にたくさん作ったカレーの一人分を食べ終え、リラックスしながら食後に備え付けの高くて美味い良いコーヒーをガブガブと飲んでいた。

 その時だった。不意に玄関の方からドアを開ける音が聞こえたのは。


「ただいま」

 若い男の声だ。間違いなく息子さんだろう。

 私は彼の名前を覚えていなかったので、妖気を飛ばし、彼の影へ触れた。

 キョウジ。それが彼の名前か。

 妖気から心の動きを読み取ると、心細さが見て取れる。

ならば打算的だが、こう振る舞ってやるとどうだろうか。


「おかえり、天野兄嗣くん」

 彼は誰もいないはずの家からした声に一瞬驚いた顔をした後、じわりと顔に温かさが現れ、何かを我慢している様な笑い方でこちらを見た。

 あれはどういう感情なんだろう。

 嬉しそうなのは間違いないが、ズルして好感を得たことの罪悪感が湧いてきて私は少し気不味かった。

 その誤魔化しの意味もあって、私は一先ず名乗ることにした。

「私は泥門亜子と言う。つぐことも読めるが、皆は私を“姉貴”と呼ぶ」

 すると、家で人と話せたのがよほど嬉しかったのか、彼はなれなれしく、

「その名の通り、あんた悪魔みたいだぜ」

 などと弄りをかましてきた。

 私は確かにそういうボケを持ちネタにしている身だが、他人に言われるとイラつくぜ。ぶっ殺してやろうかクソガキ。そうだ、初対面で上下関係を分からせてやるのは大事だ。やっちまおう。

 私の悪い癖だが、まあ仕方がない。考えた時には、もう手が出ていた。

 出した後にすぐ後悔した。これで息子さんが怪我でもしたら……しかし、それは杞憂だった。彼は何か、先読みしていたかの様に上手く避けた。

 私の攻撃を避けた。常人がそんなことを出来るはずはない。

 運動能力が高いと言うだけでは説明が付かない。

 しかし、私の大変優れた脳はすぐに答えを出してくれた。

 そうか、霊感か。彼は生まれながらに妖気が見え、狸と話せたという。

 私の妖気の動きから本能的に動きを感じ取って、先読みすることで避けたのだ。

 私がそう分析している間にも、彼は私を覆う妖気に触れて見せた。

 すぐに理解し、試してみようとする探求心もある。こんな人材は逃がしてはいけない。

 研究者としても、継ぐ子としても、是が非でも私の役に立ってほしい。

 私は一旦攻撃をやめると、出来る限り説明をした。

 妖気について、私の経験してきたこと、彼の才能について。それと彼の才能を伸ばす為に、修行をしてやるついでに継ぐ子をやってくれないかと伝えた。

 実際のところ私の経験について正直に言えば才能差に悔しいものがあったので、なめられると困るし、私は巫女の修業をしたから使える様になったと嘘を吐いたが、彼は「すっげぇぜ、姉貴は姉貴と呼ばれるだけあるんだな!」と素直に褒めてくれた。また罪悪感。

 結局最終的に彼の首を縦に振らせたのは先ほど作ったカレーとコーヒーを食べさせてやるという条件だったが、まあ結果オーライだろう。

 奴もこんな些細な出来事をいちいち覚えてはいないだろうしな。


 そんなわけで、私は彼を連れ、狐の里へ赴いた。

 何故狸の里ではないのかと言えば、あちらは発展がし終り、有望な狸たちもいくつか育てることが出来たからだ。彼らに任せておけば、狸の里の今後は安泰だ。

 何より、私はそろそろ人間界が恋しくなってきたというところもあったのだ。しかし、人間とは関わりたくないし、また狸の老害たちと揉めるのも面倒だ。ならば、狐の里に現代人間社会に近いものを作れば良い。そう言う考えだった。

 裁定者に上手く売り込むことが出来た私たちは里での自由を得て、発展を助けていった。

 そのついでに、里で一番美しい狐と仲良くなると、キョウジと二人でその家に転がり込み、その娘二匹/アカネとアオイの教育を買って出た。建前としては、私がそうだったように、巫女としての素養を感じた為にそういう教育を施すと言ったが、実際はそれだけではなかった。

 私の狸の里に年功序列をはじめとした旧世代的な価値観がある様に、狐の里には鼻に付く意識の高さがあり、私はそれも解体したかったのである。その為、私はフィクションを含め、私が影響を受けたあらゆる女性から理想的なものを考え、アカネに教えこんだ。今まで色んな女と関わってきたが、彼女らも私も女らしくなる実力も資格もなかった。だからこそ彼女には良妻賢母と言うのか、大和撫子と言うのか、古き良きおしとやかさと、人間的に優れた気丈さを持ってほしかった。私の持てる限りの賢さを与えることで、素晴らしい女性となり、あらゆる人間を代表する様な理想的な幸せを掴んで欲しかったのかもしれない。

 つまり、私はアカネを女性としてのロールモデルに育てたかったのだろう。

 それは今思うとエゴだったが、アカネは本当に出来た娘で、それすら飲み込んで育っていった。


 おかげで私は夢を持つことが出来た。

 いつか狸の里の一番人格に優れた狸と彼女が結ばれるようであれば、どちらの里も理想通りに動き出す様になるのではないか。そういう夢だ。

 まさか私と言うおせっかいおばちゃんによる、そんな壮大なお見合い計画が根本にあるとは誰も気付かない。

 里の発展において狐たちは私に従って里の半分を都市化してくれ、もう半分を京都の街並みの様に仕上げてくれた。

 おかげで物にも困らず、快適に過ごせていた。あとはいつかの未来を待つだけだった。


 しかし、平穏は続かなかった。

 災禍が起きたからだ。

 この世の澱とも言える泥が溢れ、狸の里と狐の里を飲み込み始めたのだ。前例のない自然災害。地震の様にいつかは訪れる防ぎようのないものだった。

 急な災禍にいち早く気付いた裁定者は結界を里に張ったが、彼の命は結界を通して泥に侵食されていき、私が来るまで保たなかった。私が即座に侵食されない術を組み上げた時には、大人たちに死者は出ないにしても既に身体へ泥を含んでしまっていた。

 災禍が去った後、一見、狐の里は何の問題も起きていない様に見えたが、泥は大人たちを操り、ゆっくりとその精神の支配を進めていた。そこに泥の自我というものがハッキリあったわけではなかったが、いずれ自我が生まれれば狐は泥に掌握される。

 危機感からキョウジと共に義賊兄弟を立ち上げ、その運用が安定した頃、漸く考える余裕が出てきた私は、狸の里を見に行くことにした。この状況でもし彼らが無事なら、助けを借りたいと思ったからだ。

 しかし、無事であってくれと願った狸の里は、散々な様子であった。

 久し振りに帰った里は大変に発展しており、酷く汚れてしまっていた。

 そして、絶望的なことに、私と気が合った狸は子供たちを逃がす過程で全滅していた。助けを借りるどころではない。こちらの方が被害が大きかったのだ。

 当たり前だ。継ぐ子がいなかったのだから。もし私がこちらに居ればこんなことにはならなかったのではないかと、何度も考えた。では狐たちが死ねば良かったとでも思っているのか。罪悪感に苛まれながら見るこの里は、より絶望的に感じられた。


 心臓の辺りに刃物がスゥと入れられた様な、鋭い冷たさを感じさせるこの感情が、喪失であり、失望であり、この世界から私に対する裏切りであると、理解した。

 私はただ表情も変えず、涙だけを流した。

 気が付いた時には、海水を触った時の様なべたべたとした感覚だけが肌に残っていて、その部分に触れる空気はとても冷たかった。


 しかし、そこで立ち止まっていられない問題が、私にはあった。

 それは、老害たちが生きていたと言うことだった。

 若い狸たちが死んでしまったことで、今一度狸社会の支配層が一世代戻ってしまったのだ。そう、今まさに狸社会は私が教育を施した世代の子供たちへ、老害の手が伸びるところであった。

 私は、直ちに動くことにした。

 狸に任せるくらいならと、私は人里を回って妖怪たちをスカウトしてきた。その準備に一度実家へ戻ると母に見つかったので、説明もせずに狸の里へ一緒に連れてきた。彼女とは口論が始まれば決裂するまで終わらないから、見て理解してもらうことにしたのだ。妖怪も母も唖然としていたが、私への文句より狸の里の事態の重さを鑑みて、子狸たちの面倒を見てくれることとなった為、育ての心配はなくなった。

 そして、学校を復興させると、私の教育は再び始まった。

 中でも、ハカセとメタローは優秀だった。ハカセはグレンマルを通して機械工学を理解し、メタローは国語力に長けていた。ハカセにだけ教材をやるのもなんだったかと、気まぐれにメタローにはグレンマルの元になった作品のコミックをくれてやった。主人公の一人称を真似たり、セリフを空で言えるようになったりしたりと、言葉は巧みになったようだが、少々オタク気質にしてしまった。失敗したかも知れないが、まあまさかこんなことで子供の将来や運命が動くなんてことはないだろう。

 また、無駄だとは思ったが、旧世代的な価値観を引き継いでしまった子供たちも含めて教育をしていた。いつか役に立ってくれると思ったからだ。

 例えば、ダッチにも、ある種のリーダーシップを感じられる。彼にも問題はあるが、正しいブレインが付けば良いインフルエンサーになれるだろう。

 そうだ。問題があるのは彼らの教育者の老害たちである。

 彼らは私に反抗的な意思を持っていないが、価値観が平行線であることに気付ける知能もないのだ。だから私が指摘したことも、理解が出来ない。また同じ間違いを繰り返すし、それを子供たちへ引き継いでしまう。


 そして、私は気付いた。

 いっそのこと、この状況を導いた災害を活用しようと。

 私が泥を探し、見つけることは簡単だった。

 黄泉の穴と呼ばれるただ深い洞窟の奥に、それは大きく口を開けていた。

俗に、炭、黒虫と呼ばれてきた、黒い『泥』。


 せっかくなのでここで、私が研究したことを解説しよう。

 人間が死ぬと魂の重さ21gが消えると言われている。

 ここまでは君たちも聞いたことはあると思うが、ここからが化け学の分野だ。

 実は、人間に限らず、妖気を持つ生物の死後は、魂の重さが消えるのだ。

 ではその魂は何処に行くのか。

 まず魂は、二つに分かれる。善性と、悪性。片方は天国に、片方は地獄に行く。

 しかし、魂とはそれだけではない。強烈な思いの残滓が、お菓子を食べた後の食べカスの様に、世界には残るのだ。主に後悔や怨念であるそれが集まって動き出すのが、呪いの塊。炭や黒虫と呼ばれてきた、「これ」。今や、もう液体として立派に蠢いている、泥であった。

 これを利用すれば、私は今よりもっと物事を上手く運べるようになる。

そこにもう自我がなくても、だ。

 私の覚悟はもう既に決まっている。アカネとメタローさえ上手く行くなら、私は他のすべてがどうなっても良いのだから。

 深く深く、泥の中へ。

 身体が沈んだ後、私の感情の方も中に溶けると、やがて泥は私の身体や意識のすべてに浸透し、理性よりも感情の方が大きくなっていった。


 さて、講義はここまで。あとは、君たちの知っての通りだ。

 泥は私の巫女の素養により自我がよりハッキリと備わっていく。更なる進化の為にアオイと出会う。アオイより強い巫女の力を感じてアカネを求めた泥は、彼女の意識の安定に役立つだろうとメタローまでもを捉えようと欲張り、うっかり私を切り離す。

 その途端、私の意識が戻ってきた。無意識にも私は随分と計画を上手く操っていたようで、目の前には神器のドスと、今にも襲われそうなメタローが揃っていた。

 神器によって泥の自我を分かてば、それは単なるデータベースに過ぎない。泥はその自我をひとつとし、メタローは知識を備え、アカネは巫女として残りの泥を操り始めるだろう。

 さあ、私のお膳立ては終わった。

 匂が変わった狸の物語。ハッピーエンドは目の前だ。

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