第7話 メイドさんの胸の内
私の父、
幼い頃から父は旦那様と比較されて育ってきたらしい。そして父本人も旦那様を意識し、敵視し――――尽く劣ってきた。
それが許せなかったのか、悔しかったのか。私には分からない。
いつしか彼は自らの子供を、九条を潰すための道具として考えるようになった。
母は外国の人で、父が気まぐれに関係を持って生まれてしまった子供が私だ。
私が物心ついた時には母は亡くなっていて、妾の子である私が引き取られて白雪の名を持つことが出来たのは、父が私を九条潰しの駒を増やしたかったというだけの理由だ。
そして比較し、比較され続けてきた父は、子供同士を比較させるようになった。
比較とは、他と比べ合わせること。比べ合わせれば、優秀なものと劣っているものが生まれる。私は後者だった。兄や妹には何一つとして勝てるものがなかった。勝ったことがなかった。勉強も、スポーツも。何もかも。私は家族の中で誰よりも劣っていた。
父は優秀な兄や妹を愛し、やがて私はそこに無いものとして扱われるようになった。
家で私だけが劣った存在だった。
「まったく……兄どころか妹にすら劣るとはな。使えないやつだ」
父は私の顔を見るたびに機嫌を悪くして、私は何も出来ない自分を恥じた。父の役に立てない自分に価値を感じられなかった。
そんなある日のことだった。
「流石は八雲のお嬢様だ。幼くも麗しい見た目をしていらっしゃる。微笑んだ表情など、まさに雪の妖精ような愛らしさだ」
あるパーティーの場で、参加者の一人が私をそう褒めたたえた。
何もせずじっとしていろ。ニコニコ笑って立っているだけでいい。そう、父に言われたから、たまに微笑みを返すだけだったのだけれど……褒められた。それが嬉しかった。これなら父の役に立てると思ったから。
それから私は出来るだけ笑うようにした。笑うことしか出来ないから。笑うことでしか父の役に立てないから。父の役に立てば――――父に愛してもらえると思ったから。
でも、それは間違いだった。
「何をヘラヘラしている! 私をバカにしているのか!」
私の笑顔の笑顔は、父を怒らせるだけだった。
「で、でも……パーティーにいた人が、私の笑った顔を褒めてくれましたっ」
「あんなものは私にすり寄るための世辞に過ぎん! そんなことも分からんのか、馬鹿者が! ヘラヘラ笑っている暇があるのなら、少しは九条を叩き潰すための努力をしたらどうだ!」
父の眼は怒りと憎悪に染まっていた。
「もういい、よく分かった! 貴様では九条どころか凡人にすら勝てん。無能ならば無能なりに、せいぜい家族の役に立て!」
私は、人の役に立たなければならない。
「貴様の笑顔は不愉快だ! 二度と笑うな!」
私は、笑ってはならない。
「……承知、しました」
家族の役に立つこと。笑ってはいけないこと。
それが、父が私に唯一期待したことだった。やがて私は白雪家の人間でありながら、白雪家の使用人として働くことになった。そこでも失敗ばかりで、事あるごとに父を苛立たせた。
「まったく……満足に働くことも出来ないのか」
「……申し訳……ありません」
この頃から口癖のように毎日誰かに謝っていた。
笑うこともなくなった。
やがて私は父から勘当され、八雲の家を追い出された。
私が八雲の名を名乗ることすらも許さなかった。
そんな私を拾ってくれたのは、旦那様……九条の家だった。
旦那様は知っていたのだ。私の父が向ける憎悪と敵対心を。
そして、私が勘当されたことに対して責任感を抱いていた。
最初は養子になるように提案されたが、私はそれを断った。
私が九条家の養子になったことを知られれば、迷惑をかけると思ったから。
「働かせてください。人の役に立たせてください。がんばりますから。笑いませんから。だから、お願いします」
旦那様は、どこか悲しんでいるような、そんな不思議な眼差しで見つめたあと、私を白雪の家の養子にしてくれた。白雪は古くから九条の家に仕えている家だ。
きっと父が怒るからと、それも断ろうとしたけれど、旦那様は断固としてここだけは譲らなかった。当時まだ幼い子供だった私は他に行くアテもなかったし、何より傍に居れば八雲から守ることが出来ると説得されて、私は白雪家の養子となった。
そこで私は使用人として働きつつ、学校にも通わせてもらえた。
誰にも比較されない、普通の生活を送ることが出来た。
九条家の人たちや旦那様には感謝してもしきれない。
…………だけど私の中には、今でも父の
私は人の役に立たなければならない。
私は笑ってはならない。
それは今でも残っている。冷たい氷となって、私の心を覆っている。
だから、メイドという仕事を続けているのかもしれない。
笑顔を浮かべず他人に奉仕する
――――そんな日々の中で、私は明上秀一という人のことを知った。
彼のことは噂で以前から聞いていた。
同じ学年の生徒で、自分のことしか考えないとても自己中心的で自分勝手な最悪な男子がいるという悪評だったけれど。
その噂を聞いた時、私はその人が羨ましく思えた。
他人の役に立たなければならない。その言葉に縛られて生きる私にとって、自分のために生きることのできる人がどうしても羨ましかった。
「明上ぃ、悪いんだけどさー。ちょっとこのノートを先生のとこまで届けてくんねー?」
「オレたち、これから部活があるんだ。今は大会前だし、少しでも時間を無駄にしたくないんだ。頼めないか?」
私がその場面に出くわしたのは偶然だった。
放課後の教室にいたのは明上様と、雨戸さん、犬養さんの三人。
教卓の上にはノートの山が幾つか積まれていた。あれを全部運びだすにはそれなりの時間がかかるだろう。一年生でありながらレギュラーに抜擢され、大会を控えている雨戸さんにとっては集中したい時期なので、時間のロスを避けたいという理屈は理解することが出来た。
だけど明上様は、
「は? 先生からそれを運ぶように頼まれたのはお前らだろ」
「だからー、光流っちは部活があるんだよ。一年でレギュラーに抜擢されたんだから、プレッシャーとかあるわけ。分かる? 協力してくれよ頼むから」
「それを手伝って俺が何か『得』するのか? むしろ『損』でしかないだろ」
明上様はそのまま鞄と、プリント(それを書くために居残りをしていたのだろうか)を持って席を立った。
「ちょっ! 待てって!」
「誰が待つか。生憎とな、俺は自分のためにしか時間を使いたくないんだよ。じゃあせいぜい頑張って運べよ、期待のレギュラー様」
それだけを言い残して、彼は教室から出て行った。
「何なんだよあいつ。自分のことしか考えてねーんじゃね?」
「…………まあ、急にお願いしたオレたちも悪いしな」
「光流っちは優しいなー。はぁ……大会まで時間もねぇのにな」
困り果てたように肩を落とす犬養さんを見て、私はそのまま教室に入った。
「よろしければ、私が運びますよ」
「えっ! うっそ、マジで!?」
「君は確か、他のクラスの……白雪さん、だよな? いいのか?」
「構いません。私でお役に立てるのであれば」
「じゃあお願いしちゃうわー! マジで助かるっつーか!」
彼らの役に立つために仕事を引き受けた私は、何往復かしてノートを全て運んだ。
そのことがきっかけで、雨戸さんたちは私に話しかけてくるようになり、いつの間にか学園では彼らと行動を共にすることが多くなった。
あの時の明上様は、雨戸さんたちにとっては最悪の印象だろう。
でも……私は知っている。それだけじゃないことを。
ノートを運び終えた後、いつもより少し遅い時間に下校している最中に……私は偶然それを目撃した。
「悪いねぇ、秀一くん。学校の用事もあるだろうに、町内会の催しの準備を手伝わせちゃってさ」
「別に学校の用事なんか何もないから、気にする必要はねーよ。それに、今日の放課後に手伝いに来るって約束してたろ」
「ははっ。そりゃあそうなんだけどね。学生だし、放課後は遊びたいんじゃない? それこそ、『損』ってもんだろうに」
「いいんだよ。報酬におっちゃんとこのコロッケが食えるなら、俺にとっては『得』だからな。……これ、そっちの方に運んどくよ」
彼は、大量のダンボール箱を運んでいた。中には町内会の催しで使うであろう備品が入っているのだろう。
知ってみれば単純な話だった。
彼にはただ、町内会の手伝いをする先約があっただけで。
だから放課後は先を急いでいたというだけで。
その時に私は知った。
明上秀一という男の子は、ただ不器用なだけの優しい人だということを。
たとえ周りから誤解されようと、不器用なりに自分の為に生きているということを。
そんな明上様の姿が、私にはとても眩しく見えた。
……ちなみに後日、彼が手伝いを断わった理由を雨戸さんたちに説明したが、彼への印象が悪いせいか、あまり信じてもらえなかった。
それ以降も、私と明上様が直接的に接する機会というものはあまりなかった。
あったとしても事務的な会話程度のもの。私の方が彼を意識して、見ていることはあったけれど、それだけだった。
だから正直言って、最初は驚いた。
旦那様が階段から落ちた時、下敷きにしてしまった人が明上様だと知った時は。
「はぁ……彼には感謝してもしきれないが、それ以上に申し訳ないよ。骨にヒビが入ってしまったんだから。……しかし驚いた。まさかアリスと同じ学校の生徒だったとはね」
「そうですね……私も驚きました。事故とはいえ、このような偶然が起きるなんて」
「事故? ああ、いや。違うんだよ」
旦那様は苦笑すると、
「僕が階段から転んだ時ね。確かに彼は下に居たけれど……それでも位置的には少し離れた、ぶつかるはずのない場所にいたんだ」
「それは……どういう……?」
「明上くんはね、僕を助けようとして下敷きになったんだよ」
その言葉を聞いた時、私は驚くあまり言葉すら失った。
「驚いたよ。あの一瞬、あの咄嗟に、彼は僕を助けるために動いてみせた。あの場で、誰もが突然のことに驚き、立ち止まる中で彼だけが走り出していたんだよ」
旦那様の話を聞いた時、私はそれを素直に信じることが出来た。
「だというのに、彼は『ただの事故だから気にする必要はない』って言うんだよ。なかなか出来ることじゃないし、言えることでもない。とても不器用だけど、とても優しい子だ」
その姿はあまりにも……私の知る明上様の姿と重なるから。
「こういうのは、上に立つ者としての性なのかな。彼みたいな面白い子はどうしても気になるし、せっかくの縁は大事にしたい。……でもお金とか物品は受け取ってくれないし……退院してもしばらくは腕に無理は出来ないだろうから、誰か世話係でも寄越そうかな」
「……あの」
旦那様の呟きに、私はすぐに反応した。
「……その世話係、私にやらせてもらえませんか?」
自分でも分からない。なぜこんなことを言い出したのか。それぐらい、反射的に口に出していた。
「驚いたな。君がそこまで『自分』を出すなんて」
「……申し訳ありません。旦那様がお決めになることなのに……」
「気にしないで。むしろ嬉しいんだ。君がこの家に来てから、ここまで自分の意志を主張したことはなかったから。うん。それじゃあ、明上くんの世話は君に任せたよ、アリス」
こうして私は、明上様の世話係として彼のもとへとやってきた。
表向きは、旦那さまからの命令というていで。
――――外でずっと待たせると逆にこっちがやりにくいんだよ。ちょっとの手間で気持ちが多少軽くなるなら、そっちの方が『得』だ。
――――けどな、悪くもないのに一方的にペコペコ謝らせて気分を良くするほど、落ちた人間でもないつもりだ。
――――今後はもう『申し訳ありません』は禁止な。
――――勘違いするな。そりゃ、お前が悪い時はちゃんと謝れ。けど、悪くもないのに謝るな。そんなことされても俺に『得』はないんだよ。
……少なくとも八雲の家では、悪くもないのに謝ることばかりだった。
『申し訳ありません』と言うのが当たり前だった。
でも明上様はその『当たり前』を否定してくれた。
――――だから……もういいんじゃないか。
――――お前はもう、笑ってもいい。
――――笑っても、いい……?
――――ああ。昔はどうだか知らないけどさ。今は違うだろ。お前の家族はここにはいないし、お前が笑う方が、嬉しくなる奴の方が多いと思う。
私の中で少しずつ何かが溶けていくようだった。
父からの命令が、少しずつ、少しずつ……溶けていく。
だから、私は笑えたんだと思う。彼の前だからこそ……笑えたんだと思う。
明上様は『損』か『得』かで物事を考える。
自分が『得』をすることを選んで行動しているけど、それは自分ためだけじゃない。本当に自分のためだけのことを考えるなら、私のことなんか気にしない。
結局のところ。彼の損得勘定はどこまでも優しい。
未だ他人に縛られている私に対して、彼は不器用なりに自分を貫き通している。
その不器用で真っすぐな優しさが眩しくて、輝いて見えて、憧れて……同時に放っておけないと思った。
父に命令されたからじゃない。
私の意志で、彼の役に立ちたいと思った。
☆
「…………んあ」
スマホから鳴り響く着信音で不意に目が覚めた。
幸いにして頭はすっきりとしていて、体調も良い。倦怠感がかなりマシになっている。
これなら明日は普通に登校できるだろう。
白雪の姿はもうない。テーブルの上には土鍋が置かれたままだ。中身は白雪が作ってくれたおかゆだろうか。……結局、手を付けないまま眠ってしまったのは悪いことをしてしまったな。あとで有難くいただくとしよう。
「真琴?」
電話の主は真琴だ。ひとまずスマホを手に取り、その着信に応える。
「…………病み上がりだぞ、こっちは」
「やあ、秀一。元気そうで何よりだよ」
「で、何の用だ。お前がわざわざ電話をかけてくるってことは、よっぽどのことが起きたのか?」
「そうだね。そうかもしれない」
「? お前にしては歯切れが悪いな」
「一応、知らせておいた方がいいだろう……ぐらいものだからね」
「じゃあ一応、聞いといてやるよ」
「君が休んでいる間、白雪アリスについて、ちょっとした噂が流れているんだ」
「ただの噂話かよ。あいつは有名人だし、そんなの今更だろ」
「いつもの噂話ならそうかもしれない。けれど今回は少し違う」
「違う? どんな噂なんだよ」
真琴は一拍間をおいて、
「『昨日、あの白雪アリスが男と傘をさして歩いていた』……という噂だ」
「へぇー。あの白雪が……」
……待て。昨日? 傘をさして歩いていた?
「誰が言い出したのかは知らないが、クラス中がこの噂で持ち切りだよ。特に一緒に歩いていた男は誰だと、みんなが騒いでいるんだ」
……それって俺じゃねぇか!
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