第5話 相合傘と彼女の微笑み

 俺は『損』が嫌いだ。そしていつまでも負債を抱え込んだままでいるほど呑気でもなければお人好しでもない。

 放課後になった後、俺は真っすぐ自分の家に帰った。

 白雪に『お礼』をするにしても、学園の中で堂々とするようなことでもない。鋭い真琴の前でアプリでメッセージを送ることすら躊躇われたので、ひとまず先に帰宅したのだ。


「『家に帰ってきたら連絡くれ』……っと」


 アプリでメッセージを飛ばすと、すぐに返事が返ってきた。


 ――――承知いたしました。

 ――――買い出しを済ませ次第、すぐに戻ります。


「なんだ。買い物に行ってたのか」


 さっさと借りを返そうと身構えていた俺としては少し出鼻を挫かれた形になる。

 ちょっとした隙間の時間が出来てしまったので、途中になっていた引っ越し用のダンボール開封作業を再開する。


「この折り畳み傘、双葉のやつじゃねーか」


 ダンボールから出てきた折り畳み式のライムグリーンの傘は、俺の物ではなく妹の双葉のものだ。どうやら間違って紛れ込んでしまったらしい。後でうるさそうだ。幸いにして、俺が引っ越してきてから雨はまだ降っていないので気づいていないだろう。タイミングを見て実家に帰しに行かないとな。


「あ……」


 傘を見たせいか、自然と視線が窓の外へと流れる。

 開封作業を行う前は晴れていた空は既に雲が覆い尽くしており、ぱらぱらとした小雨が降りしきっていた。


天気予報アプリじゃ、雨が降るほどじゃないって言ってたのにな」


 今はまだ大したことのない小雨だが、空を見た感じではこのまま勢いが強くなってもおかしくはない。


 ……白雪たにんが雨に濡れようが俺の知ったことじゃない。が、そもそも白雪が買い出しに出かけているのは、俺の世話をするため。恐らく俺に出す食事の食材も入っていると考えられる。仮にそのせいで風邪でも引かれたら、また借りを増やすことになる。つまりそれは、俺にとっての『損』だ。


「しゃーないか」


 折り畳み傘を持ってそのまま家を飛び出して、小走りで近くにあるスーパーに向かう。

 このあたりで食料品の買い出しが出来そうな店はそこぐらいしかない。そこに白雪がいなかったら改めてアプリで連絡を取ればいい。


「くそっ。結構強くなってきたな」


 走っている内に雨の勢いが強くなってきた。

 足を速め、びしょ濡れになる前になんとかスーパーの屋根の下まで滑り込むことに成功する。


「はっ……はっ……はっ……くそっ。あの天気予報アプリ、帰ったらすぐに削除してやる」


 我ながら理不尽な愚痴を零し、息を整えながら周囲に視線を送ると、


「ビンゴかよ」


 屋根の下で雨の降りしきる空を眺めている白雪を見つけた。

 食材で膨らんだスーパーの袋を両手で持ったまま佇んでいる。制服を身に着けているということは、やはり学校帰りにそのまま買い出しへ出かけたのだろう。

 そしてここで立ち往生しているということは、やはり傘を持っていないのだ。


「――――よし」


 呼吸を整えたことを確認すると、俺は白雪のもとまで歩み寄る。


「白雪」


「明上様?」


 いつも淡々としていて冷静な白雪が、少しばかり驚いていた。


「どうしてこちらに?」


「傘、持ってなかったと思ってな」


 ライムグリーンの傘を差し出す。勝手に使ったら文句を言われる可能性もあるが、まあバレなければセーフだろう。


「それを届けるために、わざわざ?」


「わざわざってほどでもねーよ。お前に風邪でもひかれたら、こっちも気分的にあんま良くないからな」


「……お気遣いありがとうございます」


 律儀に頭を下げる白雪。スーパーという庶民的な場所なだけに、その丁寧かつ気品のある仕草や振る舞いがどうしても浮いてしまう。


「よし。そんじゃ、帰るか。これぐらいの雨なら折り畳み傘でもなんとかなるだろ」


「はい。ですが…………」


「ん?」


 ライムグリーンの傘を見ている白雪はどこか困惑気味だ。

 もしかしてデザインが気に入らなかったのだろうか。


「その……折り畳み傘は、一つでよろしいのでしょうか?」


「あっ」


 言われてみればその通りだ。傘の一般的な使い方として、普通は一人につき一本。

 だがここにあるのはたまたま紛れ込んでいた妹の傘が一つだけ。数が合わない。

 いや、待てよ。ここはスーパーだし、傘ぐらい売ってるだろ。


(…………ついでに財布も忘れてた)


 いつも財布を入れている場所に何もない。ただ傘を届けるだけのつもりだったから、財布を持ってくるのも忘れてしまった。

 買い出しを済ませた白雪は財布を持ってるだろうが……この状況で「傘奢ってください」なんて言えないし、これ以上、借りを増やしたくもない。


「お前が使え」


「いえ。明上様がお使いください」


「それじゃ意味ねーだろ。何のためにわざわざここまで持ってきたと思ってるんだ」


「私のことならお気になさらないでください」


 ……意外と頑固なところがあるな。

 俺は譲るつもりはないし、白雪の方も譲るつもりはない。話は平行線だ。

 このまま雨の中で延々と終わりのない譲り合いを繰り広げるのは不毛だし、俺にとって『損』しかない。かといって二人とも濡れながら帰るという選択肢もないとなると……。


「……しゃーねぇ」


 ライムグリーンの傘を広げ、目の前に差し出す。


「二人で使うぞ。これなら文句ないだろ」


 互いが譲り合い続けるという不毛な状況を終わらせるための折衷案。

 それでも白雪は申し訳なさそうに躊躇っている。だが生憎と、こっちにこれ以上の譲歩は存在しない。


「……分かりました」


 あまり表情が大きく変わらないので分かりづらいが、しぶしぶといったていだ。

 それを無視して、俺はライムグリーンの傘を広げてその中に白雪を入れる。

 ……図らずも相合傘をすることになってしまったのだが、ここが学園から離れていることだけが救いだな。こんなところを誰かに目撃されようものなら、俺は学園中の男子から八つ裂きにされてしまうことだろう。


「……明上様。肩が濡れています」


「仕方がないだろ。折り畳み傘が小さいんだから」


「でしたら、もっとそちらに寄せるべきです」


「俺が傘をどう持とうと、俺の勝手だろ」


 暗にこれ以上の言及を許さないと示しつつ、ぴしゃりと言い放つ。

 ……ちと言い方が厳しすぎてしまったか、と危惧していると、


「……明上様は、お優しいのですね」


「何をどう勘違いしたらそうなるんだよ」


 白雪から出てきた言葉はまったくの想定外といっていいものだった。

 優しい? 俺が? 学園であれだけ嫌われているというのに。


「……優しくない方は、こうして傘を届けることも、傘を持つこともしません」


「これ以上、お前に借りを作りたくないだけだ」


 俺が動くのはあくまでも自分のため。自分が『得』をするためだ。

 それを優しいと表現するなんて、白雪のやつはセンスが独特だな。


「あの……今日の昼食は、お口に合いましたか?」


「……そうだな。正直に言えば、美味かった」


「よかったです。お昼は、そればかり気になって……」


「それ以外にもっと気にした方がいいコトもあると思うけどな」


 弁当の話題になって思い出した。


「白雪。お前、何か俺にやってほしいことはあるか」


「えっ……? 私が、明上様にですか?」


「ああ。今朝は二時間も待たせっぱなしにしちまったし、おまけにあんなに凝ってて美味い弁当まで作ってもらったわけだしな。お前には借りが出来てる」


「そんなことは気になさらないでください。それに、昼食を作るのは私の仕事ですから」


「じゃあ待たせっぱなしにしちまった件のお詫びってことにしといてくれ。流石に何もしないままなのは落ち着かないし、そんな気分を抱えたまま過ごすのは俺にとって『損』だからな」


 奉仕対象から逆にお願い事をされるとは思わなかったのだろう。

 白雪は戸惑いながらも、目を丸くしながら俺を見ている。


「明上様は、『損』をしているのですか?」


「そうだよ。俺は損得勘定の奴隷でね。他人が損をするならともかく、自分が損をすることは我慢ならないんだ」


 これは俺のある種の信念のようなものだ。たとえ身勝手だとか自己中心的だと言われようが、変えるつもりはない。


「……ふふっ」


 笑った。いつも、誰にでも、淡々としている白雪が。

 氷のように涼し気で、教室では滅多に表情を崩すことのない白雪が――――笑った?


「何が可笑しいんだよ」


「……いえ。明上様は私の思っていた以上に、お優しい方だと」


「過大評価も甚だしいな」


 何となく白雪の顔を直視することが出来ずに顔を逸らす。

 すると、後ろからこの雨の中を凄まじいスピードで走行してくる車が見えた。


「白雪っ」


 それは、反射的な行動だった。猛スピードで横切った車がまき散らした水溜まりの飛沫が、バケツから引っくり返した水のように襲い掛かってきた。

 ギリギリのところで気づくことが出来た俺はかろうじて反応し、自分の身体を盾にする。

 おかげで水をまともに被ってずぶ濡れになってしまったが、なんとか白雪には水がかからず済んだようだ。


「あ、明上様っ!? 申し訳ありません……! 私が何も気づけず……!」


「あのな……だから悪くもないのに申し訳ありませんはやめろって……はっしゅくっ」


 やばい。なんかこれ、思った以上に寒いぞ。

 ただでさえ冷え込んだ雨の中を歩いてた上に、傘の範囲を白雪に譲ってたからな……そこから水をかぶったせいで、いよいよ本格的に体が冷え込んできたようだ。


「寒っ……これちょっとやべーな」


「あ、えっと……私、どうすれば…………」


 目に見えて狼狽している白雪。おろおろとしている様は教室じゃ拝んだことがない。

 何気にレアだな、とか。そんなことを考えている自分に苦笑する。


「別に何もしなくていいって。家に帰って風呂に入ればいいだけだろ」


「で、でしたら先に、一刻も早くご帰宅なさってください」


「アホか。お前、絶対に傘を受け取らねーだろ。それじゃあ意味ないんだよ。これでお前が風邪をひいてみろ。俺にとっちゃ大損だ」


「そんなことを仰っている場合では……」


「心配してる暇があるなら急ごうぜ。家まであと少しなんだから」


 その後、早歩き気味になりながら俺たちは共に同じ傘を使って帰宅した。




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