第5話 こんな時に……

<47:94>

 

 スマートフォンの時刻はバグっていた。 

 正確な時刻を知ろうと知れず、通話をしようにも繋がらない。

 ネットワークはオフラインの表示が出るだけ。

 家族や友達に安否確認すらできぬ状況に陥っていた。

「だからどうしたのよ!」

 優希は混乱する心に強い声を叩きつけた。

 混乱しているのは状況を把握してないからだ。

 右も左も何一つ見ていないからこそ、方角が定められない。

「島は、え~っと、あっちか!」

 橋の基部を基点に優希は方角を確認する。

 先頭車両から左に目線をなぞらえれば、遠目でもわかるほど一カ所だけ明かりが見えた。

 位置的に考えれば、あの明かりは島東側にある総合病院のはずだ。

 この暗さから類推して時刻は深夜、総合病院だけ明るいのは非常電源を使用しているから。

 つまり島と本土を繋ぐ送電ケーブルが地震により切断した。

 送電ケーブルだけでなく携帯無線の中継アンテナも倒壊していると判断していいだろう。

 ただ解せない点もある。

「星一つないなんて不気味すぎる」

 女の勘が産毛を逆立させ、唇が震える。

 今は一歩でも足を動かす。動かし続けて死から離れ、生に近づけ。

「そうだ。船なら!」

 思い出すように優希は船室を漁る。

 スマートフォンのライトを頼りに銀色のリュックを戸棚から見つけだした。

「やっぱりあった!」

 万が一船が漂流した際に必要な救命備品。

 海での操業がメインだからこそ漂流は起こりえる事態であり、死から生き抜くための備品が用意されていた。

 漂流しないから大丈夫? なんて軽口叩くのは漂流の恐ろしさを知らぬ痴れ者だ。

 離島に住まう者は海難事故の恐ろしさを幼き頃より徹底的に教え込まれる。

 常時海流に流され現在地はコロコロ変わる。日本海を漂流していたと思えば太平洋で救助されるのはザラ。泳げば助かる距離ではない。泳ごうならば海に体温と体力を奪われ魚の餌となる。

 ライフジャケット常着は海だからこそ当たり前。居場所を知らせるライトに発煙筒は基本アイテムだ。

 特に飲料水と食料は生命を繋ぐ糧となる。

 喉が乾いたからと海水は飲むな! 海水は飲むな! 命を縮めるぞ!

「荒木さん、バイト代入ったらしっかり返しますので!」

 船の持ち主に届かぬ言葉だろうと言わずに入られない。

 手慣れた手つきでライフジャケットを着込む。成人男性用のサイズなため少し大きいが、わがままいえる状況ではない。

 これ幸いなのはライトがライフジャケットの肩に取り付けられることだ。

 これなら両手が開き、暗闇の中を手探りで進むリスクが減る。

「ここを登るしか、ないわよね」

 ライトで照らすのは鎌首もたげる先頭車両。

 スロープ状に脱線しているため、車両を通じて橋の路線部に出られるはずだ。

 漁船で島まで移動する手もあるが船の操舵など優希が知るはずもない。

 乗車中に被災した人たちには悪いが脱線車両は優希を島にたどり着かせる命綱となった。

「やっぱり中は濡れてない。まだ津波は来ていないんだわ」

 コンクリートの基部を足場にして開きっぱなしの操縦席側のドアから車両内に入る。

 滑り台を逆に登る要領で足腰に力を入れれば、吊革を支点にしてゆっくりと登っていく。

「な、なんとか!」

 吊革掴めぬ身長ではないが、車両が傾いていることで備品入ったリュックが背中を引っ張っている。

 重みにより滑落せぬよう慎重に進みながら周囲に目を配る。

 人の気配はなく、不気味なほどの静寂が優希の不安を駆り立てる。

「車両にいた人は、避難した後なのかしら?」

 第二車両に続く扉に手をかけながら自問する。

 水平となった車両を進めば、ガラスや乗客の荷物が散乱しており、各扉が開かれ、外へと繋ぐ足場が設置されている。

「えっとどこから出ればいいのかしら?」

 足場を介して車両外に出た優希。

 線路を踏まぬよう神経を使いながら路線に出る。

 ついていると、暗闇を照らすライトで優希は頷いた。

 確かに橋は骨折しているようだが、現状、瓦礫が避難経路を塞がず、人が動けるスペースが生きている。

 見るからに折れた部位と部位が支え合って倒壊を防いでいるようだ。

「でも急がないと余震で倒壊する危険性がある」


 明かりのついた総合病院はまるで真夜中の北極星。

 星明かり一つない暗闇の世界で唯一の目印として進むべき方角を示してくれる。

「ふう」

 優希はペットボトル入りの水を一口含んで軽く一息。

 袋には五〇〇ミリリットルの飲料水が一二本。

 水だけでも六キログラムはある。

 防寒着や携帯コンロ、医薬品に非常食を含めれば軽く二〇キロは超える。

「これぐらいの重さがなによ。鉄鍋振るうより軽いわよ!」

 委縮する心に発破をかけて優希は暗闇を再び歩き出す。

 救援がいつ来るか分からぬ以上、可能な限り物資の消費は控えたい。

「どのくらい歩いたのかしら?」

 確認できるのは総合病院の明かりだけ。

 時刻を確認できず、なおかつ暗闇だからこそ時間感覚と距離感を曖昧にさせる。

 ただ進む度に総合病院の明かりは大きくなっており島に近づいている証明だった。

「ってあれ!」

 だが、暗闇の道しるべは唐突に終わりを迎える。

 総合病院の明かりが潰えたのである。

 明かりが再び点灯することはなく、暗闇が鉄橋を支配する。

「そ、そうよ、橋はまっすぐなんだからそのまま進めば島にたどり着ける、ひいっ!」

 どぼんと海への着水音が立て続けに響くなり優希は全身を強ばらせて悲鳴を上げた。

 何かが海に落ちた。

 海に囲まれた離島だからこそ音の大きさで正体が否応にも判断してしまう。できてしまう。

「まさか、ひ、人?」

 上の自動車用通路から人が落ちたのか。

 考えられるのは一つ。

 上の道は地震により車両の多重衝突事故が起こり通行不能。

 下の路線ならば移動できるはずだと、無理に降りようとした結果、足を滑らせて海に落ちた。

 だとしても着水音が多すぎる。

「どこに!」

 優希は欄干に身を乗り出せば海面をライトで照らす。

 だが、海面は無数の波紋を描くだけで溺れる者は誰一人見あたらない。

「ど、どうしよう……」

 優希に落ちた者を救う術はなく、通報しようにも通話はできない。

 助けに行くことも見捨てることもできず途方にくれる中、欄干に何かが激突し硬き金属音が暗闇に響き渡った。

「今度は何よ!」

 ライトで照らせば、人がくの字に折りが曲がった状態で欄干にひっかかっていた。

「あ、あの大丈夫、でしょうか?」

 ライトに照らされる人はスーツ姿の男性だった。

 優希は不安げな声で男性に呼びかけるも干された布団のようにピクとも動かない。

 落下の衝撃で強く胸を打ち悶絶して動けないのか。

 肩を揺するも反応なく、手より伝わる冷たさに直感が怖気を走らせた。

「なに、この冷たさ……」

 男性はまったく海水に濡れていない。なのに濡れたように冷たく、凍えるにしても季節外れだ。

 びくりと男性の肩が跳ね上がるように動く。

 意識を取り戻したのかと再び声をかけた。

「あの大丈、夫、でしょ、う――え?」

 優希の呼びかけに男性が顔を上げた。その顔の左半分は潰れ、左目から眼球が提灯のように垂れ下がっている。

「ひっ……ん? んんん?」

 最初こそ怖気驚いた優希であったが、男性は見かけ以上に元気に動いている。あまりにも精緻すぎるゾンビ顔は、一瞬にして、ぞわりと髪の毛が逆立つほどの怒りを噴き上がらせる。

「こんな時に……悪ふざけするなあああああああっ!」

 優希は怒りに震える手で男性の頭をぶっ叩いていた。

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