第2話 サト姉、なにがあったんだ?
祖父宅は広大な平屋作りの和風建築物。
剣道道場が左に隣接しているため、島内でも屈指の広き敷地を持つ。
祖父から教えを請わんと本土から弟子入りする者も多く、下宿所が道場隣に併設されていた。
龍夜の私室は離れにあり、母屋に向かわんと外に出る。
「ぐっ、なんだこれ!」
母屋の襖を開けるなり流れ込む死臭に顔をしかめた。
異世界において嫌ほど嗅がされた死の匂い。
さっきまで命だったものが血肉となって散らばる匂い。
「この空気、気にくわないな」
室内だからこそ血肉の匂いは籠もり、不快さを増大させる。
現代日本でまず体感することのない光景。
カンテラボールで照らせば、板張りの廊下は土足で踏み躙った痕跡が目立ち、天井や畳には飛び散った血が黒く変色して張り付いている。
「付着して一週間以内か?」
これは異世界知識ではなく、ただ単に警察ドラマの知識だったりする。
「強盗にしては派手だし、そもそもじいさんの家をわざわざ襲うなんてデメリットしかないぞ」
祖父の
抜刀したと思えば二太刀目なく対象を両断していた速さと腕は衰えを知らない。
真剣抜きにしても強盗が仮に押し入ろうと体術による複雑骨折は免れないはずだ。
「だが現実はこれだ」
大広間に足を踏み入れるも人の気配が微塵も感じられない。
広大な屋敷だからこそ何人もの家政婦がパートタイムで働いているはずが、どの部屋を覗こうと誰一人見かけない。
ただ見つけたのは壁や畳に付着した夥しい血痕だ。
「なんだこの違和感……」
殺人現場のような凄惨な光景のはずが、龍夜の中で違和感と危険予知が警戒を発している。
何かを見落としている。だから本能が今すぐ離れろと叫ぶ。
ギィと板張りの床を踏む音が背後からした。
音は龍夜のいる部屋にゆっくり近づいている。
警戒が無意識に手を動かし腰に携えた日本刀の束に添えさせた。
「タツ、ちゃん」
耳に馴染んだ鈴のような優しい声が暗がりからする。
知った声は龍夜の警戒を安堵にて緩ませ、日本刀の束から手を離す。
「その声、もしかしてサト姉か?」
この家に詰める家政婦の一人だ。
祖父の教え子の一人であり、姉弟子としてよく稽古をつけてくれた。
黒い剣道着姿で木刀振るう姿は凛々しく、幼き頃の龍夜はその姿に惚れ恋い焦がれた。初恋だった。
大学進学を期に島を出るも結婚と出産、旦那の転職を機に島へと戻り、子育ても落ち着いたと家政婦のパートを半年前に開始した。
「サト姉、なにがあったんだ?」
ゆっくりと龍夜は声の主に振り返った。
カンテラボールの明かりが彼女を照らす。
彼女の首は九〇度右に曲がり、譫言のように龍夜の名を発しながらすぐ側まで迫っていた。
「タツちゃ、ん、ちゃ、ちゃん、ちゃ」
龍夜は彼女の姿に絶句し全身を恐怖で硬直させた。
あの首の角度、生きられるレベルではない。普段後頭部でまとめられた髪は柳の枝葉のように垂れ下がり、額に穿たれた穴よりどす黒き血を垂れ流しては口周りから着物を赤黒く染めている。
「だづぢゃああああああんんっ!」
しゃがれた声を発しながら龍夜に襲いかかってきた。
突発的な事態に恐怖が鎖となり足を縛るも、異世界で勇者として培われた戦闘本能が鎖を砕き、迅速な行動を起こす。
龍夜は掴みかかってきた彼女から身を伏せては紙一重で避け畳を蹴った。
生じた慣性を生かして距離をとりながら彼女と正面から向かい、膝立ちの姿勢で日本刀の束に手を添える。
「サト姉、何なんだよ、その格好! 何がっ!」
死んでいるレベルだ。生きているはずがない。動けるはずがない。言葉を発している。だが、明らかに龍夜を喰らおうとしている。それでも身内の無惨な姿を問わずにいられない。
「そうだ、どうして死体がないんだ!」
誰かが動かし別の場所に安置していると思いこんでいた。
だが、死体が一人で動いたなら違和感の謎は解ける。
異世界の戦闘で培われた目が真実を見通してくる。
勇者としての能力は封印されていようと記憶は封印されていない。
怖気が走る。寒気が貫き、唇を乾かしてくる。
「
死者に霊体が憑依すれば命あるものを喰らう脅威となる。
本能に赴くまま血肉貪り、言葉を発しようと死者に残留する記憶から発しているに過ぎず理性などない。
生きていると家族や友に希望を錯覚させては、血肉を喰らいその数を増やす。
死んでいるからこそ痛覚はなく、頭を破壊しようが腕を切り落とそうが、胸に風穴が開こうがおかまいなし。
特に魔王との戦争で死者は日々生まれ、埋葬する暇などないからこそ脅威となった。
対処法は三つ。
殺すのではなく壊すことが主な前提となる。
一つ、死霊は肉体を器として活動する。
ならば器を物理的に破壊すればいい。
活動できないほど完膚なきまでに。
あるいは火葬場並の火力で灰になるまで。
もっともこの方法では器を破壊するだけで原因となる霊体は存在しており、別なる器に憑依するイタチゴッコとなる。
二つ、死霊だからこそ浄化の聖光、所謂ターンアンデッドで穢れし魂を浄化する。
強大な浄化を持つ者が使用すれば半径五キロ全ての霊体が昇天するほどだ。
三つ目、死霊は死の塊、言わばマイナスエネルギーで身体を動かし操っている。
ならば生きたいと抱く強い意志、強い心の力、プラスエネルギーをぶつけて霊体を消失させる。
熟練者ならば肉体を斬らずして霊体のみを消すことも可能だ。
霊体を葬るスキルを当然のこと、龍夜は取得しているも帰還の際、全てのスキルは封印した。
「ここは異世界じゃないぞ! なんでいるんだ!」
現実でありえない光景に頭がおかしくなる。
だが、異世界での修羅場で培われた精神が理性を強制的に保つ。
物理的に切り捨てるのが現状得策だろうと、抜刀を躊躇する。
それは相手が身内、初恋の人だからだ。
現実から目を逸らすように避け続けるだけだ。
「斬れよ、斬れるだろうがよ!」
躊躇する自分に龍夜は叱りつける。
異世界にいた龍夜は死霊を数え切れぬほど斬ってきた。
パンを分けてくれた老人、ベッドを提供してくれた未亡人、資金援助をしれくれた商人、ここは先に任せろと場を託した若き騎士、明日の希望だと一輪の花を育てていた子供すら死霊の餌食となり、闇の脅威の一つとして切り捨てた。
死んだ人間は死んでいるからこそ救えない。
確かに蘇生術式はあろうと、龍夜は使い手ではなかった。
死者は生かすべきではない。眠らせるべきなのだ。
「散々さ異世界の人たちを斬っておいて身内は斬れないのか!」
四方から床板が軋む音がする。
鼻をつんざく死臭が近づいている。
部屋同士を仕切る襖が外部から倒され、知った顔の死霊たちが龍夜を取り囲んでいた。
その数二〇。
この家に勤める家政婦であり、出入りする業者、祖父の友人に道場の門下生たち。
「嘘、だろ、う」
愕然と声を絞らせてしまう。
慟哭が胸を締め付け、呼吸を阻害した。
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