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「俺もある。先に話して良い?」
サキコは返事をするかわりに、不安そうに俺を見上げる。
「サキコ、何か大事なこと隠してない? その、家……とか」
サキコは
「……家に、来てたって聞いた。……がっかりした?」
「いや、がっかりはしないけど……ショック? 何で嘘つかれたんだろうって。俺には教えたくなかった?」
サキコが俺を見つめて、頭を横に振る。
「二年の時に送ってもらったマンション、中学行く前まで住んでたの。あそこは、私にとって楽しい思い出が残ってて。あの日は、トキヤにはあっちの家に送ってもらって、一日を終わりたかったんだ」
「どうして、今の家じゃだめなんだ?」
サキコは小さく息を吸い込んで、俺の胸に置いた指先に力を入れた。
「あの頃、お父さんと喧嘩ばっかりしてて、トキヤを連れて帰りたくなかった。見つかったら、絶対喧嘩になるし……。マンションから父親の実家に引っ越した理由ね、離婚したからなの。だからかもしれないけど、お父さん、私のことにすごく、口出してくるようになってて……」
「えっ、離婚とか初耳なんだけど……。じゃあ、お父さんと二人で暮らしてるんだ?」
サキコが
「その後色々あって……、今は前みたいに喧嘩しなくなったけど」
「……その、お父さん、病気なんだよね。大変なの?」
「うん……、まあ。命には関わらないんだけど。
なるほど、父親に付き添える家族はサキコだけだったのだ。両親の離婚も、俺に隠していたことの一つだったのか。だから俺には付き添いで休むと言えなかった。
「マンション見た時、イメージ通りの家だとか、凄く褒めてくれたから、実は違うって言えなくて……。だから、ずっと隠してた。がっかりさせたくなくて……ごめん」
「別に、そんなことでがっかりするわけないよ……」
これは、もしかしてフラれることを回避できたのではないか? これで俺たちの間に横たわる問題は、解決だ。
「私も、この子みたいに素直な性格だったら、良かった……。やっぱり、キレイに落ちなかったね、このアイライナー」
サキコは俺のブレザーの襟に
「え……? アイライナー……、あっ」
リナの涙で付いた跡だ。これがアイライナーだと知っている? 今回、俺はリナのことを話していない筈だ。嫌な予感だ。心拍数が上がる。サキコにもこの動揺が伝わっているに違いない。
「あの時、何して…… 」
そこまで言ってサキコは言葉を切った。見られていたんだ。三年前と同じように、告られたことを話しておけば良かったのか?
「いや、何もない。告られたけど、断った。リナがちょっと泣いたから、それで……」
「それで、
サキコは俺の顔を少し見て、胸元に目を落とす。俺の優しさは、サキコにフラれた自分と重なったからなんだけど。別に他意はない。
「あの後、私に言いに来たよ。トキヤのこと本当に好きでつきあってるかって。どっちでもいいなら、解放してって」
「え? リナがそんなこと言ったのか?」
これは、三年前は知らなかったことだ。リナがそんなことをサキコに言いに行っていたなんて。リナに変に期待を持たせてしまったのだろうか。
「信じられない? そうだね、私嘘つきだもんね」
「いや、そんなことは……」
たとえそんなことがあったとしても、今の俺に卒業式以降、リナから連絡が来たことはない。俺がリナの頭を
「気にする必要はないよ。この先にリナと何かあることは、絶対ないし」
「そうかな……」
実際そうなんだよ。いや何かこれ、別れ話の流れができてないか。どうしたら止めれるんだ。
「そうだよ。そういう言い方やめろよ」
サキコの背中に回した手を、肩に回して抱きしめる。
「ごめん、別れて欲しい」
「……いやだ」
サキコからの「別れて欲しい」は二回目だからといって耐性があるわけでもなく、駄々をこねるように一言発するのがやっとだった。
「……もう無理なの。お父さんと受験でいっぱいなの。トキヤにはもっと良い彼女ができるよ」
サキコは
「もっと良いって……、俺はサキコが良いんだよ。サキコはどう思ってる? 邪魔ってこと? 嫌いになった? 迷惑?」
三年前のこの日を、いつまでも忘れられなかった理由。リプレイして
サキコが俺の方を見上げて、視線がぶつかる。瞳の真ん中が大きな黒い鏡みたいだ。俺の顔が写っている。
「……きらい。嫌いなの、だから……」
サキコの開きかけた口に自分の唇を重ねた。サキコの腕がびくりと一瞬動いた。きらいと言われている筈なのに、
「本当に嫌い? 本当なら突き飛ばして、殴ってよ。じゃないと諦めない」
もう一度唇を
安心しきったその時、胸に鋭い衝撃が起きた。更に二撃目が起き、俺は後ろによろめく。何が起きたか分からない。サキコの方を見ると、視界に右手の平が見えた。手の平は俺の左頬をめがけて飛んできた。ベチンという音とともに、俺は右斜め前に弾かれた。頬が痛い。じんじんする。突き飛ばされて、殴られた。
「えっ! ……ちょ、痛っ……、えっなんで……?」
サキコの目からは涙が流れていた。俺はまた、間違ったらしい。
「なんでそんな勝手なの? 私の話聞いてる? いっつもそんなじゃん。勝手に思い込んで、私のイメージも勝手に作って。謝って慰めたら、解決するって思ってるでしょ!」
「そんな……、そういうつもりはなくて……」
目から流れた涙が頬を伝って、コンクリの床に染みを作っていく。涙を拭うこともせずに、俺を見ている。サキコが泣くのは、初めて見た。それも衝撃なのだが、サキコの平手打ちの破壊力にも驚いている。ほっぺたから血が出てないだろうか? 風が吹くたびにヒリヒリする。
「どうして私が、あんな子にあんなこと言われなきゃいけないの? お父さんや受験が大事なのは当たり前でしょ! ……もうやだ。こんなこと……、言うつもりなかったのに……」
受験生のサキコにとって、
「私、今全然余裕ないから……。トキヤに嫌なこと言うの止められない。自分のこと嫌いになる。それに……こんな私を見られたくない」
俺が別れたくないと食い下がることが、逆にサキコを苦しめることになる。たとえ今日を乗り切ったところで同じことが起きるかもしれない。俺は
「……分かった。……別れる。けど、俺はサキコのことが嫌いで別れるんじゃない。だから、一つお願いがある」
サキコを真直ぐに見つめ返して俺の頬を叩いた手を取る。指先まで熱い。サキコも相当痛かったのだろう。そのまま手を引っ張って、フェンスの
「あの駅、俺らが一緒に帰って逆方向の電車に乗って……。あの駅は、サキコの隠し事を知るきっかけになった」
フェンスの隙間から、通学に使っている学校の最寄り駅を指さす。サキコは涙が
「だからあの駅は、今の俺には少し思い入れができた」
不思議そうに俺を見るサキコの目からは、まだ涙がぼたりぼたりと落ち続けている。鼻水をすする音だけが響く。
「もしも俺と別れたことを後悔してて、予定がなかったら、だけど。三年後の一二月二四日、あの駅で待ち合わせて一緒に遊びに行きたい。」
「三年後? どうして……?」
「それまで俺は、たぶんあほだから」
サキコがふっと笑う。目に
三年後のお願いだけは消えないように、念のため、何か手を打っておいた方がいい。屋上を後にするサキコの背中を見ながら考えを巡らせた。
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