ⅴ 3

「俺もある。先に話して良い?」

 サキコは返事をするかわりに、不安そうに俺を見上げる。


「サキコ、何か大事なこと隠してない? その、家……とか」

 サキコはうつむいて俺から目をらす。サキコのことを尾行つけたし、勝手に近所の人とも話したし……。もしかしたら怒っているかもしれない。


「……家に、来てたって聞いた。……がっかりした?」

「いや、がっかりはしないけど……ショック? 何で嘘つかれたんだろうって。俺には教えたくなかった?」

 サキコが俺を見つめて、頭を横に振る。


「二年の時に送ってもらったマンション、中学行く前まで住んでたの。あそこは、私にとって楽しい思い出が残ってて。あの日は、トキヤにはあっちの家に送ってもらって、一日を終わりたかったんだ」

「どうして、今の家じゃだめなんだ?」

 サキコは小さく息を吸い込んで、俺の胸に置いた指先に力を入れた。


「あの頃、お父さんと喧嘩ばっかりしてて、トキヤを連れて帰りたくなかった。見つかったら、絶対喧嘩になるし……。マンションから父親の実家に引っ越した理由ね、離婚したからなの。だからかもしれないけど、お父さん、私のことにすごく、口出してくるようになってて……」


「えっ、離婚とか初耳なんだけど……。じゃあ、お父さんと二人で暮らしてるんだ?」

 サキコがうなずく。本当に俺、サキコの家の事情とか、何も知らなかったんだな。こんなんで彼氏と言っていいのか。


「その後色々あって……、今は前みたいに喧嘩しなくなったけど」

「……その、お父さん、病気なんだよね。大変なの?」

「うん……、まあ。命には関わらないんだけど。椎間板ついかんばんヘルニア。ちょっと大変な病状なの。手術が必要で、リハビリとかも必要なんだって」


 なるほど、父親に付き添える家族はサキコだけだったのだ。両親の離婚も、俺に隠していたことの一つだったのか。だから俺には付き添いで休むと言えなかった。

「マンション見た時、イメージ通りの家だとか、凄く褒めてくれたから、実は違うって言えなくて……。だから、ずっと隠してた。がっかりさせたくなくて……ごめん」


「別に、そんなことでがっかりするわけないよ……」

 これは、もしかしてフラれることを回避できたのではないか? これで俺たちの間に横たわる問題は、解決だ。


「私も、この子みたいに素直な性格だったら、良かった……。やっぱり、キレイに落ちなかったね、このアイライナー」

 サキコは俺のブレザーの襟にかすかに残っている黒い汚れを指先でなぞる。


「え……? アイライナー……、あっ」

 リナの涙で付いた跡だ。これがアイライナーだと知っている? 今回、俺はリナのことを話していない筈だ。嫌な予感だ。心拍数が上がる。サキコにもこの動揺が伝わっているに違いない。

「あの時、何して…… 」


 そこまで言ってサキコは言葉を切った。見られていたんだ。三年前と同じように、告られたことを話しておけば良かったのか?

「いや、何もない。告られたけど、断った。リナがちょっと泣いたから、それで……」


「それで、なぐさめてたんだ。優しいんだね」

 サキコは俺の顔を少し見て、胸元に目を落とす。俺の優しさは、サキコにフラれた自分と重なったからなんだけど。別に他意はない。


「あの後、私に言いに来たよ。トキヤのこと本当に好きでつきあってるかって。どっちでもいいなら、解放してって」


「え? リナがそんなこと言ったのか?」

 これは、三年前は知らなかったことだ。リナがそんなことをサキコに言いに行っていたなんて。リナに変に期待を持たせてしまったのだろうか。

「信じられない? そうだね、私嘘つきだもんね」


「いや、そんなことは……」

 たとえそんなことがあったとしても、今の俺に卒業式以降、リナから連絡が来たことはない。俺がリナの頭をでたせいで、過去が変わったのか?

「気にする必要はないよ。この先にリナと何かあることは、絶対ないし」

「そうかな……」

 実際そうなんだよ。いや何かこれ、別れ話の流れができてないか。どうしたら止めれるんだ。


「そうだよ。そういう言い方やめろよ」

 サキコの背中に回した手を、肩に回して抱きしめる。

「ごめん、別れて欲しい」

「……いやだ」


 サキコからの「別れて欲しい」は二回目だからといって耐性があるわけでもなく、駄々をこねるように一言発するのがやっとだった。

「……もう無理なの。お父さんと受験でいっぱいなの。トキヤにはもっと良い彼女ができるよ」


 サキコはうつむいたまま、こちらを見ようとしない。「もっと良い彼女」この言葉にこんなに殺傷能力があるなんて。物理的には何もされていない筈なのに、胸の方から喉の奥まで痛みが上がってくる。


「もっと良いって……、俺はサキコが良いんだよ。サキコはどう思ってる? 邪魔ってこと? 嫌いになった? 迷惑?」

 三年前のこの日を、いつまでも忘れられなかった理由。リプレイしてようやく分かった。サキコ以外にはいなかった。俺の心を良くも悪くも、これほど動かす人は。


 サキコが俺の方を見上げて、視線がぶつかる。瞳の真ん中が大きな黒い鏡みたいだ。俺の顔が写っている。

「……きらい。嫌いなの、だから……」


 サキコの開きかけた口に自分の唇を重ねた。サキコの腕がびくりと一瞬動いた。きらいと言われている筈なのに、たまらなく可愛いと思えて止められなかった。オーバーキルな言葉を浴びせられて、ちょっとおかしなスイッチが入ったのかもしれない。サキコの顔が見たくて、唇を離す。まぶたを上げて、驚いた様に俺の顔をじっと見る。驚いているけど、俺を拒絶しているわけではないと思う。


「本当に嫌い? 本当なら突き飛ばして、殴ってよ。じゃないと諦めない」

 もう一度唇をふさぐ。今度は抵抗なく俺を受け入れる。サキコが俺を嫌いでないのなら、二人で問題を解決していけばいい。別れる必要はない。


 安心しきったその時、胸に鋭い衝撃が起きた。更に二撃目が起き、俺は後ろによろめく。何が起きたか分からない。サキコの方を見ると、視界に右手の平が見えた。手の平は俺の左頬をめがけて飛んできた。ベチンという音とともに、俺は右斜め前に弾かれた。頬が痛い。じんじんする。突き飛ばされて、殴られた。


「えっ! ……ちょ、痛っ……、えっなんで……?」

 サキコの目からは涙が流れていた。俺はまた、間違ったらしい。


「なんでそんな勝手なの? 私の話聞いてる? いっつもそんなじゃん。勝手に思い込んで、私のイメージも勝手に作って。謝って慰めたら、解決するって思ってるでしょ!」

「そんな……、そういうつもりはなくて……」


 目から流れた涙が頬を伝って、コンクリの床に染みを作っていく。涙を拭うこともせずに、俺を見ている。サキコが泣くのは、初めて見た。それも衝撃なのだが、サキコの平手打ちの破壊力にも驚いている。ほっぺたから血が出てないだろうか? 風が吹くたびにヒリヒリする。


「どうして私が、あんな子にあんなこと言われなきゃいけないの? お父さんや受験が大事なのは当たり前でしょ! ……もうやだ。こんなこと……、言うつもりなかったのに……」


 受験生のサキコにとって、しばらく父親が働けなくなるということは、相当なショックだった筈だ。けど、彼氏の俺は頼りないし、サキコに甘えてばかり……。俺の理想の彼女でいるために努力もしていたし、本当のことも打ち明けられなかった。その上、俺の半端な態度のせいで、恋愛トラブルまで持ち込まれては、別れたくもなるか。

「私、今全然余裕ないから……。トキヤに嫌なこと言うの止められない。自分のこと嫌いになる。それに……こんな私を見られたくない」


 俺が別れたくないと食い下がることが、逆にサキコを苦しめることになる。たとえ今日を乗り切ったところで同じことが起きるかもしれない。俺は明後日あさって、未来に帰る。三年前の俺にサキコを託すことは、ほぼ不可能だ。それにこの続きは、が持ち越すべきなんだ。本当に持ち越せるか分からないが、試してみる価値はある筈だ。


「……分かった。……別れる。けど、俺はサキコのことが嫌いで別れるんじゃない。だから、一つお願いがある」

 サキコを真直ぐに見つめ返して俺の頬を叩いた手を取る。指先まで熱い。サキコも相当痛かったのだろう。そのまま手を引っ張って、フェンスのそばに寄る。


「あの駅、俺らが一緒に帰って逆方向の電車に乗って……。あの駅は、サキコの隠し事を知るきっかけになった」

 フェンスの隙間から、通学に使っている学校の最寄り駅を指さす。サキコは涙がまった目で俺を見る。

「だからあの駅は、には少し思い入れができた」


 不思議そうに俺を見るサキコの目からは、まだ涙がぼたりぼたりと落ち続けている。鼻水をすする音だけが響く。

「もしも俺と別れたことを後悔してて、予定がなかったら、だけど。三年後の一二月二四日、あの駅で待ち合わせて一緒に遊びに行きたい。」

「三年後? どうして……?」

「それまで俺は、たぶんあほだから」


 サキコがふっと笑う。目にまった涙が、つぶになって落ちる。結局、結果は変えれなかった。目に見えて変えることができたのは、模試の判定結果と、サクの連絡先を追加したことぐらいか。三年前の俺と交代しなくてはならないのだから、この二つもまだどうなるか分からない。

 

 三年後のお願いだけは消えないように、念のため、何か手を打っておいた方がいい。屋上を後にするサキコの背中を見ながら考えを巡らせた。

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