§Ⅱ

ⅱ 1

 やり残しの多い人生だった。何もかも中途半端。せめて内定くらいもらっておけば、葬式でも前途洋々とした若者だったと、言ってもらえたのではないだろうか。


 身体が熱い。熱い?  死んだのに? もしかして火葬中? いやしかし、熱いけども、なんだか心地よい柔らかいものに包まれている感覚がある。ずっとこのままでいたい。この心地よさ、これがもしかして天国というやつか。


「トキヤー、……トキヤ、トキヤ! ちょっと、起きないの?」

 女の声が俺を必死に呼んでいる。激しく身体を揺すぶってくる。そういえば死ぬと全盛期に戻れるんだっけ? 最も充実していたころを繰り返せるとか。

「いい加減起きないと、学校遅れるでしょ? ほら!」

 俺の身体から、心地よい柔らかいものが引き剝がされる。やめてくれ、もう女はこりごりなんだ。


っといてくれ……」

「もう、あんた! 何ジーンズなんか穿いて寝て! おまけにそんな分厚ぶあつい長袖着て、ばかじゃないの?」

 胸倉をつかまれる。目の前にはよく知った顔があった。母親だ。


「え? どいうこと?」

「そりゃ、こっちのセリフよ! 早く着替えて、ご飯食べなさい!」

 そのまま胸倉をつかんだ手を離され、上半身が後ろに放られる。ぽすっと音がして頭が枕に沈み込んだ。ぐるりとあたりを見回す。部屋を出ていく母の後ろ姿。B級ホラー映画のポスター、古いゲーム機、壁に掛かった制服、床に放り出されているリュックと教科書。

「実家かよ……」


 どうも記憶が曖昧あいまいなのだが、屋上からダイブした俺は、奇跡的に回復? したということだろうか。感動の目覚めとか、入院していた過程とか、まっっったく記憶がないのだが。俺は実家に戻って療養している、ということだろうか。取敢えず長袖のパーカーとTシャツを脱いで、半袖Tシャツが入っている引き出しを開く。適当に着て階段を下りる。夏みたいに暑い。何カ月も意識不明だったのか?


「ちょっとトキヤ……あんた学校行かないの?」

 俺の姿を見て母は眉をひそめる。学校に行け、という意味だから、通学できるほどに回復しているらしい。

「今日は、私服登校とかいうやつじゃないのか? なあ?」


 父が食卓について納豆をかき混ぜている。確か去年から長野に単身赴任していた筈だが、息子の大事故でこちらに帰ってきているというわけかもしれない。心配をかけたな。


「いや、行くよ。いつもこんな格好だよ」

「は⁈」

 両親がユニゾンで一言発した後、ぽかんと俺を見る。

「えぇ? な、なに?」


 椅子を引いて朝食にありつこうとする俺を、母が制止した。母の目には真剣な光が宿っている。

「制服、着てきなさい。まったく、いつまで夏休み気分なの……」

「え? 制服?  何の?」


 意味がわからない。制服を着て大学に行けというのか。

「あんたの部屋の壁に掛かってるでしょ? あとリュックに教科書も詰めて持って下りるのよ」


 母と父は互いに顔を見合わせて、溜息まじりの笑いを交わす。朝からしょうもないボケを……、といった空気が伝わってくる。俺は真剣だ。大学のIDカードを出そうと、ポケットに手を入れると、財布がない。スマホもない。干からびたおしぼりが出てきた。布団に落としたかもしれない。急いで階段を駆け上がり、財布を探す。どこにも見当たらない。


 スマホは机の上にあった。代わりにおしぼりを机に投げ出す。虎とら亭に夜、返しに行こう。スマホを持ち上げると妙に小さい。タッチして顔にかざすが、ロックが解除されない。よく見ると、それは俺が高校のころ持っていた、古い機種だった。


 もう一度部屋の中を見回す。ポスター。実家を出るときに、全部剥がした。ゲーム機も、大学に合格した時、最新機種に買い換えてもらった。制服とあの黒のリュック……。俺は転がるように階段を下りて、洗面台の鏡を覗き込む。

「髪が……短い……」


 俺の顔も若い。まるで高校の頃みたいじゃないか。どんなにあり得ないことでも、すべての事実が矛盾なく説明できることが真実だと、どこかで誰かが言っていた。今、俺に起きているすべての事実を矛盾なく説明すると、俺は実家で暮らす高校生ということだ。もう一度居間に戻ってテレビを見る。うちの朝はいつも、おはようテレビだ。俺の高校時代のお気に入りは、お天気キャスターの水井ゆりな。


『今日は、ほぼ風がないのでぇ、体感としては真夏のように感じる暑さです! 暑さ対策で、ノースリーブなんですぅ。ちょっと、恥ずかしいかな』

「ゆ、ゆりな…」


 テレビに愛嬌あいきょうたっぷりの笑顔が、大写しになる。また、テレビで彼女の笑顔が見れるとは。俺の高校卒業とほぼ同じくらいに電撃結婚した彼女は、その2年半後、どギツイ不倫騒動で業界から干された。旦那が購入した高級マンションに、間男まおとこを引き込んでいたのだ。しかも2人。画像と音声がリークしたうえ、主婦層からバッシングの嵐だった。正直、俺も引いた。


 だが、画像と音声は悪くなかった。後頭部に鋭い衝撃が走る。振り向くと、母が凄い形相で俺を睨んでいる。

「いい加減にしなさい!」

「……はい……」


 俺は制服に着替えて、適当に教科書を放り込んで食卓に着く。まっっったく意味はわからないが、情報を総括すると今は、高校3年生の九月七日ということらしい。


 黙ってご飯をかき込み、行ってきますと、一言発して玄関へ向かう。スニーカーをいていると、トイレに寄るついでに父が「母さん、最近イライラしがちだから、気にするな。面白かったぞ」と耳打ちしてくれた。


 俺は真剣なんだ。どうしてこんな……。まるで夢じゃないか。いや、夢か。そうか、夢なんだ。屋上からダイブしたのはたぶん事実だ。おしぼりがあったし。現実の俺は、生死の境を彷徨さまよっているのではないのか?


 生きるか死ぬか、その中で俺は、直前まで強く思っていた、高校時代の夢を見ているのだ。もしかしたら、手術中というやつかもしれない。それならば、せめてこの夢は楽しまなくては。


 扉を開けると、夏空が広がっていた。

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