ⅰ 3

 教室の引き戸をそっと閉めて、屋上に通じる階段へ向かう。静まり返った闇に、車のアイドリング音が、微かに聞こえたような気がした。暗闇にいるせいで他の感覚が鋭くなっているのかもしれない。


 幽霊が夜見えやすいっていうのは、こういう感覚の変化に原因があるのかもな。屋上の扉は鍵が掛かっていたが、校舎側からは、ドアノブ中央のつまみを縦にすれば、解除できる。部屋の内鍵と一緒だ。


 扉を開けると、冷たい風が吹き込んでくる。もうすっかり酔いはめている。屋上のフェンスは俺の顎下あごしたくらいまでしかなく、あまり高くない。しかし、フェンスから屋上の端までは八〇センチくらい距離があり、そしてそのフェンスから突き出たコンクリート床面は段下がりになっている。


 フェンスの近くまでだとこの段差が見えず、すぐに壁が切り立っているように感じるが、フェンスから上半身を乗り出すと、この延長した床が伸びているので、下に落ちてしまうような怖さはない。


 冗談でこのフェンスの向こう側でも寝れる、なんて言ったりしていた。寝返り打ったら即死だと言って、サキコは笑ってたな。冷静に考えてみると彼氏として何かできていたのか、自信がない。俺が告白しなかったら、サキコは別の誰かと付き合ったんじゃないか。


 付き合えたのはタイミングが良かっただけで、俺より条件の良いヤツが告白してきたから、フラれたのかも。家も凄くでかいタワマンだったしな。付き合えただけでも奇跡だ。そういえば、初めてキスしたのは屋上だったな……。けど、最後はここで別れたんだっけ。


 はぁっと、一つ溜息ためいきく。こういうのは、一人で来て振り返る思い出じゃない。一時間以上も歩いて、疲れて、思い出すのは情けない自分の姿。もう帰ろう。フェンスから体をひるがえした瞬間、開いていた扉から、光の筋が漏れるのが見えた。反射的に、室外機が並んでいる物陰に身体を滑り込ませる。足音と懐中電灯の光が、不規則に動き近づいてくる。


「どうした? 何かいたか?」

 やや離れたところから、男の声がした。


「いや、屋上の扉が開いてたんで、誰かいるのかと思って……」

「じゃあ、また誤報かな……? 屋上の鍵かけ忘れて、風でドアが開いて、センサーに引っかかったことが前もあったよ」

「うーん、そうかもなぁ…。まぁ一応ぐるっと見廻って、鍵閉めて報告しとくか」


 最近は、そういう警備保障に入ってたのか、母校よ。俺は息をひそめて身をかがめたまま、室外機伝いに場所を移動する。完全、不法侵入じゃないかよ。内定は出ない、不法侵入で捕まる。俺はこの後どうしたらいいんだ。


 見つかるわけにはいかない、隠れなくては。いや、見つからなかった場合、屋上に残されたまま、鍵を掛けられるわけで。今日は土曜だから、月曜までここに居ることになるかもしれない。


 自然現象とかどうなる? あれだけ食ったのにまだ出してない。この場合、俺は母校に不法侵入し、屋上でウンコをした変態卒業生として、半永久的に語り継がれるだろう。


 何としても警備員より先に、屋上から脱出しなくては。敵は二人。どのルートで行く? 俺の装備はスマホと財布、虎とら亭のおしぼり。だめだ、装備にすらなってない。懐中電灯の光と足音が、どんどん近くなる。もう身体を隠すものがない。俺は目の前のフェンスを見上げると、心を決めた。


「うーん、やっぱり誤報か……。何か音がしたと思ったんだけどな」

「フェンスが、風で揺らされただけだろ……」


 俺の身体の上を懐中電灯の光が、ぶらぶらと横切る。フェンスの向こうの段差に、真一文字まいちもんじに仰向けになって寝ている。この二人があきらめて後ろを向いて、室外機の向こうに消えたら、素早くフェンスを乗り越え、二人の進行方向の逆側から廻り込んで、扉まで走る。そして屋上から脱出。これしかない。


 しばらく懐中電灯をフェンスに向けてぶらぶらさせていたが、やがて諦めたらしく、光が消える。俺は素早く両手を床につけて、上半身を上げた。つもりだったが、両手は床につかなかった。右手の下には何もなく、空を切っていた。そのせいでバランスが崩れ上半身は外に乗り出した。


「うわぁっっっっ!」


 向こうから、誰だ! と叫ぶ声がする。下にはプールが見える。首を校舎側に捻ると、真っ黒な空に、懐中電灯の光が交錯して空を照らしているのが見えた。頭の位置がだんだん下に下がるのが分かる。やけに細かいところまで、はっきりと見える。このままだとプールに直撃する。


 水がぎらぎらと光っている。両腕をばたばたと回して、バランスを取ろうとしたが、落ちていくのは止まらない。こんなことで死ぬんだ。サキコとの思い出があるこの場所で……。せめて死ぬ前に、サキコに会いたかった。俺は目を力いっぱい閉じた。

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