十二、
ドキドキする私の前で、考えがまとまったのか私と目が合った咸峰さんは恥ずかしそうに笑う。
「えっとね……市村さんが自転車に乗れるように最後まで付き合うからよろしくってのはどう……かな?」
なんだこの人は神か? そんなことを思った私はなんと返事していいか分からず見つめていると、不安そうに咸峰さんが口を開く。
「ダメかな?」
「い、いえいえいえ、それでいいです。それでお願いします」
咸峰さんのお願いのはずなのに私がお願いしてしまう。私の返事を聞いてほっとした表情を見せて、ニッコリ笑う咸峰さんと目が合う。
「私が自転車に乗れるようになるために協力は惜しまないってことですよね?」
「うん、そうだね」
「じゃあ……」
私は一瞬
「その、市村さんって呼び方。ちょっとよそよそしくないですか? えっとほら、練習するのになんか、えーっと呼びにくいっていうか。たとえばですよ、私が転びそうになったときに市村さん! じゃ文字数が多くて効率悪いですよね」
(なに言ってんだ私は?)
心の中で自分にツッコみを入れるが、真剣に聞く咸峰さんの顔を見て平然を装ってでたらめな説明を続ける。
「つまりです、私の下の名前は
(意味わかんない……)
苦しい、非常に苦しい説明を終えた私はチラッと咸峰さんを見ると、当の本人は腕を組んで真剣な表情で考え込んでいる。
「つまり、下の名前で呼んだ方が良いってこと?」
「そ、そうですね。それにほら、市村だとどの市村か分かりませんし」
「いやぁ……そんなに市村さんばっかりの場所で呼ぶことはないと思うけど。そもそも僕は村さんのこと知ってるんだから、何人いたって市村さんのことを間違うことはないと思うんだけどな」
咸峰さんは普通のトーンで「私を間違うことないと」当たり前のように言うが、私はその言葉を聞いて胸を貫かれるような衝撃を受ける。
それは家族以外で私のことを一人の人間として認識してくれている。私が深読みし過ぎてるかもしれない、だとしても私の人生の中で初めて私を認識された気がして心の中で気持ちが跳ねてしまう。
「それじゃぁ、下の名前で呼ばせてもらうけど……えーっと、真紀さん?」
疑問形でちょっぴり頬を赤くして恥ずかしそうに呼ぶ咸峰さんに呼ばれ、私は嬉しくて返事ができずに小さく頷いてしまう。
「いざやってみると恥ずかしいね」
「そのうち慣れますよ」
虚勢を張る私を見て咸峰さんは口をちょっと尖らせる。
「そうかな? じゃあさ、僕も下の名前で呼んでみてよ」
「え?」
予想していなかった展開に私は固まる。
「う、えーっと……た、たた、
恐らく顔が真っ赤になっているであろう私は下を向いて名前を呼ぶ。
「呼ばれる方も恥ずかしいね」
「ですね」
名前を呼び合い、二人で下を向く私たち。試合に負けておきながら、さり気なく私の願いを叶える。試合に負け、勝負に勝つみたいな戦法で名前で呼ばれることに成功するのである。
━━後から考えたらもうこのときから付き合ってるんじゃない?
なんてことを君は言うわけだ。
でもこれが違うんだなぁ。
この初々しさはもう戻らないわけで、このときの二人はこのときしか味わえない幸せを感じてたんだと思うけどな。
生まれてから両親に沢山呼ばれ、先生や友達からも名前で呼ばれたことが無いわけじゃないのに、なんで好きな人に呼ばれると自分の名前がこんなにも輝いて愛おしく思えるんだろうね。
って思わない?━━
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