思春期:犬には酷だった

 思春期になり、私は大きな危機を迎えた。

 人間関係が難しくなりすぎたのである。そして同時に、すべてのものごとが複雑になり始めたのである。


 思春期にはよくあることだろう。

 犬でなくとも難しいはずだ。

 みんな一度は悩むのかもしれない。


 しかしそれは、私が思春期のころにはまだ、性別違和や同性愛なども「思春期には、みんな一度は悩むこと」と大人たちに諭されていた構図と似ているように思う。

 私もたしかに、第二次性徴期を迎え、自分が女子であることについて若干悩みはした。あえてボーイッシュな格好を選んだりもした。

 だが、ちょっとした春の嵐のような悩みの時期を越えれば、自分が女性であることはすんなりと受け入れられたし、それ以上自分の性別について違和感を持ったり、悩んだり、求めていくこともなかった。

 たしかに私も思春期に一度は性別について悩んだ――しかし当然ながら、性別違和を持つ方の違和感というのは、たぶんそういう話ではない。もっと深く、本質的で、根源的なものだ。


 そういう意味で、私が思春期に直面した「難しさ」というのは、よくあることかもしれないけれど、犬だったゆえかもしれない、とも思うのだ。


 児童期まではよかった。

 大人の言う通りいい子になってよく学んで、周りの同年代の子どもたちと遊びまわっていればよかった。

 犬にもできることだった。


 しかし思春期以降の人間関係やあらゆるものごとは、犬にとっては難しすぎるし、複雑すぎた。



 他人と衝突するのが増え始めたのも、思春期が始まってからだ。他人の感情の機微がわからない。本音と建前がわからない。他人の心の様相が、あまりに複雑に思える。

 友達だった相手に怒られたり失望されることが増え、どんどん混乱していった。

 いっしょに駆け回っていたはずの同年代の子たちの心は、たぶん、私には計り知れないほど「人間」として成長しつつあったのだと思う。


 私はついていけなかった。私の心はおそらく「犬」のまま留まり、それ以上は「人間」らしく成長しづらかったのだろう。

 まったく発達しなかったというわけではない。奇妙な言い方かもしれないが、私の心は「犬」のかたちのまま、心が「人間」のかたちである方々に注ぎ込まれる「成長」で少しずつ満たされ、かたちは歪であるが、それなりに「成長」を果たしていった――ただ、やはり「犬」の心の器なので、とりこぼした「成長」も多かったように思う。


 もしかしたら「人間」より満たされやすい「成長」もあったのかもしれない。

 他人が落ち込んでいたり喜んでいるのは、なぜだかよくわかったし、いつも注意深く様子をうかがっていた。声をかけたり、そばで話を聴いて相手が元気になると嬉しかった。

 犬は本来、人間の感情に気づき寄り添う生き物である。最近では人の心を癒すセラピードッグなども活躍している。

 セラピーができていたとまで自分を買い被る気はないが、人の感情に気づき人に寄り添い人を癒すのが好きだったという意味で、犬らしい特徴を発揮していたのではないかといま振り返れば思う。


 ただ、やはり犬は犬というか、あえてこの表現を用いれば獣は獣というか――私は、対等な関係がすごくすごく苦手だった。

 どうしても、相手を上か下かで見てしまうのだ。

 ひとを上下で見たいというよりは、上下が確定しないと安心できないと言ったほうが正しい。

 もし私が「犬」なのだとしたら、それはそうだ。犬は属する集団のメンバーを順位づけする生き物だと言われている。最近では諸説あるらしいが、すくなくとも「飼い主」という「上」の存在が必要という意味では、犬にとっては上下関係の判定というのは命や安全、生の質にかかわる問題だろう。

 もちろん、それであっても私は「人間」だし、他人を上下で見るのはやはりよろしくない。他人に対して失礼で、はた迷惑な話である。わかってはいるのだが、「人間であり、心が人間」であるひとが他人を上下で考えるのと、「人間であり、心が犬」であるひとが他人を上下で考えるのでは、見た目は似ていても根本的な事情が異なるのではないか。女装や男装と、トランスジェンダーが異なるように。



 よくも悪くも「犬」らしい特徴を発揮しながら「人間」として大きくなり、さまざまな人間関係を経験するうち、私はだんだん疲弊して病んでいった。「心が犬」であることがすべての原因とまでは言わないが、深く関係していたのは確かだと思う。

 どうして他人に怒られるのか。どうして人間関係でトラブルになるのか。「ひとの心は見たままではなく、複雑なもの」「他人を上下で見てはならない」といったアドバイスをありがたく受け取り頭では理解しつつも、どうしても、うまくいかなかった。


 犬は本来、人間が好きなのだ。喜んでほしいし。

 犬にとって、人間は上の存在なのだ。褒めてほしい。


 それなのに、大好きな人間に「なぜか」対等な存在として見られ、トラブルが続く。

 あえてこの言い方を選ぶが、犬には酷だ。



 周りのみんなの多くが「ひととして」成長していくなか、私は取り残されていた。飼い主一家の子どもと昔はよく遊んでいたのに、その子が成長するうちに、犬とはあまり遊ばなくなってぽつんと取り残されるみたいに。


 人間関係でトラブルを起こしがちな方のなかには、潜在的に、自分の種族への違和感を抱えている方々もいるのではないかと思っている。

 もちろん、自分の種族に違和感があるからといってトラブルにつながらない方もいらっしゃるだろう。だが、私のように病んでいく場合もあるのではないか。性別違和がときに、人間関係の難しさや、二次的な精神的不調につながっていくように。



 思春期の迷路のなかでわけがわからなくなってきた私は、やがて「飼い主」を欲するようになるのだが、これがまた根深い迷路への入り口となってしまう。

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