児童期:「犬になりたい」と検索していた

 私はもともと無邪気な子どもだったが、無邪気なまま小学生になった。



 自分に尻尾が生えてこないと気がついた小学校中学年くらいの私は、覚えたてのインターネットでどうにか今からでも尻尾を生やす方法を探し始めた。

 すると黎明期のインターネットのカオスのなかで、いろんな情報が次々と出てきた。


 犬になりたい。人間をやめたい。

 そういう書き込みを、むさぼるように読んでいった。


 犬の毛皮がほしくて仕方なくて、全身に毛布をかぶって毛布越しに自分の身体を撫でてみた。自分が犬になれたようで嬉しかった、おすすめ――という書き込みを読んで、実践してみたこともある。


 やがて、「犬になりたい」という検索ワードを使うようになった。

 たくさんたくさん、検索を繰り返した。



 調べていくうち、「犬になりたい」という文化にはアダルトなものが多いことにもびっくりした(当時はまだ健全なセーフサーチなどが世間に浸透しきっていなかったので、事故です。未成年の方は成人向けを見てはいけませんので、絶対に真似しないでください)。

 犬になりたいひとにも、いろいろいるんだな、と思った。

 深い業を感じた。


 アダルトな意味での「犬」と自分自身の求める「犬」というのは、重なるところもたしかに、ある。けれど、ちょっと違う部分もある気がした。

 現状、「犬になりたい」と言うとどうしても「変態」のように見られてしまうのは、いかがなものかと思う。

 そのあたりも性別違和の方々が歴史的に通ってきた苦しみと似ている。

 この話は、後でもう少し掘り下げて触れたい。



 そもそも、自分は犬になりたいのか?

 さんざん「犬になりたい」ことについて検索しているくせに、やがて、そこからして疑問に思いはじめた。


 当時、子どもたちのあいだで流行っていた文化に、「プロフィール帳」というものがある。プロフィールを書き込む紙を渡し合い、お互いに記入をして交換するのだ。

 基本的なプロフィールのほかに、「100万円あったらどうしたい?」「将来の夢は?」などなど質問の答えを書く欄があって、「動物になれるとしたら何がいい?」「来世、人間以外になれるとしたら何になる?」といった質問も揃っていた。


 私はいつも、「動物にはなりたくない」「来世も人間」と答えていた。

 偽りではなく、本音だった。


 実際、人間であることは楽しかった。

 本も読めるし、勉強もできるし、ドッジボールもできるし、秘密基地も作れる。


 犬になったら、きっと退屈だ。

 人間としてできることの楽しみを知ってしまったら――動物になりたいなんて、思えない。


 でも。

 たまに、無性に犬になりたくなる。

 動物なんてつまんないと思うのに、尻尾や三角の耳や毛皮がやっぱりほしくなるて……。



 いま振り返れば、その気持ちの正体は「動物になりたくない」ではなく、「動物には戻りたくない」だったのだと思う。

 ややこしい話だけれども。

 もともとの自分が「犬」だと思っているからこそ、「犬」よりも知的に上位である「人間」になれたのが楽しくて、もう「犬」には戻れない――と思っていたのではないだろうか。


 実際、犬は知的好奇心が強く、社会性の高い生き物だ。たくさんのものごとを知れて、みんなといろんなことをして遊べる。そうなれば、きゃんきゃんわんわん喜んで、いっぱい知っていっぱい遊ぶのではないだろうか。

 当時の私はつまりそういう状態だったのではないだろうか。


 たまに犬に戻りたくてしょぼんとするけれど、毎日いろいろ知っていけるしみんなと遊べるし、基本的には毎日が楽しくて仕方ない。

 いま振り返れば、あまり悩んでいなかったこの時代がかえって一番、犬らしい時代だったと思う。

 子犬のようになんでも知りたくて、遊びたくて、無邪気に日々を過ごしていた。



 苦しみはむしろ、思春期以降に強くやってくる。

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