裸の勇者
ゲド・アロンゾの魔法の名は『
その効果は、投擲した物体の必中。事前にターゲットの魔法を資料として受け取っていたゲドと違い、イトはそれを知らない。
「……へえ、おもしろいね」
知らなくても、問題はなかった。
投げられた針が、弧を描いて戻ってくる。
それは明らかに、通常ではあり得ない軌道だった。何らかの仕掛けが施されている動きだった。
しかし、結局のところ、それはイトに対応できない攻撃ではなかった。迫りくる針をギリギリで避けて、直撃を避けれないものは切り落とす。
「……惜しかったね」
唯一、掠った針が頬を薄く裂き、そこから血が流れた。
「……ああ、惜しかったな」
盗賊は、大仰に肩を竦めて言った。
「お前の負けだよ。勇者志望のお嬢ちゃん」
聞き返す前に、身体が異常を示した。
「……っ!?」
漏れ出た声を押し殺して、イトは片手で頭を抑えた。
目が霞む。視界が揺らぐ。呼吸が荒くなる。
血液の流れにのって全身を巡る異物に、体が悲鳴をあげる。
「お前みたいな強いヤツは、勝つことを当然だって考えてる。自分は強いっつう自負がある。自分は負けないっつう信念がある」
ゲド・アロンゾは語る。
「結構なことだ。胸張って、高らかに剣を掲げて力を奮う。そりゃあ、たしかに素晴らしいことだ」
盗賊は、勇者よりも弱い。
しかし、それは盗賊が勇者に勝てない、という意味ではない。
「だから、オレみたいな弱くて小賢しい悪党が、付け入る隙ができるんだぜ」
勝利を確信した瞬間、人間には必ず隙が生まれる。
油断を突き、余裕を喰い破る。それが、盗賊というハイエナの流儀だった。
「なに、を……」
「ただの毒だよ。掠ったら終わりの猛毒だけどな」
平淡な口調で、ゲドは種明かしをした。
取り落した刀が、乾いた音を響かせる。
「はっ……はっ、はっ……う、ぁ……」
三半規管が、壊れる。
地面に膝をついて、それを堪らえようとしたイトは、けれど堪えることができず、胃の中身を地面に吐き出した。それでも、なんとか立ち上がろうと、落とした刀を、拾おうとして。
「無理すんな。寝てろ」
盗賊は、そんな少女の足掻きを容赦なく蹴り飛ばす。
顎先を硬いブーツの先で砕かれて、イトの視界は火花が散るように明滅した。
「っ……あぅ……」
悪魔を屠り、圧倒的な力を見せていたはずの少女の身体が、ごろごろと呆気なく地面を転がる。
震える指先で、懐の
「だから諦めろって。竜の爪から生成した、即効性の猛毒だぞ? 十分程度で全身に回って死ぬ」
ゲドは、少女に向かって端的に告げた。
「良いか? お前は死ぬんだ」
死ぬ?
問いかけは、己に向けて。
誰が?
わかっているはずのそれを、繰り返す。
ワタシが?
自己認識が、ブレる。
わたしが?
事実の確認が、追い付いて。
イト・ユリシーズが?
全身が、恐れを抱く。
勇者になれずに、お姉ちゃんになれずに、お姉ちゃんの仇すら討てずに、こんなところで……死ぬ?
「……ぁ」
勇者になりたかった少女は、その瞬間。はじめて迫りくる死を、明確に認識した。
いやな汗が止まらない。髪が頬に張り付いて気持ち悪い。全身の震えが止まらない。いいや、違う、震えが止まらないのは、毒のせいだ。死ぬのはこわくない。こわくなんてない。勇者は、死ぬのなんてこわくない。
────だって、わたしは勇者なんだから。
もう、ここで終わっても良いのかもしれない。
それで、お姉ちゃんのところに行けるのなら。
ならばせめて。その最後くらいは、誇り高く。
「……こ、殺せ」
唇を震わせながら、少女は言葉を紡いだ。
笑顔の仮面を貼り付けて、強がりとプライドで補強した言葉を、盗賊に言った。
「あ?」
「ワタシの、負け……だったら、殺せば、いい」
盗賊は、吐瀉物の中に倒れ込んだ少女を見下ろして、大仰に首を傾げてみせた。
「……なんで?」
「ぇ……?」
仮面が、砕ける音がした。
まるで、言葉の意味そのものが理解できない、というような反応だった。
「どうせ放っといても死ぬんだ。最後まで苦しんでいるところを見せてくれよ。オレはそれが見たい」
「ぁ……」
「お嬢ちゃんはこのまま、じっくりとゆっくりと、毒に侵される。安心しろ。オレが最後まで側にいてやるから」
人の本質は、死の瞬間に最も
「何も守れず、何者にもなれず、お嬢ちゃんはここで死ぬんだ」
ゲド・アロンゾは、人間が刹那に魅せる輝きを愛している。だから、死の瞬間を愛している。
矛盾はない。極めて合理的な業務の効率と己の嗜好を、ゲドは両立させて満たしていた。
そして、突きつけられたそれは、イトがこれまでずっと、目を背けてきたものだった。
「あ、いや……やだ。わたし……」
「あ、そうだ。死ぬ前にその眼は貰っておくぜ。高く売れそうだ」
「や、やめっ……」
身動きのできない少女の眼球に、盗賊は無遠慮に指を突っ込んだ。
甲高い悲鳴が響いたが、ゲドは微塵もそれを気にせずに、眼窩から貴重な眼を摘んで抜き出した。
「ぅ……う、ぁあああ……ふっ……ぐぅ……ぇ」
クライアントから依頼されたのは、殺害だけだ。高く売れるものは、剥ぎ取っておいた方が良い。魔眼は出すべきところに出せば、高い値で捌ける。
頭の中で算盤を弾きながら、ゲドは鼻歌交じりに抜き取った美しい眼球を瓶の中に収めた。
「かわいい顔が、台無しだな」
だが、それが
勇者になる、と言った少女が。
最強だと謳われてきた少女が。
すべてを砕かれて、自分の前に這い蹲って、もうすぐ死ぬ。
これほどまでに気持ちの良い見世物はない。
「最後に何か、言い遺しておくことはあるか?」
段々と、呼吸が浅くなっていく少女を見下ろして、ゲドは問いかけた。
「……勇者は、負けない」
「お前は負けた」
「勇者は、必ず……魔王を、倒す」
「お前には無理だ」
「勇者、は……」
「お前じゃなかった」
どこまでも、何度でも。最後の瞬間まで。
盗賊は、少女の心を念入りに丁寧に
「お前はここで死ぬ。だから、お前は勇者にはなれない」
片目で自分を見上げる少女の瞳が、深く揺らぐ。
勇者ではない少女は、もう笑顔を貼り付けることはできなかった。
本心が、漏れ出る。
痛みと、涙と、苦しみで、ぐしゃぐしゃに歪んだ表情で、少女は声を絞り出した。
「……助けて」
たった一言。
しかし、凝縮されたその一言にこそ、生への執着が凝縮されている。
ゲドは、全身を震わせて、それを堪能した。
「いいねぇ……年相応の女らしい、素晴らしい言葉だ」
この瞬間、ゲド・アロンゾは間違いなく勝者であり、強者だった。
勝利を確信した瞬間、人間にはどうしても隙が生まれる。
だから、歓喜に打ち震える盗賊は気付かない。その言葉が、自分に向けられたものではないことに、気付けない。
「……死にたく、ない。助けて」
助けを求める少女に対して、盗賊の背後に音も無く立つ……パンツ一丁の少年は答えた。
「当然です。絶対助けます」
拳が、炸裂した。鼻の骨が、砕ける音が響いた。
振り返った顔面に異常な硬さの拳が突き刺さり、盗賊は吹き飛んだ。地面に叩きつけられ、転がって、それからようやく立ち上がって、ゲドは少年を見る。
「……っ! どうやって抜け出した、とか……いろいろ聞きたいことはあるが……」
それは、極めて純粋な疑問だった。
「……お前、なんで服着てないんだ?」
助けを求める人が、そこにいるなら。
助けを求められた者は、その瞬間から勇者になれる。
大切な先輩を奪おうとした盗賊に対して、パンツ一丁の勇者は答えた。
「お前を倒すのに、服なんて必要ないからだよ」
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