蒼の少女と魔王②

 少女は、目を覚ました。

 痛い。片方の目が見えない。腕も折れている。痛くて痛くて、涙が出そうだ。

 だが、その痛みに違和感を覚えた。自分が瓦礫で潰されたのは、体の右側だ。それなのに、どうして左側の腕と、左目が痛いんだろう? 


「ああ、よかった。上手くいったみたい。大丈夫? 体は、ゆっくり起こしてね」


 聞いているだけで、蕩けてしまいそうな知らない声に、そう言われて。


「え」


 起き上がった少女は、ようやくその異常を認識した。


「お姉さんの体の感覚はどう? やっぱり、違和感があるのかしら?」


 少女は呆然とそれを見る。

 少女の目の前にはが倒れていた。


「あ、え……え?」

「大丈夫? 鏡は必要?」


 意味が、わからなかった。

 喉から絞り出した、言葉にもなっていない声は、姉の声音だった。

 突き出された鏡の中で、姉の顔が、見たことのない表情をしていた。


「なんで、どうして、私……」

「身体を入れ替えたの。ああ、そうね。厳密に言えば、あなたとお姉さんの心を入れ替えた……と言うべきかしらね」

「心を認識して入れ替えるなんて、やったことがなかったけど、うまくいってよかったよ」

「わたしたちにとっても、貴重な経験になったね! よかったね!」


 振り返ると、自分とそう年の変わらない双子が、笑っていた。まるで、実験の成功を喜んでいるかのような、薄気味悪い笑みだった。


「お姉ちゃん!」


 少女は、ついさっきまで自分の体だったそれに飛びついた。

 浅く呼吸をしながら、自分の体は、やはり見たことのない表情でこちらを見上げた。

 それは紛れもなく、自分の顔であるはずなのに。その強がるような笑みは、間違いなく姉の……イトの表情だった。


「────。生きて」


 自分の口から、自分の名前が、零れ出た。


「ちゃんと……ちゃんと、生きてね」


 呆然と、ただその言葉を聞く。

 少女は、物語を読むのが好きだった。

 物語の中で、英雄が死ぬ時。最愛の人に手を握られて、これまでの人生を振り返りながら遺言と感謝を述べて、自分を看取ってくれる人物と言葉を交わして……やがて息絶える。

 そういうシーンで、英雄の手を握る人は決まって涙を流していたし、実際に物語のページを捲る自分も、共感して泣いていた。

 でも、だめだ。涙なんて出てこない。言葉なんて紡げるわけがない。頷くことすらできない。

 呆然と。ただ呆然と、姉の手のひらで、自分の手を握り締める。

 自分の命を救ってくれた姉は、剣を握っていなくても、間違いなく英雄であり、勇者だった。



「────勇者になんて、ならなくていいからね」



 それなのに。

 勇者になることを誰よりも夢見た姉の最後の言葉は、勇者を否定した。

 それが、イト・ユリシーズが妹に向けて遺した、最後のメッセージだった。

 たったそれだけで、終わりだった。


「……お姉ちゃん?」


 死体を、見る。

 ついさっきまで、自分だった死体を見る。

 胸に手を当てる。

 ついさっきまで、そこにあったはずの心を探す。

 けれどそれはもう、どこにもない。

 揺すっても、呼びかけても、何の反応も返ってこない。


「あ、ああ……」


 遅れて、涙が溢れ出た。

 遅すぎる、と思った。

 感情の波に、体が追いついてくるのが、あまりにも遅すぎた。

 混乱と悲しみと、絶望と。それらすべてで砕けてしまいそうな少女の体に、魔王はそっと寄り添った。

 細い指先が、涙を拭う。

 ぞっとするほど温かい、まるで人間ではないかのような温かい微笑みが、心を優しく繋ぎ止めた。


「しっかりして。わたしを、見て」


 そのまま、少女が壊れてしまわぬように。

 崩れる心を引き止めたのは他の誰でもない、魔王だった。


「提案したのは、わたしよ」


 粉々に、砕けてしまう寸前で。

 心に、熱が入った。硝子のような脆さだったそれが、どろりと溶け出して。魔王は少女の心を、砕ける寸前で強引に癒着させた。


「だから、恨んでくれて構わない」


 染み入るような悲しみを上書きするのは、いつだって燃えるような憎しみだ。


 わたしを、見ろ。

 お前の敵は、目の前にいるぞ。


 魔王は、一言一句。少女に向けて、言葉を紡いだ。


「わたしは、いつでも待っているから。殺したければ、殺しに来なさい」


 それは、期待を込めた種蒔きのようなものだった。

 それは、哀れみを重ねた期待のようなものだった。

 けれど、一つだけ。魔王は嘘偽りなく、自らの本心を少女に向けて述べた。


「……でも、決めたのはあなたのお姉さん」


 魔王が、少女に向けて発したその言葉は、


「お姉さんは……あなたのことを、本当に愛していたのね」


 楔となって、幼い心に突き刺さった。

 この日、少女は名前を失った。

 自らそれを捨てて『イト・ユリシーズ』になることを選んだ。

 そして、魔王を殺す『勇者』になることを誓った。

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