蒼黒の剣士は、勇者を愛さない

 遂に抜き放たれた刃は、異質だった。

 吸い込まれるような黒塗りの鞘。通常の剣よりも明らかに細く、薄い造り。

 それは一般的な騎士が扱うソードではなく、片刃のブレードだった。


「くだらんな……」


 渾身の力を込めて、キャンサーは拳を振るう。

 少女はもう、逃げようとはしなかった。魔術を展開しようともしなかった。ただ、無言のまま構えた刀で、キャンサーを斬るための構えを見せた。


「そんな華奢な剣で、何を斬ろうというのだっ!」


 少女は嗤った。

 それこそ、下らない問いだと思った。


「何を斬る?」


 刀で斬れるものは、この世にたった一つだけ。


「あなたの、命を」


 返答。

 抜刀。

 納刀。

 刀を扱うための、必要最低限。

 たったそれだけの動作で、力の差はなによりも明確に表れた。

 振るった拳が、その中央から真っ二つに裂けて、断ち切られた肉が地面に落ちる。遅れて、切断面から血液が溜り落ちる。


「あぁあああああああああ!?」


 それは、キャンサーにとってはじめて体験するモノ。

 痛み、だった。


「……やっぱり、ワタシ イトの魔法はすごいなあ」


 自分の魔術では絶対に貫けなかった、その防御を。

 ただの一振りで破断してみせた姉の魔法を、イトは心の底から賛美した。


「わたしは、私は……はね? 勇者にならなきゃいけないの。だって、それがお姉ちゃん イトの夢だったから」


 その剣士は、この世の全てを斬って断つ。

 その剣士は、この世の全てを絶つことで否定する。

 穢れを祓う一振りの刃は、魔王の気紛れによってその在り方を歪められた。


 それは、海の底に沈む闇すらも斬り裂く、無情の蒼黒そうこく


 『蒼牙之士 ザン・アズル』。イト・ユリシーズ。


 たとえ、その名が偽りだったとしても。

 少女はこの世界を救うことに囚われた、最強の剣士にして、魔法使いだった。


「さてさて。それじゃあ、終わりにしようか」


 だらりと脱力したまま、イトは真っ直ぐに歩を進める。キャンサーは後退する。

 ありのままの力の差が、逆転していた。


「ぐっう……ふぅうぅぅ……!」


 キャンサーの額に、脂汗が滲む。呼吸が荒くなる。


 ────あなたの魔法がどうしてつまらないのか。教えてあげる。キャンサー


 焼け付くような激痛の中で、主の言葉がフラッシュバックする。


 ────その魔法に頼る限り、あなたは痛みを知ることはない


 あらゆる攻撃から主を守ることができると、そう考えていた。

 自分に敵はいないと、そう思っていた。

 違う。そんなわけがない。痛みを知らない自分が、主の盾になれるなどと。それは果たして、どこまで不遜な思い上がりだったのか。


 ────痛みを知らない戦士ほど、弱い存在はないわ


 主の、言う通りだった。

 しかし、それでも。キャンサーは痛みを堪え、歯を食いしばって前を見た。

 自分は今、この瞬間。痛みを知った。理解することができた。

 それならまだ、戦うことができる。


「……ッ……ふぅぅ!」

「……なになに? まだやるの?」


 あの刃は『華虫解世フロルクタム』では防げない。

 ならば、斬撃のみを避ければいい。キャンサーは全神経を賭して、ブレードにかけられた手を注視する。


「あなたってさ……本当に学習しないよね?」


 だからイトは、刀の柄を握る手とはべつの腕で、無造作にキャンサーの足元を指差した。

 地雷のように仕込まれた魔術紙スクロールを、踏んでしまったと。気がついた時には遅かった。

 光が、炸裂する。

 それは魔法ではない。特別な武器でもない。一般的な騎士も魔物を怯ませるために用いる、強烈な光を叩きつける目眩ましの閃光魔術。

 だが、それは目を見開いて集中していたキャンサーの瞳に、なによりも強烈に突き刺さる。


「ぐっ……ぬぉおおお!?」


 視界が、潰される。目が、見えない。


「い、いつの間に。いつの間に、こんなものを……!?」

「防御膜……バリアみたいなものを張ってる魔法なのは、撃ち込み続けた魔術の手応えですぐにわかった。足元に仕掛けた最初の地雷も気づいてはいなかったけど、防がれた。それなら、本人の意志とは関係なく、常に発動させているタイプの魔法。となると問題は……何を通して、何を遮断するか、だよね」


 答え合わせをしながらも、剣士に躊躇いはない。呼吸をするような自然な抜刀が、キャンサーの右足を膝から斬って捨てた。

 目を潰されたキャンサーに、もはやそれを避ける術はない。


「……っ!?」


 悲鳴を食い縛るのが、精一杯。

 少女は、声を止めない。


「全身を覆っていて、攻撃……もしくは自分を害する何かに対して、自動で発動する。でも、自分自身が生存して、活動するためには、遮断しちゃいけないものもあるよね? だったら、そういう自動で通すものを攻撃に転用すればいい」


 防御のために構えた左腕が、刃に撫でられて落ちる。

 片膝で堪えていた左膝が、突き刺されて割られる。


「光まで遮断したら、あなたは目が見えなくなっちゃう。だから、強烈な光の類い……閃光魔術は通じる。あと、空気を遮断しても窒息しちゃうだろうから、炎熱系の魔術をもっともっと連発して、結界の中の空気を薄くしようかな……とか。まあ、いろいろ考えてたんだけど」


 両手両足が、すべて切断された。

 地面に、虫のように這いつくばるキャンサーは、辛うじて頭を持ち上げて、少女の声を聞く。


「あなたが急かしてくるし、めんどくさくなっちゃったから、やめた」


 あまりにも恐ろしい想像が、キャンサーの脳裏を掠めて震わせる。

 もしかしたら、この剣士は……魔法を使わないままに、自分を倒す算段を立てていたのではないか?


「悪魔は斬る。魔王も斬る」


 潰された視界の中で、その声だけが悪魔の心に響いて木霊する。


「あなたみたいな雑魚に、手こずってる暇はないんだ」


 勝てない。

 その言葉の奥に秘められた、暗く黒い感情に、勝てる気がしない。


「そうだそうだ。二つだけ、聞いておこうかな」


 刀の柄に手をかけて、剣士は問いかける。


「魔王の居場所とか弱点。もしくはに心当たりはない? もしも教えてくれたら、その首だけは残してあげるよ。両手両足は、もう斬っちゃったからさ」


 絶対遮断。最強の守りを誇りとするはずの、何も守れなかった悪魔は。

 最後の最後に与えられた選択肢に、歓喜の笑みを浮かべた。


「────仲間は、売らん。それだけは、死んでも教えん」

「あっそう。なら死んで」


 一閃。駆ける軌跡が、首を撥ねた。

 そして、少女の周囲を覆っていた結界が、音も無く霧散していく。

 刀を収めて、髪留めを解く。広がった艷やかな黒髪を揺らして、少女は猫が散歩を終えたかのように、緩く伸びをした。


「……ん、終わった終わったぁ! 楽勝楽勝! ワタシは……イトは、本当にすごいなぁ」


 イト・ユリシーズを名乗る少女は、自分自身の名前を愛おしそうに呼びながら、自分ではない己を褒め称える。

 もうここにはいない、最愛の姉に向けて語りかける。


「みててね、お姉ちゃん。イトは、もっともっと悪魔を斬って、魔王を倒して、絶対に勇者になるからね」


 死ぬことは許されない。これは姉の身体だ。

 立ち止まることは許されない。姉の夢を叶えるまでは。

 普通に生きることなんて、許されるはずがない。姉は自分の代わりに死んだのだから。

 自分は必ず勇者になって、姉の死が無駄ではなかったことを……イト・ユリシーズが勇者に相応しい存在であることを、証明しなければならない。

 だから、少女は思い出す。勇者になる、と。はっきり宣言した後輩のことを思い出す。

 可愛い子だと思った。良い後輩だとも思う。けれど……


ワタシイト以外に、勇者はいらないんだよなあ……」


 イト・ユリシーズは、決して自分以外の勇者を愛さない。

 勇者になるのは、自分だから。

 イト・ユリシーズは、決して他者を愛さない。

 人を愛することは、時になによりも脆い弱さになってしまうから。

 姉の愛が、自分を救った。姉の愛が、自分の命の原動力になった。そこに疑いはない。

 けれど、姉は自分を愛していたから、死んでしまった。

 自分なんかを愛してしまったから、その尊い命を犠牲にしてしまった。

 才気に満ちたこの体があれば。磨き抜かれたこの剣技があれば。あらゆる悪を切り裂く、この魔法があれば。


 お姉ちゃんは、絶対に勇者になることができたのに。


 ────勇者になんて、ならなくていいからね

 ────お姉さんは、あなたのことを、本当に愛していたのね


 言葉は呪縛。けれど、縛られることを自ら望んだのなら、呪縛は希望にも成り得る。

 何度でも何度でも、少女は言い聞かせる。自分自身の心に説いて、その誓を心に馴染ませる。


 勇者になる。それがワタシの生きる意味。


 あの日、あの場所で死ぬのは本来、自分だったのだから。

 愛されるのは、勇者になったイト ・ユリシーズお姉ちゃんだけでいい。そこに、かつての自分の存在は一欠片も必要ない。


 名前を捨てた少女は、世界を救おうとする勇者の、その在り方のみを愛している。

 勇者という存在が、多くの人々に愛されることもわかっている。

 それでも、イト・ユリシーズは否定する。


 ああ、そうだ。


 ────ワタシは愛が、最も憎い。

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