抜剣

 悪魔の拳が唸る。

 騎士の炎が炸裂する。


「ふん」


 直撃したはずの炎は、そのまま拳に切り裂かれ、霧散する。拳だけではない。体のいたるところに着弾しているはずの炎は、しかしそのいずれもが悪魔には届かない。

 キャンサー・ジベンの魔法『華虫解世フロルクタム』の効果は、極めてシンプルだ。

 その能力はこと。キャンサーはこの魔法を近距離の格闘戦で最大限に活かすために、己の肉体を鍛えてきた。あるいは、外界の影響をほとんど断つことができる悪魔が、己の内を支える筋肉と拳に信頼を置くようになったのは、ある意味必然であったのかもしれない。

 高速で飛来する矢も、どんなに切れ味の鋭い剣も、絶大な破壊力を誇る鉄の砲弾も、すべてが無駄であり無力。自身の体に害をなす異物を遮断する『華虫解世フロルクタム』の前では、あらゆる攻撃が無意味と化す。


 ──キャンサー。あなたって本当、守るだけなら最強よね


 主である魔王は、至極つまらなそうな表情で、キャンサーの魔法をそう評した。

 けれど、それで良いとキャンサーは思った。派手な破壊も、特殊な性質も必要ない。自身を守る。ただそれだけに特化した魔法は、如何にも自分らしいではないか。

 いざという時、あの華奢で可憐な主君を、身を挺して守ることができるのなら。それが叶う力であるのなら、キャンサーはそれ以上を求めようとは思わなかった。

 事実、目の前の敵を屠るのに、これ以上の力は必要ない。


「その程度か」

「いやいや、おかしいでしょ」


 キャンサーは前進する。イトは後退する。それがそのまま、力の差だ。


「なんでなんで? どうして効かないのかなぁ!?」


 疑問の声にバックステップを踏み重ねながらも、攻撃の手は緩めず。

 黒のマントの下から、紙片が舞い、まるで数珠繋ぎのように立て続けに爆裂する。一つ一つは小さな炎でもその狙いは正確で、人間を一人丸焼きにするには申し分ない火力だった。

 しかし、それでもなお、キャンサーの体には火傷どころか、煤の一つすら付かない。


「無駄撃ちをしていて切なくならないか?」

「無駄とわかっていても、やらなきゃいけない時もあるでしょ」


 認めよう。

 イト・ユリシーズの扱う魔術の展開スピードは、極めて早い。あらかじめ魔導陣を書き込んだ魔術紙スクロールを戦闘のために併用する騎士は時々いるが、詠唱も展開も挟まず、あるいは本職の魔導師のように杖も用いず。魔術を連射する彼女の戦闘スタイルは、ある種近接戦闘に特化された完成形と言っても過言ではなかった。

 しかし、キャンサーには疑問があった。


「騎士よ」

「なになに?」

「こちらからも、一つ問いたい。貴様はなぜ、剣を抜かない?」

「……さてさて、なぜでしょう?」


 問答の内に接近。キャンサーは右のストレートで、少女の顔面を打ち抜く。が、固く握りしめられた拳は頬を掠めて空を切って。

 すれ違い様のカウンター。イトがかざした手のひらから火花が瞬き、爆発が逆にキャンサーの胴体を撃ち抜いた。が、至近で炸裂した炎はやはりキャンサーにダメージを与えられず。

 立て続けに振るわれた拳を再び紙一重のところで回避し、イトは距離を取り直した。

 変わらない繰り返しに、呆れを滲ませながらキャンサーは少女を睨めつける。


「逃げてばかりだな。儂を殺す、と宣言した先ほどまでの威勢はどうした」

「威勢だけじゃあ、戦いには勝てないでしょう」

「まだ勝てる、とでも思っているような口ぶりだな」

「思ってる思ってる。ちゃんと考えてるよ。あなたを殺す方法」

「無駄なことだ」


 結果は何も変わらない。イトの炎は、キャンサーにダメージを与えることができない。

 イトの攻撃手段が魔術である限り、キャンサーの華虫解世フロルクタムを突破することは不可能だ。


「剣を抜け、騎士よ。結果は変わらないとはいえ、全力を見ないまま相手を屠るのは忍びない」

「そうだねえ。そこまでご所望なら、仕方ない」


 ポニーテールが揺れる。黒のマントが揺らぐ。

 細かくステップを刻むことをやめて、足を止める。

 それは騎士にとって、相手の攻撃を真正面から受け止める、決意表明に他ならない。


「じゃあ、抜こうか」

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