紫天の死霊術師は、勇者を愛している
愛とは、どこまで醜いものなのだろう。
それは乱戦の中の偶然だった。
その勇者とは幾度となく殺し合ってきたが、主戦場から外れ、他の仲間からも離れ、二人きりで対面するのは、はじめてだった。
その頃になると、勇者もリリアミラの魔法の性質を理解していたのだろう。他のモンスターを蘇生させるリリアミラを付け狙い、徹底的に潰そうとするようになっていた。
リリアミラは基本的に、戦場において前に出ることはない。戦闘は他の四天王と、操ることができる蘇生対象に任せ、後ろに下がっていることがほとんどだった。故に、その瞬間は勇者にとって、最大の好機だったのだ。
雨が、強く降っていたのを覚えている。
────覚悟しろ
リリアミラは、呆気なく勇者に押し倒された。
口の中が、砂利まみれだった。
全身がずぶ濡れで、寒くて、今すぐシャワーを浴びたいと思った。
激昂する勇者の表情を、リリアミラは降りしきる雨のように、どこか冷めた気持ちで見ていた。
それが、なによりも勇者の心を逆撫でしたのだろうか。彼の中で、何かが切れた音を、リリアミラはたしかに聞いた。
────お前さえ、お前さえっ……いなければ!
自分の身体に馬乗りになって、剣を向ける勇者の体の熱が、心の熱が、肌を通してリリアミラの体に伝わってくる。
温かい、と思った。
────殺してやる。殺してやる……絶対に、俺が殺してやる
どす黒い感情を吐き出しながら、勇者は幾度も死霊術師の体に剣を突き立てた。
腕を刺された。
足を刺された。
頭を刺された。
心臓を貫かれた。
それでも、リリアミラは死ぬことができない。勇者は、リリアミラを殺すことができない。
やがて、勇者は剣を取り落とした。
────お前さえ、お前さえ……
素手で女の細い首筋を掴み、勇者は言う。
────お前さえ、殺せれば……お前さえ、おれの味方だったら、みんなは、死なずに済んだのに……!
涙だった。
リリアミラは、見た。
殺意と憎悪と悲しみと、あらゆる感情がごちゃ混ぜになった涙の中に、世界を救うということの本質を。なによりも、自分が求めていたものを見た。
これだけの憎しみがあれば、きっとこの人は、いつか自分のことを殺してくれる。絶対に、終わらせてくれる。
だから、
────味方になって、差し上げましょうか?
その憎しみが、裏返る瞬間を見たくなった。
首を締められながら、静かに絞り出したその一言を。聞いてしまった瞬間の勇者の顔を、リリアミラ・ギルデンスターンは生涯忘れない。
だって、あんなに美しい顔を見るのは、はじめてだったから。
────条件は、何だ?
震える声で、勇者が問う。
この瞳の中でなら、死ねるかもしれない。そう思った。思えてしまった。
────簡単ですわ。いつか、わたくしを殺してください
死霊術師は答えた。
それだけだった。たったそれだけで、二人きりの契約は完了した。
◇
だから、殺させるわけにはいかないのだ。
だって、彼に殺してもらうのは自分なのだから。
仕事を終えて、再び勇者の元へ戻ると、彼は椅子に座ってゆったりと海を眺めていた。赤髪の少女の方は、遊び疲れたのだろう。机に突っ伏して寝ている。
「お隣、よろしいですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
リリアミラは静かに、彼の隣に腰掛けた。
「お仕事は終わった?」
「ええ。滞りなく」
「さっきのことだけど」
「さっきのこと?」
「……嫉妬がどう、ってやつ」
「ああ。お忘れください。馬鹿な女の戯言ですわ」
「忘れないよ」
リリアミラは、逸していた視線を戻した。
からん、と。彼が持つコップの中の氷が、砕けて割れた。
「おれはあの日から、きみとの約束を、片時も忘れたことはない」
勇者は、リリアミラを横目で見た。
その冷たい横顔を、リリアミラは知っている。その横顔は、リリアミラしか知らない。
「だから、安心していい」
勇者は、リリアミラに言った。
その低い声を、リリアミラは知っている。その声は、リリアミラしか知らない。
シャナも、アリアも、ムムも、誰も知らない。他の誰にも見せたことがない、勇者の表情と声音と……その心を、リリアミラだけが知っている。
「……うふふ」
ああ、そうだ。
これだけは、自分のものだ。この感情だけは、自分にしか向けられないものだ。
だから、絶対に誰にも渡さない。
「勇者さま」
「ん?」
椅子から立ち上がり、背を伸ばし、腕を広げて振り返る。
今にも溶け落ちてしまいそうな夕焼けを背に、リリアミラ・ギルデンスターンは微笑んだ。
「わたくし、やっぱり勇者さまのことが大好きですわ」
ミラさん、と。
彼に名前を呼んでもらうのが、少し恥ずかしかった。
愛とは、優しく温かなものだけではない。冷たく、残酷で、時に人を殺すものを、愛と呼ぶこともある。もしかしたらそれは、正しい愛ではないのかもしれない。
それでも、もし。人を憎み、世界を壊す気持ちに正しさがあるのなら、彼ほどの愚直さを持ってそれを為す人間を、リリアミラは知らない。
だから、愛そう。彼がいつか、自分を終わらせてくれる日まで……あの硝子細工のような激情と同じ愛を彼に注ごう。
殺してくれ、と彼は言った。
彼女は、彼を殺すことはできなかった。
故に、魔の道に堕ちた。
殺してくれ、と彼女は言った。
彼は、彼女を殺すことを誓ってくれた。
故に、世界を救う支えとなった。
嘘偽りのない、彼と彼女が交わしたたった一つの約束を、何人も否定することはできない。
愛とは、どこまで醜いものなのだろう。
そう思っていた。今は違う。
彼女は、世界を救った勇者を愛している。
彼に想い焦がれるものが多いのは知っている。
それでも、リリアミラ・ギルデンスターンは、信じている。
────わたくしの愛が、最も美しい。
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