紅蓮の騎士は、勇者を愛している

 最初は軽い手合わせのつもりだった。相手の力量を測る模擬戦のつもりだった。

 しかし、アリアも少年も、目の前の戦いに夢中になるあまり、手加減という概念が頭の中から消えてしまっていた。

 ヒートアップした激闘の余波で屋上が吹っ飛び、それはもう大変なことになった。

 学校中に響き渡る警報。警備の騎士達の怒声。それらを、どこか他人事のように遠くに聞き流しながら、


「やり過ぎたね……」

「やり過ぎたな……」


 アリアと少年は2人揃って、なんとか崩れずに残っている屋上の隅に、大の字に寝転がり、空を見上げていた。

 少年が勝った。アリアは負けた。

 アリア・リナージュ・アイアラスにとって、人生はじめての敗北だった。


「あたし、結構強いつもりだったんだけどなあ」

「強かったよ。すごく強かった」


 上半身を起こした少年は、ボロボロになった制服の上着を脱いで、アリアの体にかけた。同じようにボロボロになっている、アリアの制服への配慮だった。


「さっきも言ったけど、あたし、べつに見られても気にしないよ」

「おれが気にする」

「……そっか。ありがと」


 少年の上着を前に抱いて、体を起こす。


「きみは、どうしてそんなに強いの?」

「まだまだ弱いよ。おれはこれから、魔王を倒して世界を救わなきゃならない。お姫様一人を相手に、こんなにボロボロにされてたんじゃ、先が思い遣られる」

「え〜、なにそれ? 負けたあたしに対する嫌味?」


 冗談めかしてそう言ってから、アリアはふっと体の力を抜いて、また地面に寝転んだ。


「きみはかっこいいなぁ。強さの芯に、おっきな目標があって」

「ん?」

「あたしには、そういうものがないから。責任がある王家に生まれて、生まれた時から体に『魔法』があって。才能があるって言われたから、言われて流されるままに訓練して」


 でも、そんな強さはどこまでもいっても空っぽだ。

 少年のように、確固たる信念と意志を宿した強さには、どれだけ手を伸ばしても届かない。


「だから……羨ましいな」

「じゃあ、おれと一緒に行こうよ」

「え?」


 ぐっと膝に力を入れて、彼は立ち上がる。


「さっきも言った通り、おれはこれから世界を救いに行く。でもほら……さすがに、1人だと死にそうだから、おれのことを守ってほしいんだ」


 大きく背伸びをして、腰に手を当てて、空を見上げて。

 そんな何気ない背中が、なぜかアリアにはとても大きく見えた。


「お姫様で騎士なんだろ? それなら、ますますちょうどいい」


 守れるし、守ってもらえる、と。振り返って、彼は笑った。


「きみのことは、おれが絶対に守る。だから、時々でいい。おれの背中を守ってほしい」


 言ってから恥ずかしくなったのか、彼は少し目を逸した。


「……だめ、かな?」


 冷えていた心に、熱が宿る予感がした。


「だめじゃないよ」


 起き上がって、彼の横に並ぶ。


「わかった。あたしが、あなたの騎士になってあげる」


 それから、ゆっくりと跪き、戦いでやはりボロボロになった剣を掲げた。


「それでは、主よ。名前を教えていただけますか?」

「……やべえ。おれ、まだ名乗ってなかったっけ?」

「うん。聞いてない」

「ごめんごめん。おれの名前は」


 かくして、アリア・リナージュ・アイアラスは誓いを立てた。


 その誇り高き剣を、勇者に捧げることを。







 燃える。

 鎧に触れた、双角の悪魔の右腕が、爪の先から肩に至るまで、燃え上がる。


「グッ……グォオオオオアアアア!」


 絶叫し、痛みを堪えきれず、悪魔は膝をついた。


「熱そう、だね」


 消える。

 鉄すら溶かし尽くす、悪魔の渾身の火炎が、蒼銀の鎧から一瞬で消え失せる。


 なんだこれは。

 なんだこれは?

 なんだこれは! 


 これは、自分が撃ち出した炎ではない。目の前の騎士から放たれた炎だ。


 声にならない叫びが、心をかき乱す。

 完璧だった。読みを通した。勝てるはずだった。


 それなのに、なぜ? 


「なぜだっ! なぜだっ! なぜだっ! オマエの魔術は、氷雪ひょうせつ系のはず……!」

「え、違うけど?」


 声の調子が戻っていた。

 かわいらしく首を傾げるその仕草に、恐怖を覚える。


「だってあたし、騎士だからろくな魔術も使えないし」


 一瞬、燃える痛みすらも忘れて。双角の悪魔の全身から、血の気が引いた。


「そ、そんな……そんなバカな話があるかっ! ならば、あの氷はなんだ!? この炎はなんだ!」


 叫びながら、悪魔は胴体に炎が移る前に自身の腕を引き千切った。怒りと痛みで、全身が痙攣するように震える。



「あたしの魔法は、



 飛び散る血の赤を踏み締めて、騎士は宣言した。


「この剣、一応『聖剣』でね。右の大剣は、魔力を喰って火を放出し、操る。逆に左の大剣は、魔力を喰って水を放出し、操る。あたしはそれを変化させて、魔術の真似事をしているだけなんだよ」


 最初の攻撃は、一瞬だけ薄く伸ばした火炎の斬撃だった。次の攻撃は、地面に流し込んだ水流の凍結だった。

 火を炎に。

 水を氷に。

 たったそれだけの種明かしに、悪魔は慟哭する。


「変化させる……? 聖剣は、莫大な魔力が注ぎ込まれた遺物だぞ! その魔力性質を、触れただけで変えられるはずが……ッ」

「変えられるよ。だって、それが『魔法』だから」


 悪魔は、絶句する。


 その騎士は、触れた全てに熱を与える。

 その騎士は、触れた全ての熱を奪う。

 心に誓いを宿した騎士は、何ものにも屈せず、倒れず、迷わず、ただ前へと進み続ける。


 それは、燃え上がる情熱と、凍える冷徹さが一つとなって完成した、絶対零度の紅蓮。


 『紅氷求火エリュテイア』。アリア・リナージュ・アイアラス。

 この世界を救った、最高の騎士にして、魔法使いである。


 自分自身と、触れている物体の温度を自在に変化させる、ということは。

 彼女には、悪魔の炎は絶対に通用しない。


 万事休す。

 遂に、双角の悪魔は、人間に頭を垂れることを選んだ。


「騎士よ……どうか、どうか慈悲を」

「ん? 何か話す気になった?」

「それ、は……」

「無理だよね。だってきみたち、どうせ何も知らないだろうし」


 表情は見えない。ただ、頭兜ヘルムの奥から覗く瞳だけが、悪魔を静かに見下ろしていた。

 ようやく、双角の悪魔は理解する。


 怒りだ。


 この騎士は、最初から怒っている。鎧の内側で、最初から、滾るような怒りを燃え上がらせている。

 彼女にとって、それほど大切な存在に手を出そうとしたことが、そもそも間違いだったのか。

 二刀が交差し、首筋に当てられる。


「もういいよ」


 どこまでも冷たく、


「勇者を殺す、と。そう言ったな?」


 どこまでも熱く、


「もっともっと、命乞いをしなよ。悪魔くん」


 騎士は、剣を振り下ろす。


「あたしが守るべき誇りに、唾を吐きかけた罪。その命だけで償いきれるものではないと知れ」





 世界を救う直前。魔王が放った最後の攻撃は、勇者ではなくアリアに向けられたものだった。

 仲間を狙えば、彼は必ず庇って守る。幾度も交えた激戦の中で、最後の最後に魔王は、勇者の性質を看破し、悪辣にその優しさを突いた。


 動けなかった。

 限界だった。

 そんな言葉は、言い訳だ。


 勇者は、決して消えない呪いを浴びた。


 ────どうして、あたしを庇ったの?


 ────おれが、絶対に守るって。約束しただろ。


 ああ、そうだ。約束をした。誓いを立てた。

 その背中を見上げるのではなく、隣に立って一番近くで彼を守り抜くと。そう誓ったはずだったのに。


 守れなかった。

 彼の名前と、彼が好きだった人達の名前の全てを、奪われた。


 あたしのせいだ。


 アリア、と。

 彼に名前を呼んでもらうのが、大好きだった。

 愛には触れられない。愛の温度は測れない。

 それでも、もし。人を想い、世界を想う気持ちに熱量があるのなら、彼ほどの熱を持っている人間を、アリアは知らない。


 だから、愛そう。彼が自分を大切にしてくれた想いに、精一杯の献身で応えよう。


 最後の最後に、騎士としての自分は彼を守ることができなかった。その後悔は、片時も衰えることなく、胸の中で燃え続けている。


 彼女は、世界を救った勇者を愛している。

 彼に好意を寄せる者が多いのはわかっている。

 それでも、アリア・リナージュ・アイアラスは断言する。


 ────あたしの愛が、最も熱い。

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