#1-4 魔物

 出来ることならずっとこうしていたいと願った。

 しかし少女の腹部から「ぐぅうう」という、空腹の叫びが盛大に聞こえたために彼女はがばりと身体を離し、そして顔を赤らめて視線を落とす少女を見てにかりと笑った。

 だがその彼女すらも、直後「ぐぅきゅるるきゅるきゅう」と、少女よりもさらに大きなひもじさの雄叫びが上がる。堪らず少女は吹き出し、二人ともに一頻り笑った。


「……あたし、“螢惑” けいこく って言うんだ」

「ゆ、ゆゆ、ゆ……」

「ゆ?」


 少女はぴたりと口を噤んだ後で三度ほど深呼吸を繰り返した。胸に手を当てて息を吸い、ゆっくりと吐く――おそらく何度も繰り返してきたであろうその行為は、少女のこれまでの生活を螢惑に想起させ、それ故に螢惑はまたも彼女を抱き締めたい衝動に駆られたがぐっと堪えた。


「……夕星ゆうづつ

「ユーヅツ」


 こくりと少女が頷く。はっきりと自分の名前を言えたことによる安堵に胸を撫で下ろし、何とも愛らしい微笑みを見せた。それからスケッチブックを捲って“夕星”という綴りを書いて見せた。螢惑はその名前が、少女の愛らしさに合致していることに感嘆した。



 ――――ッ!



 だが、遠く聞こえたその震えに夕星がびくりと身体を震わせた。螢惑もまた天井を僅かに仰ぐ。

 鼓膜が傍受キャッチしたのは遠吠えめいた何かに思えた。

 顔を見合わせた二人――螢惑が見た夕星の顔は決意と不安の二律背反で彩られている。だから訊ねずにはいられなかった。


「夕星、今のは?」


 少女が幼くも大人びた表情で頷く。


 あれは魔物――異形をその身に宿す人型の獣。

 目的も理由も定かでは無いが、あのスーパーマーケットから南に進んだ先にある拠点コロニーを襲おうとしているのだと、夕星は少しずつ述べた。


拠点コロニー……」


 夕星が頷く。

 四ヶ月前に起きた異世界からの侵攻、その最中にあの魔物たちは現れた。

 市街地は蹂躙され、多くの戦禍が降り注ぎ、駄目押しとばかりに災禍もまた降り注いだのだ。

 この国の機械兵たちも主たる人類のために奮戦したが異世界軍と魔物との三つ巴の戦いの中で人類は制御権を失い、機械兵もまた人類に離反した。

 何もかもが、絶望へと手を伸ばしていた。


 それでも生き残ることが出来た人類の一部は、寄り添い合って滅びた市街地跡に拠点コロニーを作って生活している。

 異世界軍はもういない。突如現れた魔物や狂い果てた機械兵を前に侵攻を取りやめたのだ。

 その魔物も機械兵も、人類を襲うために衝突を繰り返している。敵を同じくしようとも、彼らが手を取り合うことは無いらしい。

 だから今も危険とは隣り合わせの世界だが、辛うじて生き延びることが出来ている。


「ユヅ、行かなきゃ」

「行かなきゃって?」

「ユヅは……“受憎者” ドニィ だから。みんなを守らなきゃ」


 告げて、少女は踵を返して駆け出した。

 空を切った伸ばした手――螢惑は今しがた聞いた“受憎者” ドニィ という響きに軽い眩暈と蟀谷こめかみの鈍痛を覚えながら、不鮮明ながらもまた失われていた記憶が蘇るのを感じた。


 そうだ、この研究所は――この世界の人間を仮初の魔術士マギへと変貌させる“魔薬” ドープ の研究所であり。

 そしてこの研究所にいた自分も、少女と同様にその魔薬ドープを体内に投与することで侵略者から民を守る魔術士マギとなる“受憎者” ドニィ だろう――記憶はまだ不鮮明で思い出した個々の繋がりも希薄。だがこの場所を知っており、魔薬ドープ“受憎者” ドニィ といった言葉をも知っているのだ、ならば自分もそうだと考えるべきだ。

 そう結論付けた螢惑は少女の背中を追った。既に遠く廊下を先行し、すふぃんと上下に開いたドアの先にある階段を上り、そして建物の外へと出た。


 流石に建物の地上階部分は半ば倒壊していた。研究施設が無事だったのはコアとなる設備群が全て地下にあったからだろう。

 吹き抜けとなった瓦礫の積もるごつごつとした足場を跳び越えた夕星は、太腿に巻き付けたベルトに備わるケースから取り出した金属フレームで補強された細い硝子瓶を取り出すと、上端を親指で押さえながら下端を首筋に宛がう。

 螢惑が目にしたのは、ぐっと力を込めて押されたボタンにより瓶の内部の薬液が少女の矮躯に吸い込まれていき、それにより葉脈のような痣が拡がった夕星の左肩から歪で巨大な黒腕が生え出てきたという、目を疑うような光景だ。

 だが螢惑はやはりその光景を目にしても驚愕などはしなかった――ならばそれもまた、自分が受憎者ドニィであるという証左のひとつなのだろう。


 黒腕をぶぅんと振り回して操作性を確認する夕星の隣に、螢惑もまた並び立つ。

 驚嘆の表情で夕星は隣の螢惑を見上げた。だが螢惑の表情はすでに彼女の中で決意が固まったことを示していた。


「ユヅ――あたしはユヅに救われた。ユヅがあたしの身体を見つけて、それを教えてくれていなければあたしは今も幽霊のままだった。だから今度はあたしの番だ」


 夕星は何かを言おうとしたが、それは言葉にはならなかった。少女は、想いを言葉にするのが苦手だったからだ。だから止めようと、下がってもらおうとしたが、それを完遂することが出来なかった。

 螢惑は勿論少女のそんな気持ちに気付いていた。だがこの時ばかりは自分の想いを貫いた。

 手に馴染んだ黒革の指貫き手袋グロ-ブをぎゅっと締め直し、受憎者ドニィとしてどう戦ってきたかの記憶を呼び覚まそうと目を瞑る――瞼の裏に、襲い来る敵が次々に燃え上がる映像がフラッシュバックした。


炎術士パイロマンサー……?)


 開いた目で視線を落とした両の掌には、じっとりとした汗が滲んでいる。

 魔術――相手を燃え上がらせるような炎術パイロマンシーを、どうやって放っていたかの感覚はまだ戻っていない。だがきっと、血戦の場となれば思い出すだろう――楽観的にそう結んだ螢惑は未だに不安げ・申し訳なさげに上目遣いを見せる愛らしい少女の低い頭の上にぽんと手を置いた。

 生きて帰ったら、沢山抱き締めよう――未遂に終わるかもしれないが、その想いだけで一晩中戦えそうだった。


「さ、やってやるか!」


 胸の前で左掌に右拳を打ち付けた螢惑は意気込みを言葉に放つ。

 その声に呼ばれたように、遠くの建物の影からぞろぞろと、魔物の群れが現れた。


 それは正しく異形――人型と聞いてはいたが、凡そ人の形、定義に当てはまりはしない歪んだ異物。


「――ヨキ、ナタ、キネ」

「ヨキ、ナタ、キネ?」


 こくりと夕星が頷いた。


 魔物は一体一体が全くの別の輪郭をではなく、ある程度の定形、種類を有していた。

 ヨキやナタ、キネと言うのは、その魔物の種別を称した名だ。


 ヨキ、或いはヨキ型とは――下半身に比べ上半身が肥大し、長大となった両腕の先端に片刃の斧の形状を持つ魔物だ。動きは多少緩慢だが膂力に優れ、その斧刃の餌食となれば最悪命は無い。


 ナタ、或いはナタ型とは――細く均整の取れた肉体を持ち、右腕の先端が鉈のような形状となった魔物だ。ヨキ型とは違いすばしっこく、一撃の威力もそれほどでは無いが敏捷性を活かした連続攻撃を得意とする。


 キネ、或いはキネ型とは――下半身と左腕が肥大化し、その左腕の先端が鉤型に曲がった大きな鎚となった魔物だ。ヨキ型やナタ型のように斬り付けることは出来ないが、その鎚部での打撃の破壊力はヨキ型同様であり、かつ瞬発性や跳躍力にも富む。


 現れた群れは、ヨキ型が一体、ナタ型が二体、キネ型が二体の計五体。

 しかしその群れが殺到し始めるよりも先に、左肩から生えた黒腕を地面に打ち付けることで強く大きくそして鋭く跳躍した夕星が、落ち様にその黒腕の先に生える鉤爪のような五指で以て叩きつけ、ナタ型の一体を地面に咲く濡れた赤花へと変貌させた。


「――――ッ!」

「ッ! ッ!」


 文字では表現できない異質な号砲を発した魔物たちは、我らこそが襲撃者だと殺到を開始する。

 しかし地面に圧し付けていた黒腕を薙いでヨキ型の振り下ろした斧刃を弾いた夕星は、再度地面を殴りつけるようにして跳び退いた。


「しゃあああああっ!」


 入れ替わるように突出した螢惑――だがまだ炎術の使い方を思い出してはいない。

 じぐざぐに短く跳躍しながら襲来するもう一体のナタ型が振り被った鉈の形状を先端に持つ右腕を大きく振り下ろした。

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