#1-3 生還

 アシンメトリーショートウルフ――彼女の髪型を言い表すなら、そんな表現になっただろう。

 彼女の実際の双眸が捉える彼女の輪郭はぼやけていたが、しかし鏡には鮮明に――やや透き通ってはいたものの――映っていた。


 赤褐色のまぶされた髪は内側を蘇芳すおう色に染め上げ、鋭くも美しいと言えるその顔貌に半ばかかるように垂れ下がっている。

 虹彩の色はその髪色とは対照的な深縹こきはなだ。肌はそこまで白く無く、だが焼けているとも言い難い程度の小麦色。

 黒いタンクトップに丈の短い七分袖のレザージャケットを羽織っており、踝の見える朱いクロップドパンツを履いていた。靴は細身のスニーカーで、タンクトップ同様黒く塗り潰されている。


(これが――あたし)


 自らの姿を視認できたことで、鏡像では無い彼女の輪郭すらも鮮明に映るようになった。先程までぼやけて視えていたのは、彼女の中に彼女自身の容姿のイメージが欠けていたからかもしれないと、何となく彼女はそう思った。


 そうして自分自身を見詰めながら呆ける彼女が視線を僅かに下げると、鏡越しに少女と目が合った。

 そうなったことで少女の肩がびくりと震え、彼女は驚かせてしまった・怖がらせてしまったことに焦り、ぐるりと振り返って手を伸ばす。


 その手は勿論、空を切った。

 少女の身体をすり抜けて、彼女は転んだように床に倒れてしまう。


(幽霊でも、足がもつれることってあるんだな……)


 心に影が差したまま立ち上がった彼女は、しかし少女が逃げ出さず未だ鏡越しに自分を見ていることに気付くと、ぱちくりと目を瞬かせた。

 やがて少女がごくりと唾を飲み、自らの後方にいる筈の彼女に向き直る。


 だが、それでは視線が交わらない――少女のには、彼女は映っていないのだ。

 だから少女は再度鏡を向いて、再度交わった視線の先にいる彼女へと、声を上げた。


「あ、あのっ、ま、ま、ま、待って、待って、待って……」


 吃音だろうか――だが、待っていてほしいという意思は伝わった。それが嬉しくて堪らなかったというのもあり、だから彼女は微笑んで頷いた。そして、その場に胡坐を掻いた。


 少女は仄かに赤らんだ頬でワンコインショップの方へとぱたぱたと駆けると直ぐに戻って来た。しかしその手にはスケッチブックと油性マーカーが握られていた。

 そして再び鏡の前へと戻ると、床に置いて広げたスケッチブックに油性マーカーを走らせる。

 鏡に映ったのは、“あなたの体があります”という文字列だった。




   †




 スケッチブックの新たなページに記された“着いて来て下さい”という少女の願いを、彼女には“断る”という選択肢が無かった。

 その言葉が真実かどうかは判らない。だが幽霊である自分を騙して何をしようと言うのか。

 そしてそれ以上に、一目惚れの相手のお願いを無碍にする天邪鬼な精神性など持ち合わせていないのだ。

 もし仮に罠だったとしても、彼女は今みたく喜んで着いて行っただろう。


(……マンホール?)


 スーパーマーケットの裏手の駐車場からほど近い道路上に、丸く重い蓋がけられて開いたままになったマンホールがある。

 少女はワンコインショップから拝借した荷物――スケッチブックとマーカー、懐中電灯とそして手鏡――を入れた子供用の可愛らしいキャラクタープリントの施されたリュックサックを背負ったまま、そのマンホールへと入り込んでいく。

 何処に行くのだろうと訝し気に首を傾げながら、とにかく少女が潜って行くのだから彼女も追従しないわけが無い。

 しかし律儀にマンホールの縦穴に備えられた梯子を掴み降りるのではなく、幽霊であることの身体能力を利用し、ふわふわと浮遊しながら落ちて行った。


 カチリ――少女がリュックサックから取り出した懐中電灯のスイッチを点けると、下水の満ちた溝の両側に作業員が歩く用の道が見えた。

 少女は取り出した手鏡の角度を何度も変え、彼女がちゃんと着いて来ていることを確認すると、鏡越しに目を合わせてひとつ頷き、再び手鏡を仕舞ったリュックを背負って下水の道を歩き出す。

 彼女はただ歩む少女の背中に付き従う。時折ぴちょんと天井から落ちた雫が下水の水面に波紋を作る音にびくりと振り向くが、何かが襲い来るわけでは無い。


 進む少女から離れてしまわないように、暗闇の中の道を折れ、曲がり、下り、格子の扉を潜り――やがて、少女は壁に備わった梯子を登り出した。

 彼女は跳び上がれはしなかったものの、梯子の近くであればそれに触れずとも身体を中空に押し上げることが出来た。本当に、不思議だなと心の内で独り言ちる。


 登り切った梯子の先に鉄の蓋は無かった。

 何処ぞの道路に出ると思ったが、下水の穴は無機質な空間に繋がっていた。

 何処かの施設だろうか――先程までいたスーパーマーケットのような雑然とした雰囲気は無く、また倒壊した様子も見られない。


 ただただ白く、つるりとした床と壁と天井。

 電気が生きているのか、天井には内部に埋め込まれているのだろう電灯が仄かな明かりで二人が這い出てきた廊下を照らしている。


(……あたし、知ってる)


 彼女は既視感デジャヴを覚えていた。だがそれを深く追想しようとする前に、またも歩き出した少女の背を追わなければならなかった。


 近未来的な上下に開く自動ドアを潜って廊下を先へと進む。

 左右にいくつか同じドアのある廊下を真っ直ぐ突き抜け、突き当りを左へと曲がり。

 やがて少女とともに踏み入った広い空間。


 まるで卵を倒したような覆われた大きな寝台がいくつも並ぶ、ただただ広い空間。


 その奥の寝台の一つに、彼女と同じ輪郭、色彩を持つ身体が眠っているかのように横たわっている。


(……あたしだ)


 少女はリュックサックから手鏡を取り出して彼女を探す。

 しかし彼女は少女と視線を交わすより先に、自らの身体へと歩み寄る。

 歩みはやがて駆けになり。

 辿り着いて触れた矢先――――脳裏に閃光が迸り、彼女の全身は雷に打たれたような衝撃に襲われた。


螢惑ケイコク、仲間を――』


(やっぱりだ……あたし、この場所を知ってる!)


 かっと目を見開いた彼女は、脳裏に瞬間浮かんだ朧気な記憶から、失われた記憶を取り戻そうと蟀谷こめかみに手を当てたが、そうしながら自分の視界が変わっていることに気付いた。

 先程まで、横たわる自分の身体を見詰めていた筈なのだ。だが今、眼前にはその横たわる身体は無く、遠くに仄かな明かりを灯す白いが見える。

 また、蟀谷こめかみに当てた手は翳してみればはっきりとした輪郭を持っており、色彩は透き通ってはおらず、黒革の指貫き手袋に包まれた手は確りとそこにあった。


 むくりと起き上がる――そうしたことで、彼女は少女と鏡を介さずに視線を交わすことが出来たことに気が付いた。


「……幽霊じゃ無かった」


 起き抜けの言葉は間が抜けていた。立ち上がり寝台から降りて、改めて身体がここにあることを確認した彼女は破顔した。もう二度と、自分の身体感覚など感じることが出来るとは思っていなかったのだ。


「はは、あたし、幽霊じゃ無かった!」


 喜びのあまりぴょんぴょんと何度も飛び跳ねる彼女の奇行を、しかし少女もまた安堵した顔で眺めていた。

 彼女は一頻り自分の身体を確かめた後で少女へと歩み寄り、どぎまぎとした少女の前に重ねた両手を取って泣きそうに微笑んだ。


「ありがとう……死んだと思ってた」

「いえっ、あのっ、あのっ……よかっ、良かった、です……」


 堪らず、彼女は少女を抱き締めた。少女は吃驚して身体を強張らせたが、やがて弛緩させ、彼女の背に手を回してさすさすと撫でた。

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