#1-2 発覚

 透き通った身体に実感は無く、辛うじて輪郭がぼやけて判る程度で、色彩は微塵も無い――ただ影が浮かび上がっている、そんな様相だ。

 そんな彼女は、そして自分のことをよくは思い出せなかった。名前から年齢からこうなった経緯に至るまで、殆どのことを忘れてしまっていた。

 きっと幽霊になった時の後遺症なのだろう――そう諦観し、ぼんやりと漂っていた矢先に少女に遭遇したのだ。


 無論、少女は彼女を知覚している素振りは無い。だがもしも気付かれ、怖がらせてしまったとしたら――その不安が、幽霊と言う身であるにも関わらず彼女を物陰に潜めさせた。


(……スーパーマーケット、かな?)


 少女が水浴びに興じているそこは、大きな建物の裏手の荷捌き場だった。その手前には駐車場と思しき広い舗装が広がっており、車も数台乗り捨てられている――その殆どが倒れたり拉げたりして、とてもじゃ無いが乗れそうには無かったが。

 駐車場の舗装も所々捲れ上がり、寧ろ剥き出しになった地盤が歪んで隆起している部分、割れて窪んだ部分も見受けられる。だが、建物自体は罅こそ入り割れ欠けも見られるが殆どが無事なように思えた。


 ショッピングモールにしては規模は小さく、建ち並ぶ荒廃した建物の種類や大きさを考えると、ここは住宅地の真ん中で、そしてその建物は三階建て。ならばモールよりは小さいマーケットストア、と考えた方が納得が行く。


 そんなことを考えていた彼女だったが、突如その双眸が見開かれた。正確に言うのなら、目に当たる部分が、だ。


(駄目だ、そんな……在り得ない!)


 声を荒げて制止しようとしたが、幽霊に物理的な干渉能力は無い。故に彼女が放った抑止の怒号は大気を震わせることも無く、勿論少女の耳には届いていない。


(駄目! 駄目駄目駄目駄目――――)


 激昂虚しく、少女は――その、小柄な身体にすら不釣り合いな、おそらく児童用の兎をデフォルメしたデザインが施された小さなパンツを。


(そんな小さいパンツを履いたら! 尻が! 尻が! 潰れて変形してしまう!)


 だがもう遅い――少女は傍らに置いてあった衣服を身に纏うと、建物裏手の蛇口に取り付けていたホースを取り外し、中に残っていた水を吹いて排出してはぐるぐるとそれを慣れた手つきで丸めた。

 それを脇に抱えて壁のドアを開け、そして建物の中へと入っていく少女。当然、彼女もそれを追うために立ち上がる。


 今、彼女の頭の中には、少女に尻のをどうやって教えるかしか無かった。

 だから幽霊の身であると言うのに、透き通った身体では物理的な干渉を及ぼすことが出来ないと言うのに、少女が閉めたドアのノブを捻ろうとして見事に空振り、ちょっとしたパニックを引き起こした。


(――って、そうだった。あたし、なんだった)


 しかし思い立って試してみれば、何ともその身体は有用だった。

 物理的な干渉を及ぼせないと言うことはその逆もまた然りであり。

 つまり彼女の身体は、ドアや壁と言う障害をすり抜けることが出来たのだ。何なら、空を飛ぶことも出来た。だがそのまま二階に上がろうとしてもそれは出来ないらしい。


(跳躍できる高さは超えられない、ってこと?)


 こうなって来ると色々と確かめざるを得なくなって来る――自らの身幅を超える長さの障害も駄目だった。つまり地面等だ。身体の全部が納まりきる直前に、言いようのない不安が去来しては脳裏に警告が走る。一部分でも身体の何処かが露出していれば大丈夫なようだった。


(あ、あのコ……)


 そうだったと思い出し、俄かの検証を放り投げて少女が去って行ったと思われる建物内部の奥へと向かう。

 ドアの内側は所謂いわゆるバックヤードだった。少女が開けたドアは従業員の通用口であり、入ってすぐ左手側には受付カウンターがあって、『防災センター』と辛うじて読める文字の掠れた表札があった。

 右手には荷捌き場へと通じる廊下があり、商品等を上階へと送るための大きなリフトのゲートが見えた。だが少女はそっちには行っていないだろう――天井が崩落し、鉄筋の剥き出しになったコンクリートの瓦礫が積み上がっていたからだ。


 なので折れずに直進する。するとバックヤードと店内を繋ぐ両開きの軽いドアがあり、それをすり抜けて踏み入った店内は酷い有様だった。


(……被災直後、って感じだな)


 地面のタイルは所々割れ剥がれ、また天井から点いていない電灯が落ちてぶら下がっている。

 商品を陳列する棚は倒れているものが多く、無事な棚には商品は殆ど見当たらなかった。


(食品はほぼ全滅、か……)


 辛うじて生活用品の棚には洗剤や掃除用具が並んでおり、だがキッチン用品は色々と抜けが目立つ――きっと、包丁などの刃物がその空座にはあったのだろう。


 少女を探して店内をうろつく。

 アイスクリームや冷凍食品などを陳列していた棚の硝子は割れ、床に散乱していた。彼女は自分が生身じゃないことに胸を撫で下ろしたが、そもそも生身だったら靴ぐらい履いているだろうと心の中でツッコんだ。


 レジは拉げたり倒れていたりするものが多く、現金は見当たらなかった。近い壁に設置されていたATMも同様だ。

 入口の硝子も悉く割られている。内側の風除室に硝子が飛び散っているところを見ると、閉鎖された店舗内に誰かが押し入り、商品や現金を奪っていったと考えるのが自然だった。


 その開放された入り口の真向かいにある階段を上っていく。

 その間も、彼女は自分の幽霊の身体と言うのは不思議だな、と感じていた。何せ意識すればある程度は浮かぶことも沈むことも出来るのに、無意識ならばちゃんと地面の上に立っているのだ。


(生きていた頃の感覚の延長線上にある、ってことなのか?)


 不思議は尽きない。物理的な法則に縛られないと言うのなら、こうして光や音を知覚することも出来ない筈だ。何しろ、幽霊の身には受容体も無い。それなのに知覚は存在し、意思も介在している。


(まぁ、だからこそ現代に至ってもその存在が解明されてもいないってことなんだろうけど……)


 いざ自身がそうなってみると、子供の頃にあれだけ興味のあった“幽霊”という存在そのものに対する興味は薄れてしまった。今大事なのは、この身でどうやって少女に“良質なパンツの選び方”を託せるか、だ。


 階段を上り切ると、ワンコインショップや衣料品売り場、ドラッグストアで構成されたフロアが広がっている。

 やはり何処も滅んでしまってはいるが、一階に比べると無事な商品も多い。


(――――いた)


 少女は衣料品売り場にいた。

 児童向け、女性向けは広く、比べて男性向けの売り場はやや狭く感じる。その児童向けのエリア奥のバックヤードに繋がるドアから彼女は出て来た。


(成程、バックヤードか――)


 売り場に陳列された商品は確かに荒らされていたが、一階のバックヤードに詰まれた段ボールはほぼ手つかずだった。ならば食料品も、生鮮のものは全滅しているだろうが、缶詰やレトルトタイプのものは生きている可能性もある。


 衣服が重なって詰め込まれたカゴを床に置き、自ら積んだであろう衣服を一着ずつ床に並べていく。

 吟味しているのだろうか――どれも小学生向けと思われる、カワイイとキレイのどちらもに手を伸ばしたデザインだと言えた。


 確かに少女の身体は小さい、いやちいさい。恐らくは中学生くらいだろうが、少女が手に取って眺めるそれらの衣服を着られないことも無い。

 だが彼女は歯噛みした――それだけ衣服を選ぶ余裕があるのなら、何故あのような児童用のパンツなど履いているのか、と。もっと自らのお尻に適合したものがあるだろう、と。


 もしこの場に彼女と少女以外の第三者がおり、そしてその第三者が彼女を視覚出来たなら。

 そのに戦慄を覚え回れ右をして見なかったことにしただろう。

 或いは彼女がそもそも実体ある生身の人間だったなら、彼女の足元には双眸から溢れた数滴の血の雫が落ちていたかもしれない。

 とにかくそれ程に彼女は憤慨し、そして改めて少女にどうにかしてパンツのことを伝えなければならないと強く想起、奮起した。


 だから。


 彼女が少女に近付き、その後方にあった唯一生き残っている鏡に瞬間――彼女が、彼女自身の姿を漸くはっきりと視認できたその瞬間。同時に、衣服を身体に合わせて似合うかどうかを確認している中でその瞬間。


 彼女は、少女を素通りしてぺたりと鏡に手を着けた。

 その様子を、少女は目を見開いてただただ眺めていた。

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