Part.51『少年と少女を繋いだ、一通の手紙』

 夢だったら、と今でもそう思う。

 心の一番奥深いところで、ぐつぐつと煮えたぎっていた暗い想い。封じ込めているだけで、それも確かに自分の中にあるものだとわかっていたが、あそこまで醜く感情が昂ぶるとは想定外だった。夢だったら、と何度もそう思った。しかし、目覚めた瞬間から、朝陽に照らされた闇が晴れるみたいに薄らいでしまう夢の内容とは違い、あの日見た光景は、日を追うごとに私の中で鮮明になっていく。

 先輩の父親を憎んだこと。

 先輩に対して激しい嫉妬を覚えたこと。

 自分に対する哀れみや絶望が瞬く間に激情に変わり、先輩の背中を押したこと。あの時の感情を自分でも上手く説明できないが、きっと、先輩に対する嫉妬と殺意とが、私の心の表と裏だった。

 気が付けば、前部がひしゃげたトラックの前方、じわじわと広がっていく赤黒い血だまりのなか倒れていたのは、私の大切な人の姿で。

 騒然とした空気のなか、行き交う人々はみな、恐怖と混乱の表情だ。慌てて救急車を呼ぶ人の怒声や悲鳴が飛び交う。

 自分が犯した罪の重さ。惨劇の光景を目の当たりにして、私はただ、両手を地面につき泣きじゃくることしかできなかった。

 先輩も。 

 親友も。

 みな私の罪を許すと言ってくれたけれど、これは決して、忘れてはならない記憶だと思った。

 胸に抱き、心にしっかりと刻みこんで、一生をかけ向き合って行かなければならない記憶だと思った。

 それが、私なりの懺悔。


* * *


 白い雲が幾重かにたなびき、雲間から太陽が控えめに顔を覗かせている。歩道の脇に立ち並ぶ街路樹の隙間から降り注ぐ陽光は、青々とした木葉に遮られてなお、真夏日であることを痛烈に伝えてくる。

 少女は頬を伝う汗を拭いながら、歩道の上をひたすらに走る。

 アスファルトから立ち昇る熱気は陽炎のように景色を揺らめかせ、眼前にそびえ立つ白い建物の姿も歪んで見えた。自動ドアをくぐって中に駆け込むと、途端に涼しい空気が少女の肺の中を満たした。


 勢いを緩めることなく病院のロビーを駆け抜けた少女は、エレベーターの前に立って顔を上げる。彼女の病室は五階。エレベーターも、丁度五階に向かっている途中のようだ。

 結局、待ちきれないと痺れを切らした少女は階段に向かう。

 一階から五階まで駆け上がるのは、それなりに重労働だ。けど少女は、幸いにも脚力には自信がある。足に纏わりつくスカートの存在だけを、煩わしく感じた。

 でも、服装はこれで良いと少女は思う。彼女は自分の制服姿を、いつも可愛いと褒めてくれるのだから。

 自然と顔が、熱を帯びるのがわかった。気温のせいだろうか……でも、きっと違うな。


 ようやく、彼女がいる病室の前まで辿り着く。少女は軽く深呼吸をしてから胸元に手を添えると、緑色のリボンを整えた。

 脇に抱えた荷物に視線を落とす。一つは警察から先日送られた表彰状。まあ、これはついでだしどうでもいいんだけど、なんて言ったら、彼女は怒るだろうか?

 本命はもう一方の荷物。A4サイズの紙の束。表紙となる一枚目には、『少年と少女を繋いだ一通の手紙』とタイトルが添えられていた。

 文芸部と美術部の、共同制作で完成させたリレー小説。


 彼女は喜んでくれるかな?

 彼女の笑う姿を、早く見たかった。彼女の雪のように色白な肌に触れ、直に温もりを感じたかった。

 彼女のことは好き。

 今日も明日も明後日も、きっとこれから先も、ずっとあなたのことが好き。

 けど少女は、熱くこみ上げてくる感情をかぶりを振って追い払う。

 だってそれは、イケない恋、なのだから。


 私──頑張るからね。

 頑張って、咲夜への気持ち……






 ──忘れるから。







 視界が僅かに滲む。

 未だ胸の奥につかえる切ない気持ちを、ぐっと堪えて飲み干した。

 それでも少女──夢乃明日香の表情は、晴々としていた。

 頬を伝う涙をハンカチで拭い、一度大きく息を吸い込んでから、明日香は扉のノブに手をかける。一息に扉を開けると、大好きな『親友』の名前を呼んだ。


「おはよう、咲夜!」


* * *


『リレー小説:少年と少女を繋いだ一通の手紙』


 絵:美術部有志

 著:佐藤太郎、夢乃明日香、生天目未来、加護咲夜、今泉京



 ある小さな村に、一人の少女が住んでいました。

 少女には不思議な力がありました。

 それは、他人の感情が読み取れてしまうという能力。

 例えば、喜びの感情。悲しみの感情。怒りの感情。そういった、漠然としたものではありますが、他人の考えが薄っすらと分かってしまうのです。


 好意的な感情を向けられているうちは、何の問題もありません。

 けれど、人間の心とは愚かで醜いもの。時には強い負の感情をぶつけられることだって、多々ありました。

 自身が持つ力のせいで他人と関わりあうことが怖くなった少女は、次第に口をつぐみ、いつしか家の中に閉じこもるようになります。

 だから少女は、毎日一人ぼっち。

 朝起きてから夜眠るまでの間に顔を合わせる相手も、両親くらいしか居ませんでした。


 それでも少女は、寂しくなんかありません。彼女にもたった一人だけ、友達がいたからです。

 それは、少女にだけ姿が見える、妖精の女の子。

 妖精は常に少女の傍らに居て、彼女の話し相手になってくれました。


『誰とも向き合う必要なんてないよ。人は醜い生き物だからね。君は私とだけ話をしていれば、それでいいんだよ』


 妖精は少女にそう教えを説き、少女も妖精の言葉を信じました。


 ──私の友達は、彼女だけでいい。


 妖精の姿は他の人に見えないから、少女と妖精の会話は二人だけの秘密。少女は日々の辛いことも楽しい出来事も、全て妖精にだけ打ち明けました。妖精はそんな少女のことが、とても大好きでした。

 二人は固い友情で、結ばれていたのです。


 そんなある日。少女の家の隣に、一人の男の子が引っ越して来ました。

 彼は文章を書くことが、とても大好きな少年でした。

 家の窓から少年の姿を追っているうちに、少女の心の中に不思議な疼きが走ります。

 

 ──あの子。どうしていつも喜びの感情だけを浮かべているんだろう?


 少年は常に笑顔を絶やすことがなく、また、決してネガティブな感情を抱かないのです。彼の存在に興味を抱いた少女は、どうにかして声をかける方法がないかと模索し始めます。

 しかしそこは、他人と話す事を著しく苦手としていた少女の事。どうしても少年に話しかける勇気が湧きません。そこで妖精と相談した結果、手紙を書くことにしました。

 口では言えないようなことも、文字にするとあら不思議。自然と手紙をしたためることが出来ました。

 少女は自分の想いを綴った手紙を、妖精に頼んで少年の家のポストに投函します。

 手紙を読んだ少年は、感動しました。こんなに美しい文章を書く女の子に、是非会ってみたいと。

 ところが手紙には、差出人の名前も住所もありません。困った少年は、取り敢えず返事の手紙を書くと、自分の家のポストに入れて置きました。

 すると、どうでしょう? 手紙は無くなっていたのです。

 更にまた何日かすると、再び少年の家に手紙が届きました。「あの少女から返事が来たんだ!」少年は飛び上がって喜びました。


 こうして、二人の奇妙な文通がスタートします。

 次第に少年は少女に惹かれていき、彼女への愛を綴るようになりました。少女も彼の想いに応えると、自身の持つ不思議な能力の話を少年に告白します。彼は少女の苦しみを理解して、同意を示しました。

 二人は相手の性格も名前もよく知らぬまま、恋に落ちたのです。

 二人の手紙を毎日のように、少年の家のポストから少女の家まで運んでいたのは、やはり、あの妖精でした。

 妖精は、以前よりも笑顔を見せるようになった少女の姿を嬉しく思い、見守っていました。ですが、自分から離れていく少女の心に、寂しい気持ちも同時に抱え始めていたのです。


 文通が始まって数週間が過ぎたころ、少年の家に一人の女性がやって来ます。女性は少年に、「手紙の送り主は私です」と嘘をつきました。

 少年はその綺麗な女性に、一目で恋に落ちてしまいます。

「やはり君は、僕が思っていた通りの美人だった」

 少年はとても喜びました。

 間もなくお互いの愛を確かめあった二人は、キスを交わしました。


 けれど少年は、次第にとある違和感に気が付きます。

 数日置きに少女から届く手紙の文面は、以前と変わることなく寂しくも、切ない内容でした。来訪する度に幸せそうに笑う、あの女性が書いている物とは到底思えません。


 おかしいと感じた少年は、ある日女性を問質します。「君は本当は誰なの?」と。


 すると女性は、泣きながら謝罪しました。

 少年の事が好きで、少女のフリをして接近したことを。少年を騙していたんです、と告白します。

 それでも少年は、怒りませんでした。

 女性を許し、彼女の気持ちを受け止めた上で、「でも、君のことを好きにはなれない」とはっきり断ります。

 女性は泣きながら、少年の家から去って行きました。


 一方、少女の家にも異変が起こります。

 突然、少年からの手紙が届かなくなったのです。


 ──どうして?


 切ない気持ちで胸が張り裂けそうになりつつも、少女は手紙を送り続けました。雨の日も、風の日も、何通も、何通も、送り続けました。

 それでも少年からの返信は届かず、遂に心を閉ざしてしまった少女は、手紙を書くのを止めてしまいました。


 ──やはり変な力を持っている私の事なんて、誰も愛してはくれないんだ。


 実の所、少年からの手紙を隠していたのは、あの妖精だったのです。

 彼女──妖精は嫉妬していました。大好きな少女の気持ちが、少年だけに向いていくのを、見ているのが辛くて耐えられなくなっていたのです。

 それなのに、少年から少女の気持ちを引きはがしたはずなのに、妖精の心はちっとも晴れません。

 また笑って欲しいのに。私と話をして欲しいのに。どうして?


 少女が家の中に閉じこもるようになって数日が過ぎた頃、少女の家の扉が突然開きました。驚いた少女が顔を向けると、そこに立っていたのは、ずっと会いたいと焦がれていたあの少年。


「どうして、ここに?」


 信じられない、と呟くと同時に、少女は驚いてもいました。少年から読み取ることが出来た感情は、疑念でも失望でもなく、ただ純粋な、喜びだけだったのですから。

 

「私は、手紙の返信を止めてしまったのに」

「僕が出した手紙が運ばれていくのを、追いかけてきたんだ。そしたらこの家に辿り着いた。そうか。僕に手紙を書いてくれていたのは、君だったんだね」


 少女は恥ずかしくて、何も言えなくて、ただ無言で頷きました。


 少年は、少女の体を両手で抱きしめ言いました。「君のことが好きだ」と。少女の頬を堪えきれなくなった涙が伝うと、続けて少年が提案します。「パーティーをしよう」

「パーティー?」

 少女が不思議そうな顔で首を傾げると、

「確かに色々あったかもしれないけれど、それは、みんな、誰かを愛しているからこそなんだ。だからみんなで、パーティーがしたいんだ」と少年は声高らかに宣言します。


『──みんな誰かを愛している』


 この瞬間、少女は気が付きます。

 どうして、手紙が届かなくなったのか。

 手紙を隠し続けていたのが誰だったのか。

 少女は、物陰に隠れたままこちらの様子を窺っている妖精に、そっと目配せをします。

 大丈夫だよ。

 何があっても、あなたのことを嫌いになったりしないから。


「私はあなたを許します」


 全てを許すという少女の声に、妖精は物陰に身を潜めたまま泣きました。

 それは、辛い涙でも、悲しい涙でもありませんでした。この瞬間二人は、友情という名の強い絆で、再び結ばれたのです。


 それから数日後、少女の家でパーティーが開かれました。

 彼女の家には、少年と少女と妖精の他に、少女の両親と、何時かの女性の姿もありました。

 みんなで楽しく、二人の交際を祝いました。もう誰も、悲しい顔や辛い顔をしていませんでした。


『僕は、君の嘘を許す』


『私は、あなたの罪を許します』


『私は、彼に嘘を許されました』


『私は、彼女に心の穢れを許されました。二人はこれからもずっと親友。私はここに、誓いを立てます』


 みんなの笑顔を見ながら少女は思います。

 私もいつか、誰かに手を差し伸べられるような、強い人間になりたいと。少年のことを、親友のことを、ずっと変わることなく愛し続けると。

 少女の腕の中には──大事な人たちとの絆が、たくさん出来ていました。

 もう、決して少女は、ひとりぼっちなどではありませんでした。

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