Part.50『茜色』
読み止しの本に栞を挟み、先輩の顔を無言で見つめる。
先輩は私と目を合わせることなく、ベッドの脇に置いてある丸椅子を引いて座った。
「明日づけで、退院することになったよ」
白いカーテンの隙間から穏やかな陽が射して、彼は眩しそうに瞬きをした。
「そうですか。良かったじゃないですか」
笑顔でそう言ってみたものの、私の心はちっとも弾まない。彼の右腕を吊っていた三角巾も、暫く前に外れていたし、他には打ち身や捻挫程度しかなかったのだから、もうそろそろかなと思ってた。退院か──と伝えられた言葉の意味を噛みしめて、
先輩は、私の意識が戻った翌日から、一日たりとも欠かすことなく病室に通ってくれた。リレー小説の執筆を手伝う為に、明日香ちゃんがやって来る時間帯を除けば、空いている時間の殆どを私の傍らで過ごしていた様に思う。
「いい加減、自分の病室に戻りなさい」と、それこそ、何度も看護師に
何度言っても聞き入れない先輩に、看護師も
「事故の後、警察の人が俺のところに来た。事件性を疑っているんだが、情報が少なくて困ってる。そう前置きをした上で、事故の前後に不審な出来事が無かったか、そんな事を訊かれたよ」
ぼんやりと視線を中空に留めたまま、先輩が言った。実況見分という所だろうか。未だに彼は、私と目を合わそうとしない。
「だから、こう説明しておいた。あれは悲しい事故だったんです。横断歩道に居座る地縛霊が俺に手招きをした結果、吸い寄せられて事故が起きたんでしょう──と。あまりにもオカルト染みた話だったんだろう、警察の人は苦笑いしてたけどね」
「そうだったんですね」と答え、私は薄く笑みを浮かべる。「実を言うと、私のところにも来たんですよ。刑事さん」
私の所に来た刑事さんも、用件は概ね同じだった。幸いにも、事故直前の明日香ちゃんの動きに気付いた人は居なかったのだろう。だから私は、惚けたように、こう答えた。『先輩を庇っただけで、他には何も知りませんし見ていません』と。するとその刑事さんは、弱り果てた顔をしていたが。
「明日香ちゃんが苦手としている、幽霊のせいにしておくのも妙案ですね」
と私が呟くと、
「とんだ濡れ衣だけどな」
と先輩が軽く返す。
ようやく二人の目が合って、暫く顔を見合わせて笑った。
病室に、木魂していく笑い声。
なのに、また直ぐ二人の顔に沈黙が張り付いてしまう。
気まずい空気が漂い始めると、先輩が「そうだ」と取り繕うように明るい声を出した。
「咲夜が退院したらさ、今度こそ皆で八景島シーパラダイスに行こうぜ」
「無理ですよ。私の足、たぶん夏が終わるまで治りません。退院できるのも、夏休みが終わった後になるでしょう」
「そっか……でもさ、そう、そうだよ来年」
とそこまで言いかけたところで、先輩の話は淀んで消えた。
「来年じゃ部長が卒業してしまうから、どの道、今のメンツじゃ行けないのか」
肩を落とし、露骨に落胆の色を滲ませた先輩の手を、私は両手で包み込んだ。
「なに暗いこと言ってるんですか。確かに今年の夏は、もう二度と来ません。でも、先輩の夏はこれから七十回以上もやってくるんですよ?」
本来の年数に戻った彼の寿命に目を向け拳を握る。
「だからほら、笑顔! 笑顔! 笑ってくださいよ!」
脇腹の辺りを小突くと、「ああ、そうだな」と彼は恥ずかしそうに後頭部をかいた。
「咲夜を励ますつもりでやって来たのに、逆に励まされてしまうなんて、俺もまだまだだな」
そうですね、と私は笑う。笑いながら泣きそうになる。心の奥底に隠し続けている自分の罪が、後ろめたさが、暗い影となってじわじわと私を蝕み始める。
明日になれば、先輩は退院してしまう。このまま有耶無耶にしていたら、心が弱い私は永遠に謝る機会を逸してしまうことだろう。だからこそ今、話しておかなければならないんだ。
「先輩、明日香ちゃんのことなんですが」勇気を振り絞って声を張ると、「うん」と先輩が頷いた。
もっとも、事故が起こった経緯については、殆ど話し終えている。明日香ちゃんが私に恋愛感情を持っていた事。彼女の父親がリストラされた会社が、先輩の家の工場だった事。それらが恨みつらみとなって、彼女の心を蝕み続けていた事。そんな事だ。
あの日先輩は、
「細かい話なら、全部夢乃からも聞いている」
と前置きをした上で、こう宣言した。「夢乃が咲夜を好きだったことも、親父の会社のことも聞いた。そのことで夢乃が、どんなに悩んでいたかも聞いた。俺は言ってやったよ。『とんでもない事をしてくれやがって』とね。それでも俺は、夢乃のことを仲間だと思っているから。彼女が俺の事を許してくれるのならば、俺も彼女の事を許す」
やっぱり先輩は最高だ、と惚れ直す思いだった。でもね、
「もう一つだけ、伝えておかなければならない事があるんです」
意を決したように口にすると、彼は特に驚いた様子も見せずに私を見つめた。
「言ってみて」
「私、先輩に酷いことをしました。一生を掛けても償いきれるか分からない、酷い裏切り行為です」
大袈裟だな、と苦笑いをした後で、先輩は真剣な顔になる。
「夢乃と、したことか?」
「知って、たんですか」
拳を握って俯いた。心臓の音が、限界まで加速していく。
「ああ。成り行きから、どんな事をしたかまで、全部夢乃から聞いたよ」
「そうでしたか。あの……」
どこから話していいのか、上手く言葉が見つからない。次第に滲み始める視界。酷いことをされたのは先輩の方なのに、どうして私が泣くんだろう。やっぱり私は卑怯者だ……。
「わ」
その時先輩が、私の頭を抱き寄せた。彼の胸に顔を埋める格好になって、それ以上言葉を紡げなくなる。
「苦しかったんだろう? 悩んだんだろう? お前も、夢乃も」
「先輩?」
「もし、俺が咲夜と同じ立場に置かれたらって考えてみたんだ。そしたらさ、やっぱり俺も、咲夜と同じ事をしちゃうと思うんだよね」
「でも、そんなのたとえ話です。先輩にまったく罪はないし、私は確かに、浮気をしたんですよ……! 相手が女の子だから許されるなんて、そんな風には……」
言いながら、罪悪感が心の中に降り積もっていくよう。自信の無さは、次第に弱くなっていく語尾にも現れる。
「じゃあ咲夜は、夢乃とパートナーにでもなるつもりなの?」
真剣な顔で、先輩がそんなことを訊いてくる。
「今はほら、パートナーシップ制度というものだってあるんだし。同性だからといって、一緒になれない訳じゃない」
「そんな訳ないです。明日香ちゃんのことは勿論大切だけど、それとこれとは別問題です。だって私は」
肝心な所で言葉に詰まるなんて、やっぱり私は臆病だ。胸の奥が、焼けるような痛みをうったえている。お願いです神様。もう少しだけ私に勇気を下さい。
「こんなに、先輩のことが好きだから」
それは、自分でも滑稽に思える涙声。
先輩が、私の頭を抱き寄せた。
「ありがとう。それで安心した。咲夜が本気で夢乃のことを選んだらどうしよう、なんて心配してたんだ。でも、そんだけ真っすぐ気持ちぶつけられたらさ、言っていることが嘘だなんて思えないし、それに」
抱えていた頭を解放すると、正面から彼が瞳を合わせた。
「許さないわけにいかないじゃん」
「本当にお人好しなんですね、先輩は」
「かもな。でも、相手が男だったら許せなかったかも。例えばサカグチとか」
「サカグチって誰ですか?」
先輩がキョトンとした顔になる。
「ほら、お前にちょくちょく話しかけてる二年の」
「ああ、あの男子の先輩、そういう名前だったんですね」
「酷いなお前」と先輩が口元を手で覆って笑った。「最近変わってきたと思ってたけど、もっと他人に興味持て」
「分かりました。じゃあ、サカグチさんのこと、もっと色々調べてみます」
「ごめん、やっぱりそれはダメ」
なんて、途端にヤキモチを焼く先輩。
ひとしきり笑ったあとで静かに笑みを引き取ると、窓から差し込んでいる光がすっかり茜色に変わっているのに気が付いた。
床に長く伸びた二人の影。
横顔のシルエットがゆっくりと近づいて、やがて静かに重なった。
抱きしめてくれる彼の体温は、今日もちょっとだけ高めで安心する。
ずっと抱きしめていて欲しい。離れたくない。そして……私は思う。早く、退院したいなあ、と。
みんなが待っている部室に早く行きたかった。また小説が書きたかった。前よりも真面目に授業を受けようと誓った。登校するのが憂鬱な日だってあったのに、そんなことが信じられないくらいに早く学校に行きたかった。
こんな風に私が変われたのも、きっと先輩のおかげ。だから自分の想いを、もう一度言葉にして伝えなくちゃいけない。
「咲夜──」
「はい、なんですか。先輩」
「店長に言われたよ。君が俺を庇ったことで、トラックとぶつかった時の衝撃が分散されたから、二人とも助かったんだと。俺一人でぶつかっていたら、恐らく助からなかったと思う。俺と夢乃のこと、護ってくれてありがとう」
視界が滲んで唇が震えた。もはや、「はい」と掠れた声で呟くのが精一杯。それでも、漏れ始めた嗚咽の中、必死に声を絞り出した。
「私もすぐに退院します。待っていてくださいね」
「ああ。でも寂しい思いはさせないよ。また毎日、お見舞いに来るから」
「先輩──」
私が紡ごうとした言の葉は、先輩によって遮られる。気がつくと彼の指先が、私の唇に添えられていた。
「先輩はもうダメ。そろそろちゃんと名前で呼んで。じゃないと……絶対にそのまんまだもん、お前」
意地悪なんだから……私の顔が、更に強く熱を帯びる。
「なんだか、恥ずかしいですよ」と形だけの不満を述べた後、ちょっとだけ勇気を出してみた。
「京、愛しています」
彼からも「咲夜、愛してる」の言葉が返ってきたその時、私の心中に溜まっていた澱みが全て
辛いことが沢山あったけれど。
これからも、一杯あるだろうけれど。
彼と一緒なら乗り越えていけると思った。いつまでも私のことだけを愛して欲しいと願った。
「それと先輩、じゃなくて、京」
「うん、分かってる」
彼は私を抱き寄せると、もう一度キスをした。カラカラカラ。夕食の配膳が始まったのだろうか。廊下の方からカートを押す音と複数の足音が混ざって聞こえてくる。ぼんやりとした思考の中、突然病室の扉が開く。
「わわっ」
看護師さんが入ってきたのに気が付くと、私と京は飛び跳ねるようにして離れた。
「あら」と看護師さんが目を細めた。「お楽しみのところ、邪魔をしてしまったかしら?」
「いや、まあ。別に俺は構いませんが」
と恥ずかしそうに答える彼。
そんな下手なリアクションじゃ、疚しいことしてましたって認めてるようなもんでしょう……? と思わず苦い顔になるが、まあ、それも京らしいかな、と私は思う。
皮肉の代わりに漏れた私の含み笑いに、釣られるように彼も笑う。静かに響いた二つの笑い声が、ヒグラシのカナカナと混じり合って病室の空気に浸透していった。
恋情と嫉妬の狭間で起こった不幸な事件を見守っていた夏も、もう間も無く、終わろうとしている。
そして、先輩と出会うことで始まった、寿命が見える私の──物語も。
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