Part.48『少女たちの懺悔②』

 顔を俯かせたまま入ってきた彼女の瞳は、隠しようがないほど瞼が腫れて赤くなっていた。先ほどまで泣きはらしていたことは明白だった。

 三日経過してなお、ついていない心の整理。抱えている後悔の大きさが表情から透けて見えると、用意していた台詞の全てが吹っ飛んだ。私は──どんな顔をして、彼女を迎えたらいいのだろう。

 覚束ない足取りでベッドの傍らまでやって来たものの、彼女の視線は床に落とされたままで一言も発しようとしない。憔悴しきっている様子が、手に取るように分かった。


「明日香ちゃん……」


 私の方から声を掛けると、弾かれたように、彼女は両手で顔を覆い隠した。


「ごめんなさい……」


 ようやく紡がれた彼女の第一声。風邪をひいているかの如く掠れた声は、静寂が満ちた病室の中でも拾い上げるのがやっとなほど。


「咲夜の目が覚めて、本当に良かった」

 緩やかに波打った、艶のある長い髪がはらりと落ちる。

「私ね、なんて言って謝ったらいいのか、わかんないの……」

 顔を覆った両手の隙間から、大粒の涙が零れ落ちた。

「凄く悪いことをしたって分かっているはずなのに、どうやって償ったらいいのか、全然分かんないの」

 悲哀と嘆き。嗚咽混じりの声が、止め処なく漏れ聞こえる。

「ううん、違う。そうじゃない」

 彼女が顔を上げる。頬を伝う涙を拭おうともせず、首を横に振った。

「もう、取り返しがつかない事も、償う方法なんてない事も分かってる。私が自分の罪と上手く向き合えないだけ。ゴメンね咲夜……」


 そのまま蹲ると、ベッドの端に突っ伏してより一層強く泣いた。

 彼女の頬を撫でてあげたいのに、もどかしいほど体がいうことを利いてくれない。なんとか左手だけを布団の外に出すと、泣いている彼女の髪の毛にそっと触れた。

 明日香ちゃんの肩がびくんと跳ねる。それはまるで、傷口に直接触れた時のように痛々しい反応で。


「明日香ちゃん、顔、上げて。私は知ってるから。明日香ちゃんがした事は、確かに悪いことかもしれないけど、それは、私のことを想っているからだって、ちゃんと分かってるから。だから私は、明日香ちゃんを許す。だから、顔を上げて──」

「無理だよ!」


 搾り出した私の声を、掻き消す程激しい口調で彼女は叫んだ。


「ちゃんと責めてよ……。私のした事は悪いことだって、ちゃんと怒ってよ……!」


 ここで初めて、二人の視線がぶつかった。普段、あんなに輝いて見える彼女の瞳も、強い自責の念を映して、くすんで目に映る。


「私、恨んでたの」


 地を這うような彼女の声。それは、ある程度予測していた台詞だったものの、頬を打たれたような衝撃が走る。


「私のお父さんが仕事を辞めたのは、先輩の父親のせいだったから」

「先輩の、父親のせい……?」


 追い討ちをかけるように出てきた更なる新事実に、気持ちの整理が追いつかなくなる。


「今泉って名前を聞いた時から、もしかして、とは思った。でも、そんなの偶然の一致だと自分を言い聞かせてた。二つの情報が線となって繋がったのは、三田電気工業と今泉先輩の会社の間で取り引きの話があったと聞いた後でかな。先輩の父親が経営している工場が、私のお父さんがリストラされて訴訟騒ぎになった、今泉電装だったの」


 驚きから、明日香ちゃんの髪の毛をいていた手を、力なく下ろした。

 全然、知らなかった。

 先輩の父親が経営する工場と、訴状騒ぎになりもめた相手というのが、他ならぬ夢乃家のことだったんだ。店長から聞かされた時、大事な話だと考え胸に留め置いていたはずなのに、気がつけば完全に失念していた。

 私が明日香ちゃんの告白に首を振ったから。彼女の好意を踏みにじってしまったから。そんな自責の念が、今まで私の心に沈むおりとなっていた。どうしたら彼女の傷ついた心を癒せるだろうかと、そんな事ばかり考えていた。

 それが、どれだけ傲慢で浅はかな考えであったのか、私は今、痛烈に思い知った。

 彼女が負っていた心の傷は、私が思うよりもっと深くて大きかった。


 父親が今泉電装をリストラされた後の話を、たどたどしく明日香ちゃんが紡いでいく。

 これは不当解雇に当たるとして、夢乃家は激しく今泉電装を糾弾した。だが不当解雇は認められず、結局示談が成立。トラブルの期間が約一年にも及んでいく中で、彼女の両親の仲は次第に冷え込んでいった。


「仕事を辞めてから、私のお父さんは変わってしまった。碌に仕事も探さなくなって、昼間から酒ばっかり煽るように呑んで、その事をお母さんが咎めると腹いせに殴って。機嫌を損ねると暴力ばかり」


 その後父親は、持っていた調理師免許を活かして飲食店の経営を始めたものの、こちらも順風満帆とはいかなかった。伸びない客足。膨らむばかりの借金。父親が店を閉めがちになると、両親の間で夜毎繰り返される口論。父親の振るう暴力が苛烈を極めると、次第に夫婦間で別れ話が持ち上がる。


「でも、別れ話ですらも、円滑には進まなかった。私の親権を巡って、両親の間で更なる対立があったんだよ」


 母親は明日香ちゃんを引き取って、実家に戻るつもりだったらしい。けれど、父親は断固として首を縦に振らなかった。別れ話の拗れから、より一層エスカレートしていく家庭内暴力。

 ごく自然に、高橋家の事情を思い出した。


「寝室でね。ある日、お母さんが私の首に手をかけたの。私は冗談だと浅く考え笑っていたんだけど、思えばあれが、お母さんが私に送った最後のSOSだった。あの時私が、お母さんがどれだけ追い詰められていたか、気付いてあげられれば」

 彼女はまた、顔を逸らした。

「お父さんの暴力はその後も止むことはなかったし、両親の間の深まった溝は、結局最後のあの日まで埋まることはなかった」

 息継ぎを繰り返す、苦しそうな喘ぎのような声だった。

「私の家庭が壊れ始めた発端は、確かにお父さんのリストラと訴訟騒ぎにあった。でも……それはしょうがない事なんだよね。会社という組織には、様々な事情があるんだから」

 彼女は自分の顔を両手で覆い隠した。

「私が……」

 再び漏れる嘆き。

「全部、悪いの。私が両親の間に立って支えになってあげられれば、きっとあんな結末にはならなかった! 私は、ただの弱くて卑怯な子供だったから、夫婦喧嘩を繰り返す二人の間に割って入る勇気がなくて、恐怖で足が竦んで、ずっと見て見ぬ振りを続けていた! だからお母さんは、痛みに耐えられなくなって自ら命を絶った。私がお母さんを殺したも同然なんだよ!」


 彼女は今日一番強い声で叫ぶと、上げていた顔を再びベッドの上に沈めて泣いた。「それに……」となおも続ける。


「今度は、先輩にも嫉妬した。居なくなれば良いって思った。私にとって唯一の心の拠り所だった咲夜を、彼が奪ったように感じていたの。咲夜と先輩が二人で下校して行く姿に、二人で楽しそうに笑いあう姿に嫉妬していたの。咲夜が私には見せない表情をしている時にね、気付いちゃったの。ああ……そうか、私じゃ先輩には勝ち目が無いんだって。先輩さえ居なければ──両親は喧嘩しなかった。お母さんは死ななかった。咲夜は私だけを見てくれた。そんなことばかり考えていた」


 彼女は首を千切れんばかりに左右に振って、それから、全てを吐き出す勢いで叫んだ。


「でも、それら全ては私の思い違い。私の我が儘。そんなこと、頭では理解できてたはずなのに! 気が付けば先輩の背中を押してて、二人とも血塗れになってて……」


 全部、私が悪いの!

 私が!

 私が!!

 地の底から湧き上がってくるような悔恨かいこんの嘆きが、病室の空気を激しく震わせる。明日香ちゃんの口元は漏れる嗚咽で歪み、瞳孔が開いた瞳に、何が映っているのかも定かじゃない。

 父親がリストラされ、母親が自殺する遠因を作り、おまけに初恋の人まで奪われた。明日香ちゃんが今泉家を恨んだ気持ちも辛い気持ちも痛いほどに分かる。同時に、私にはとても抱えきれない痛みだってことも。


「明日香ちゃん」


 悪事を咎められた子供のように、彼女の肩がびくっと震える。

 左手を目一杯伸ばすと、彼女の頬を伝っている涙を指先で受け止めた。


「もういいよ、明日香ちゃん」

「咲夜……」

「明日香ちゃんが私の事を好きなんだと知ってから、ずっと考えてたの。私は、明日香ちゃんのことを、苦しめ続けていたのかもしれないって。私の能力の話を信じて受け入れて、ずっと気遣いをして支えてくれてたのに、私は明日香ちゃんの好意に甘えるばかりで、本当の気持ちを知りもせずに、ずっと心を抉ってたんだろうなって──でもね」


 頬に添えていた手を静かに下ろすと、彼女は両の手のひらで、慈しむように私の手をしっかりと握った。

 流石に、お人好しが過ぎるだろうか。例え親友とは言え、相手は恋人の命を奪おうとした相手なのだ。でも。それでも。目の前でこんなに弱っている親友を責めることなんてできるはずがないし、きっと先輩だって同じ選択をすると思うから。


 ──あの時私が声をかけていれば、母親が死ぬタイミングを遅らせられたかもしれない。


 それでも君は、いつだって私の側に居てくれた。私の事だけを、信じてくれた。


 ──あの時私が声をかけていれば、今とは違う彼女の未来があったのかもしれない。


 それでも君は、自分の気持ちをぐっと隠して、私のために駆け付けてくれた。


 だから今度は、私が──君の罪を許すよ。


「分かったの。それですら私の思い上がりだって。明日香ちゃんは私が思うよりももっと深い闇を抱えて、ずっと苦しんでいたのにね。私は何にも知らずに寄りかかるばかりで、中途半端に期待をさせ続けて。……だから、余計に苦しめてたのにね」

「うん」

「だからさ、さっきから明日香ちゃんを励ます言葉を色々と考えてたんだけど、上手く言えそうにないんだ。だから私から伝える言葉。シンプルに一つだけ」

「うん」


 明日香ちゃんが、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。



「私のことを、好きになってくれてありがとう」



 ずっと私を支え続けてくれた大好きな親友に、ようやく言えた気すらしてしまう心からの感謝の言葉。明日香ちゃんは、いつものように花のような笑顔を見せて、「うん」と再び頷いて、けど──その笑顔も直ぐに剥がれ落ちて歪んでしまう。


「わっわっ、泣かないでよ、明日香ちゃん。私は明日香ちゃんに泣きやんで欲しくて、感謝の言葉を伝えたのに」

「バカ」


 それは、殆ど泣き笑いと言ってよい表情で。


「こんなに嬉しいのに、泣かずに我慢するなんて無理だよ」


 言葉にするのも難しいのか、明日香ちゃんはただ、笑いながら泣いた。


「明日香ちゃんのお母さんを救えなかったことを告白したあの日も、明日香ちゃんは私のことを許してくれたから。だから今度は、私が明日香ちゃんの罪を許す。私がずっと支え続ける。その──やっぱり恋人にはなってあげられないけれど──いつまでも側に居てあげる事もできないけれど──それでも、私は明日香ちゃんの事を想い続ける。だって明日香ちゃんは、どんなことがあっても、ずっと私の親友だから」


 明日香ちゃんは身じろぎ一つせず、私の話に耳を傾けていた。私が顔を向けると、私の瞳と、彼女の澄んだ紫紺の瞳が正面から向き合った。


「だから、これからもずっと──私の友達で居てくれますか? 嫌いにならないで、くれますか?」

「……うん」


 必死に搾り出すような声で、ぽつりと彼女が呟いた。それからもう一度、深く頷いた。


「うん」

「これからは明日香ちゃんに寄りかからなくて良いように、私も強くなるからさ。また一緒に学校行こうよ。また二人で笑い合おうよ」


 彼女は無言で何度も頷いた。両手をしっかりと絡めて、お互いの温もりを交し合う。


 大丈夫。


 これまでも、そしてこれからも、二人は友達だから。

 君が空を見上げて涙を流すときは、私が黙って側に居るから。

 辛い時、君が塞ぎこんだ時も、私がそっと、側に居るから。

 どんな時でも君の側に、私が居るから。

 決して君を、一人ぼっちになんてしないから。

 高校を卒業しても、君のことを友達だって、必ず思うから。


 この先、二人がたとえ離れ離れになったとしても、遠い空の下、私は必ず、君のことを思うから。


 夕暮れ刻のオレンジ色の光が、病室の中を茜色に染め上げていくのをぼんやりと眺めつつ私は思った。久しぶりに、フルートを吹きたいと。

 いつの間にか私たちが忘れてしまった純粋さとか過去を取り戻すように、もう一度、彼女と演奏をしたいと思った。きっと今でも、彼女のトランペットの腕前は衰えていないだろう。心配なのはむしろ、私は今でもフルートを吹けるかな、というそっちの方。それでも二人で演奏がしたかった。思い出作りとかそんなつもりはないけれど、兎に角二人で何かがしたかった。中学の時の課題曲、どれがいいかな、と私は思う。退院したら、三枝先輩の所に行って、フルート借りてこなくちゃな。その時になって恥をかかないように、隠れて練習をする方法、何か探さないとな。

 とても楽しい気持ちだった。早く退院して、自分のやりたい事をおもいきりやりたかった。


 明日香ちゃんの頬を伝い落ちる涙が、夕陽を浴びてキラキラとした輝きを解き放つ。まるで宝石のように輝いて見えるのは、きっと彼女が本気で自分の罪と向き合い、生きている証だから。

 私はそう、思った。

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