Part.47『少女たちの懺悔①』
身体が軽く感じる。浅い海の底を漂っているような、ふわりとした感覚が全身を包み込んでいる。手を伸ばせば水面から手が出る。そんな感じが確かにするのに、まだこのままでいいや、と思う自分が居た。
幼い頃から、他人の目が怖かった。
侮蔑。蔑み。嫌悪。恐怖。負の感情を孕んだ視線を向けられることが、堪らなく怖かった。
だからもう少しだけ、このままでもいいよね。瞼を閉じている間だけは、現実を忘れられる。こうして眠っていれば、ずっと幸せな気持ちでいられるのだから。
「咲夜」
誰かが私を呼んでいる。心地よい響きが遠く聞こえる。
そうだ。私は寝ている場合なんかじゃない。
声に意識が呼応した瞬間、横になっている身体の重さを自覚した。重力の存在を感じ始めると、背中に違和感のある固さがあった。ああ、ここは私の部屋じゃないんだ、と認識が思考に追いつく。眠りでも覚醒でもない境界部分を彷徨っていた意識が、寝台の固さによって覚醒方向に引き上げられる。
そして、私は目覚めた。視線を巡らして、自分が居る場所の景色を確認する。
白い天井。
白い壁。
部屋の窓に設置されたカーテンの隙間から差し込んでいるのは、柔らかなオレンジ色の光。光が当たっている方角の壁は、壮麗な茜色に染まっていた。おそらく、時刻は夕方だろうか。
左腕に点滴の管が二本刺さっている。管の先は、茜色の光を鈍く反射する、透明のバッグに接続されていた。
そうか、ここは病院なんだな、と遅れて気がついた。
その時、未だ
──先輩は、どうなったの!?
ぎくりとした弾みで反射的に体を捩ると、途端に叫び出したくなるほどの痛みが全身を駆け巡った。
「あっ……」
視界が再び暗くなり、冷や汗が額に滲んだ。
体に上手く力が入らない。肘と手指は問題なく動かせそうだったけれど、下半身、とりわけ膝から下の感覚が遠い。
「な、にこれ……?」
疑問が口をついて出たその時、病室の扉が静かに開くと、心配そうな顔を覗かせた母親と目が合う。
「……良かった、ようやく目が覚めたのね。このまま意識が戻らなかったら、どうしようかと心配しちゃった」
母親は安堵の声を漏らすと、憔悴しきった顔でベッドの傍らまでやって来た。
「お母さん。今って、何時?」
珍しく涙混じりの声だな、と思いながら、気になっていることを訊ねてみる。
「ん、時間? そうね、十六時を少し回った辺りかしら」
起き上がろうとしてもう一度体を揺すった私の肩に手を置き、母親が諭すような口調で言った。
「まだ無理に動こうとしちゃダメ。あなた、両足を骨折してるんだから」
「両足……?」ホントに? と訊こうとして止めておいた。
全身のそこかしこから襲ってくる鈍い痛みと、恐らくはギブスで固定されてるのだろう。全く動く気配のない両の膝下を認識すると、母親の言葉に嘘や冗談が含まれていないことは理解できた。
「それだけじゃないのよ。他にも骨折箇所があるし、頭部にも大きな裂傷があるの。それはそれは、酷い出血だったんだから。MRIの結果、何も異常がなかったから良かったものの、まったく、生きた心地がしなかったわよ」
母親は両手で体を抱くと、やや大袈裟に身震いをしてみせた。
彼女の言葉で、頭にも包帯が巻かれていることを認識する。視界が少しぼやけて見えるのは、眼鏡を掛けていないせいか。これだけの酷い怪我。きっと、事故のとき一緒に壊れてしまったのだろう。
「お母さん……先輩はどうなったの?」
「先輩?」
母親は首を傾げると、記憶を辿るように天井を見上げた。
「……ああ、あなたが庇った男の子のことね? 大丈夫よ。まったく命に別状はないから。彼なら右腕の骨折だけで済んだみたい」
良かった、と安堵しかけた私の心は、直ぐに別の心配事と差し替えられる。
「右腕……どうしよう、私」
言葉の意味を認識した途端、目の前が真っ暗になった。
先輩の夢は小説家になる事なのに、寄りによって右腕なの? 小説家という職業に、右腕が必須とまでは思わない。でも、そんなに楽天的でいいのだろうか。万が一後遺症が残ってしまったとしたら、色んな不都合が生じてくる事は想像に難くない。
最悪の可能性に思い至った瞬間、私の頬を涙が伝う。母親は私の目元を指先で拭うと、気遣うような口調で言った。
「そう。咲夜は、あの子のことが好きなのね」
母親の言葉に驚いて顔を向けて、うんと頷いた直後、止め処なく涙が溢れてきた。心中で膨らみ始めた不安を認識すると、溢れ出す感情を抑えられなくなった。
そのまましばらくの間私は泣き続け、母親は黙って見守ってくれていた。
「でも、そんなに心配しなくてもきっと大丈夫よ。彼のことが好きだから、咲夜は身を
「うん」
「庇って怪我をしたことに、後悔はないのでしょう?」
「……うん」
「だったら、涙を拭って胸を張りなさい。あなたが命を懸けて示した勇気、ちゃんと神様が見届けてくれてるから。絶対に悪い結果にはならないから」
「うん、そうだね。分かった」
涙がとまり、ようやく嗚咽も静まってくる。私が落ち着くのを見越したように、母親が再び口を開いた。
「夢乃さんがね、あなたが目覚めるのを、ずっと待ってくれているの。これから、呼んできても良いかしら?」
「明日香ちゃんが?」
明日香ちゃんが、私の事を待っていた。
母親が告げた言葉の意味を噛み締めて、どくんと心臓が震えた。
そうだ、今日は、何日なんだろう? あれからいったい、何日経っているんだろう……。
「ねえ、お母さん。事故があった日から、どれ位の時間が経っているの?」
病室の中にカレンダーを探したが見つけられず、結局、母親に尋ねた。
「自分より、他人の事に気を回せるなんて、案外と冷静なのね。……というか、最近変わったわね、あなた」
少し驚いたようで、同時にちょっと嬉しそうな声音で母親が笑う。
「今日が三日目の夕方だから、二日と半日程眠ってたのかしらね。ずっと意識が戻らないから、みんな凄くあなたの事を心配してたのよ」
心配していた、私を? 予想だにしていなかった言葉に、純粋な疑問が首をもたげた。
「私も、お父さんも、もちろん──夢乃さんも」
お父さんも、お母さんも。
「……そうなの?」
返答の意味を噛み締めたあとで、ぽかんとした顔で尋ねたら、流石に怒ったような目で睨まれてしまった。
「当たり前でしょ?」
そうなんだ、と私は呟いた。いよいよ母親が呆れ顔になる。腰に手を当て、「やっぱり、相変わらずなのかしら?」と今度は愉快そうに笑った。
「以前よりも丸くなって、他人の声に耳を傾けるようになった、とせっかく感心してたのに」
かつての私は、そんなに尖っていたんだろうか、と思った後で、全然周りが見えていなかったんだろうな、とようやく気がついた。
──大丈夫。お母さんが、力になるから、ね。
それは、幼い頃、母親にかけられた言葉。
そうだ。両親は、私が思う以上に、私の事を気遣ってくれていた。だからこそ私を医者に診せたし、カウンセリングも受けさせた。両親は私の能力の事を疎ましく感じていたのでも信じていなかったのでもなく、ただ、心配をしてくれていただけなんだ。
その証拠に、寝不足なのか母親の目の下には酷いクマができているし、よく見れば瞼だって腫れている。病室の隅には持ち込んだと思われる折りたたみ椅子もあった。たぶん、父親が座るためのものだろう。
「本当に、ごめんね。お母さん」
母親の顔が憔悴しているわけに遅れて思い至り、謝罪の言葉が口をついて出る。母親は特に返事はせず、笑みだけを浮かべた。
それから、「ちょっと待っててね。夢乃さん呼んでくる」と言葉を残して、病室を出て行った。母親の姿が扉の向こうに消えた後、頭の中で状況を整理していく。
狂気を孕んだ顔で、先輩の背を押した親友の姿。
明滅を始めた先輩の寿命。気が付くと私の足は動いていて、直後に全身を襲った耐えがたいまでの激痛。
忘れかけていたあの日の記憶が、しっかりとした輪郭線を伴い、鮮明に蘇ってくる。
先輩を庇った結果、私が重症を負ったことは最早どうでもいい。いや、本当は良くないのだろうけど、その他諸々の問題に比べたら、きっと些末もの。
明日香ちゃんには、明白な殺意があった。彼女がした行動は、決して許されるべきではない。
それでも私は、彼女を咎めようという気になれなかった。彼女を凶行に駆り立てた背景にあるものは、私に対する愛情であり、先輩に対する妬み嫉み。
明日香ちゃんが抱え続けていた苦しみを理解したつもりになって──でも、実際は何もわかっていなくて。結果として、彼女の心を抉ってしまった私にも一因があるのだから。
やがてカラカラと音を奏でて病室の扉が開くと、明日香ちゃんが姿を現した。
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