Part.46『悪夢』
夢を見ているのかな、とぼんやり思う。
小学校六年生の頃、修学旅行で行った場所の景色が断片的に見えた。
行き先は東京方面。旅費が高額にならないように、慌ただしく移動することで生徒に負担をかけないように、とさまざまな観点から計画されたであろう旅行は、一泊二日の日程だった。
中禅寺湖の水が高さ九〇メートルもの岸壁を落下する様に、自然が作り出す景色の雄大さを感じ、日本を代表する世界遺産「日光の社寺」の壮大さに胸を打たれた。……はずなのだけれど、あまり覚えていない。
やがて場面は、初日の夜に泊まった宿舎に移る。
満月が、とても綺麗な夜だった。
夕食を終えたあとで、大浴場に行こうと考えた。一日の疲れを癒すには、やはりお風呂が最適なのだ。、
そう考えて、明日香ちゃんの姿を探したのだが、気がつけば彼女はどこにもいない。宿舎の中を歩き回っても無駄で、彼女がいるはずの客室に行くと、「夢乃なら、とっくに部屋を出て行ったよ」と彼女と同部屋のクラスメイトに告げられた。
もしかしたら、彼女はお風呂にいるのかもしれない。
私は一人で大浴場を目指すことにした。他に誰のことも誘わなかったし、誰も私を誘ってはこなかった。
だが、それはいつものことだった。他人の寿命を気にするあまり、視線をさまよわせてしまう癖があった私は、このときすでに、クラスメイト、とりわけ女子生徒の間で孤立を強めていたから。
ところが、大浴場にも明日香ちゃんの姿はなかった。
では、どこにいるのだろう、と思うがしょうがない。ひとりぼっちで服を脱いで、洗い場で体を洗って、大きな湯船に一人で浸かった。湯加減はちょうどよくて心地よい。
私の周りには誰もいなかったが、浴場が無人だったわけではない。私の他に、同級生たちが何人かいた。脱衣所にも、洗い場にも。数人でグループを形成して、楽しげに
浴場の中で、ひとりぼっちだったのは私だけだった。
「ほう」
疲れなのか、落胆からか、自分でもよくわからないため息が落ちる。ため息同様、落とした視線の先にあるお湯から、湯気がふわっと立ち昇る。
この湯気が、私の存在ごと覆い隠してくれたらいいのに、と馬鹿げたことを考えた。私の存在など、歯牙にもかけない彼女らは、こちらを気にする様子もなく騒ぎ続ける。
「まわりに迷惑だよ」
聞こえないように、ひそめた声で陰口を叩いた。
そんな自分がひどく惨めで、鬱々とした感情にとらわれ始めた頭を左右に振った。
大丈夫、辛くない。
寂しくない。悲しくなんかない。
そう、こんなのはいつものこと。曇っていた空から雨が降ってきた。その程度の感覚。
お互いに、不干渉を貫いているだけなのだから。
浴衣に着替えて、宿舎の中をまた歩いた。喉が渇いたので、ジュースがほしくなっていた。
自動販売機でオレンジジュースを買うと、廊下を歩きながら栓を開ける。
とてもおいしい。
ふと、窓から差し込んでいる月明かりに誘われて足が止まる。廊下の窓を、少しだけ開けてみる。
視界の先に、雲ひとつない星空が広がっていた。空の中心にある満月から放射状に淡い光が広がって、深海のごとき色の空に、見事なまでのグラデーションを描き出していた。
「綺麗」
ため息混じりの感嘆がもれる。
そのとき吹いた風が、肩口まである私の髪を優しく撫でた。風呂上りの火照った頬に、心地よい清涼感が駆け抜けた。
涙だ。
どうして、私泣いているんだろう。
何が悲しくて泣いているんだろう、と考えているうちに、ひとつの理由に思い至った。
私は悔しかった。
幼いころに見た月も、今、こうして見上げている月も、なにひとつ変わっていないはずなのに、自分を取り巻く環境は、ここ数年で目覚ましく変わってしまった。そのことを認識すると、自分の惨めさが浮き彫りになってくるようで、たまらなく悲しくて悔しかった。
いや、正確にはちょっと違うのかな。
なにもかも変わらずにはいられない。本当に惨めなのは、変わってしまった環境にうまく順応できていない自分なんだ。
そんなことはわかっている。
わかっているのに、どうにもできない。
顔を背け続けてきた現実を直視すると、悲しみは臨界点を超えて、心の器から易々と溢れ出した。大好きなお風呂に浸かったはずなのに、私の心は癒されることなく傷ついていた。
誰も見ていないかな……?
きょろきょろと辺りを見て、人の姿がないのを確認してから声を上げて泣いた。
長年堰き止めていた悲しみがじくじくと染み出してくるように、拭っても拭っても、涙は次々と零れた。
いったいどれだけの時間、私は泣いていたのだろう。
不意に、誰かの手が肩に乗って、とたんにで我に返る。驚いて振り向くと、ジャージ姿の明日香ちゃんがそこにいた。
「明日香ちゃん?」
瞼、赤くなっていないかな。泣いていたのを見られたのかな、と思うと恥ずかしくなって、窓の外に視線を戻した。
しかし、彼女は何も答えない。
肩の手を一度離すと、背中から私の体をぎゅっと抱きしめてきた。突然のことに驚いたけれど、黙って身をゆだねた。すごく暖かい。お腹にあった彼女の指先が持ち上がって、私の胸を優しくさする。こそばゆい感覚に体がぴくんと跳ねて、「やだ、くすぐったいよ~」と彼女の手に触れ、そして驚いた。
背中から伝わってくる温もりとは対照的に、彼女の手は、氷みたいに冷たかったから。
「手が、ものすごく冷たいよ。どうしたの……?」
彼女は、お風呂にまだ行っていないのだろうか? こんなに手が冷たくなってしまうまで、いったいどこにいたのだろうか?
そのとき、明日香ちゃんが私の耳元で何かを囁いた。でもその声は、指先同様ひどく震えていて、何を言ったのか聞き取れなかった。
震えているのは指先だけじゃない。彼女の体もまた同じだった。
らしくないその反応に、そうか、とようやく理解する。震えている理由は、寒さだけじゃないんだ。明日香ちゃんも、私と同じように泣いているんだ、と。
彼女が泣いてしまうのは、無理もないこと。
数ヶ月前に、彼女の母親は自殺してしまったのだから。心の傷が完全に癒えないまま旅行に参加したであろう彼女は、ずっと俯き塞ぎ込んでいて、誰とも会話をしていなかった。
泣いている姿を誰にも見られたくなくて、彼女も一人で浴場に向かったのかもしれない。そのあとも、きっとひとりぼっちでいたんだ。
私と、おんなじなんだ。
「ねえ、咲夜。もう一度、お風呂に行こう」
その声は、さっきと同じようにかすれていたけれど、今度ははっきりと聞き取れた。
私は彼女の手をしっかり握り締めて、「うん、行こう」と頷いた。
* * *
不意に、場面は切り替わる。
場所は横浜市中心部にある高層ビル街。
顔を上げると、直視できないほど眩い太陽が、青の中心に浮かんでいた。
閃光のごとく降り注いでいる日差しが、アスファルトをジリジリと焼き焦がしている。季節は夏真っ盛りだ。
これが何年前の記憶なのか。どこの光景なのか。私は今でも鮮明に覚えている。むしろ、忘れられるはずなどない。
バスに乗って横浜駅の周辺を訪れた私は、母親に手を引かれながら近くのデパートを目指していた。今年一番の暑さに額は汗ばんで、背中も濡れていて不快だった。
それでも、私の心は弾んでいた。こういった、暑い日に食べるフルーツパフェのおいしさは格別なのだ。早く食べたいな。ささやかな幸せに胸を膨らませていたそのとき、数字の『一』が視界の隅に見えた。不安を煽ってくる数字が。
――いた。寿命一年の人物。
対向車線側の歩道を歩いているその女性は、白いワンピースを来た三十代と思しき美人だ。背中まで伸ばされた髪はゆるやかに波打っていて、太陽の光を反射して艶やかに輝く。
私は彼女の立ち居姿に目を奪われる。
その不自然さに、思わず息を呑む。
なぜ、彼女は今日、誕生日を迎えた娘と一緒じゃないのだろう?
なぜ、彼女の瞳はあんなにも虚ろなのだろう。焦点が合っていないように見えるのはなぜだろう?
なぜ、彼女は目の前のビルに入って行ったのだろう?
そして――彼女、明日香ちゃんのお母さんの頭上に浮かんでいた数字は、どうして『一』なのだろう? この間みたときは違ったのに。
だが、私は何もしなかった。このときすでに、自分の無力さを薄々と察していたから。
その人の死因について、知る力がないことを。私の忌々しい能力の話を、信じてくれる大人が誰一人としていないことも。そう、私の両親ですら。
だから、私にできることなんて何もないのだ、と。
明日香ちゃんの母親から意識を剥がすと、楽しいことだけを考えることにした。フルーツパフェ、フルーツパフェ──。
「本当ニ、ソウナノカ?」
心の中に、誰かの声が割り込んでくる。
そうだよ? 私に他人を救う力なんてないんだもの。私の能力は、ただ人の寿命が見えるだけ――。
「ホウ? ソレデハナゼ、今ハ、手ヲ差シ伸ベヨウトシテイルンダ?」
今は今。このときはこのときだよ。だって、この当時の私は、自分の能力の有用性について、何ひとつ把握していなかったんだから。
「使イ方ヲ、把握シテイナカッタ? 物ハ言イ様ダナ。知ロウトシナカッタダケノコトダロウ? 厄介事カラ目ヲ背ケテ、見テ見ヌフリヲシタノダロウ?」
違うよ、そんなんじゃないよ。小学生の頃の私は本当に無力だった。あの頃の私に、できることなんて何もなかったんだもの。
……でも、そんなの言い訳だよね。だからこそ、いま私は――。
突然視界が真っ赤に染まる。
これは何? そうか、血だ。アスファルトの上に広がっていく血だ。彼女の母親の体から、止め処なく溢れ出てきた血が生み出した海だ。私が目を背け、見過ごしたことで救えなかった命が散っていく瞬間の映像だ。
あ……私が……?
「ソウダ、オ前ガ彼女ノ母親ヲ、見殺シニシタンダ!」
「いやぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
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