　遠くから聞こえてくる目覚まし時計の音が、私を眠りの底からたたき出した。

　ぱち、と瞼を開けて最初に見えたのは、明日香ちゃんの豊満な乳房。鼻先で感じたマシュマロのような柔らかさに驚いてのけ反ると、彼女の顔が見えた。無垢な少女のように、穏やかな寝顔。

　昨晩の行為を思い出して、熱を帯び始めた頬に触れた。

　全身に上手く力が入らない。自分でも驚くほど不器用に、ベッドに腕をついて身体を起こすと、赤いカーテン越しに朝陽が差し込んでいた。

　薄暗い室内に光が帯状に伸びて、影になっている部分との境目が幻想的に煌めいている。上手く回らない思考を覚醒方向に導くため頬を叩（はた）くと、隣で眠っている彼女の肩を揺すった。

「朝、朝だよ。早く起きないと、遅刻するよ」

　う……ん、と吐息を漏らすだけでなかなか目覚めない友人の頭を、撫でながら考える。私達は、性格も容姿もまったくの正反対だからこそ、二人一緒になると不足しているピースを補うようにピタリと嵌って、相性がいいのかもしれない。

「ん……」

　彼女がゆったりと寝返りをうつ。でも、このままじゃ本当に遅刻だ。もう一度彼女の身体を強く揺り動かすと、ようやく瞼が開いた。

「おはよう、寝坊助さん」

　そう声を掛けると、恥ずかしそうに彼女は布団の中に顔を埋めた。

「だって私、朝弱いんだもん」

「そうなんだ。知らなかった」彼女の頭を撫でていた右手を離した。

　本当にそうかもしれないね。

　私達は幼い頃からずっと一緒だったのに、未だに知らないことばかりだ。でも、お互いの気持ちを打ち明け、足りないところを補完しあった今、私たちはより良い関係を築いていけるはず。

　洗面所で顔を洗ったあと自室に戻ると、肩を並べて制服へと着替えていく。

　ブラウスに袖を通しながら、隣の彼女を盗み見た。明日香ちゃんが着けていたのは、黒色のレースがあしらわれたピンク色の下着。寄せて上げる必要もない胸の谷間と、張りのある丸いヒップ。彼女は本当にスタイルが良いので、まるで下着モデルのようだ。

　自分との違いを感じつつ見惚れていると、二人の視線がぶつかった。

　見られていると意識した途端、強い羞恥が込み上げる。慌ててスカートを履き隠そうとした私の動きを、待って、と明日香ちゃんが留めた。

「咲夜。もっとちゃんと、見せて」

「ん……いいけど」

　履きかけのスカートから足を抜き、直立して下着姿を晒してみる。

　彼女はしゃがみ込んで、私の体を正面からじっと見つめた。

　真剣な眼差しが向けられている。視線が這いまわる場所の全てが、じんわりとした熱を帯びていく。昨晩は下着姿どころか、もっと恥ずかしい格好を見られたはずなのに、どうしてこんなに顔が火照ってしまうんだろう？

「うん。咲夜はやっぱり、白い下着の方が似合ってるよ」

「子供っぽくないかな？」

「そんなことない。清純なイメージがして可愛いよ」

　恥ずかしそうに彼女が、頬を染め囁いた。

「そ、そうかな。ありがとう、嬉しいよ」

　先輩が白好きだから、なんて、勿論言えるはずもない。

　その後も、お互いの身体の違いを確かめるように、見つめ合ったまま着替えた。昨夜のように、背を向け合うことはなかった。

　朝食を一緒に食べて、身だしなみを整えて玄関口を出たのは、凡そいつも通りの時間になった。

「天気、悪いね」と私が呟くと、「うん、そうだね」と彼女が小声で反芻した。

　マンションの廊下から見上げた空は、厚く雲が立ち込めて、どんよりとした鉛色。これは雨が降りそうだと判断し、傘を二本持ってマンションを出た。どちらからともなく二人で手を繋ぎ、学校を目指して歩き始める。

　足取り軽く歩いていく。スニーカーとローファーと、対照的な二つの靴音が、大地にコツコツと響き渡った。

　やがて学校方向に歩いて二つ目となる交差点まで辿りつくと、きょろきょろと辺りに視線を配りながら、佇む今泉先輩の姿が見えた。

　離したくない。

　離れたくない。

　でも……

　二人は絡めていた指先を、そっと解きほぐす。

　先輩がこちらに気が付き、顔を向けたのを合図にするように。

　離れていった彼女の体温が名残惜しくて、少しの間、指先を虚空に彷徨わせた。この瞬間、私たちの一夜限りの恋は、静かに燃え尽きた。

「二人が朝から一緒なのは、珍しいな」

　アーモンド型の瞳が私達を捉える。彼は曇天を吹き飛ばす勢いで笑うと右手を上げた。

「うん。昨日は明日香ちゃんが、家にお泊りだったからね」

「え、マジで!?」

　どこかショックを受けた顔で、先輩がこっちを見た。

「なんか女子会みたいで良いね。今度は俺のことも交えてよ」

「先輩は涼しい顔して、裏ではエロいことばっかり考えてるから、ダメです」

「な・ん・で！　エロが無ければ、世界は滅びるんだよ。どうやって種（しゅ）を未来に残すんだよ」

「理屈っぽく言っても、ダメなもんはダメです」

　なんでどうして、と尚もしつこく食い下がる先輩を無視して歩き始める。

「つまんないことでいつまでも油を売ってたら、遅刻しますよ」

　納得できない、という顔で、それでも不承不承頷いて先輩が私の隣に並ぶ。一方、ここまで傍観していた明日香ちゃんは、「おはようございます」と控えめな挨拶だけを先輩に送り、私の後ろにつき従った。

「冗談ですよ」

　笑いながら、頭を下げる。視界の隅に見えた彼の指先を握ろうと手を伸ばしかけて、やっぱり止めておいた。

　昨夜の出来事は一時の気の迷い。一夜限りの恋。そう割り切っていたつもりだったが、何も知らず普段通りに接してくる先輩の対応に罪悪感がこみ上げる。

　だから、繋ぐことはできなかった。行き先を失った指先が虚しく彷徨う。

「分かってる。ところで、夏休みの予定なんだけどさ」

「あ、はい」

　相槌を打ち、笑顔を浮かべてみたけれど、私の顔、引きつってないだろうか。親友と交わした不貞行為が、心の奥底でずっと澱みになっているみたい。

　きっと、先輩はいい人だから許してくれる。

　でも、それに甘えて有耶無耶にするのはやっぱりダメだと思うから、時期を見てちゃんと謝りますね。

　問題を先送りしようとしてる自分を意識して、ジクジクと痛む胸。それでも、ほろ苦くも甘い先輩への恋心を再認識できた気もして、私の心は少しだけ弾んでた。

　そう──少なくとも私（・）は（・）、そう思っていたんだ。

　他愛もない話をしながら歩いていく。本格的な夏を迎え、日々暑さは増していくばかり。

　ブレザーの制服を脱ぎ捨て夏服に衣替えをした同級生の姿が、次第に増えてくる。頭上からは、耳障りなほどけたたましい蝉の声が降ってくる。照り付ける太陽の眩く、一瞬瞼の裏に焼き付くほどだ。

　いつもと同じ通学路。でも今日は、不思議とわくわくしていた。何か楽しいことが始まる予感さえした。先輩の寿命はまだ一年のままだけれど、澱のようにこびりついていた厄介事はひとつずつ剥がれ落ちて、一応の整理がついたのだから。日差しが眩しくて、木の葉が青々としてて、胸の奥を圧迫する痛みも、自然と忘れることができた。

「リレー小説、もう出来ました？」

「いや、もうちょっとかなあ。全体を少しだけ改稿しても良いかって、部長に問い合わせているところ。部長の確認が済んでオーケーがでれば、一気に終わらせるつもりだけどね」

「先輩の改稿が入るなら、期待できますね」

　私はニヤリと笑った。

「だと、いいけど」

「だって、何か企んでいるんでしょう？」

「そうだよ。よくわかったね」そう言って彼は、鼻の下を指で擦った。「まあ、改稿前の原稿は既に美術部に回してあるし、絵の方も同時進行で仕上げてもらってるから、十分（じゅうぶん）間に合うとは思うよ」

「そうですか。楽しみですね」

　その時、正面の歩行者用信号が赤に変わる。

　私達も、人の流れも、一斉に立ち止まる。

　一拍置いて、進行方向から見て真横にある歩行者用信号が、青に変わった。

　──かごめ、かごめ。籠の中の鳥は。

　馴染みのメロディーが流れだす。

　賑やかな朝の喧騒に包まれていた街角が沈黙すると、唐突に、昨夜の情熱的な出来事を思いだした。身体の芯が疼いて顔が火を当てられたように熱くなる。手のひらも、唇も、彼女の舌や指先が触れた場所の全てが熱い。

　その時、タイミングを見計らったかのように吹いた風が、火照った頬に涼しかった。

　──いついつ出やる。夜明けの晩に。

「そういえばさ、ここの交差点、人身事故が多いんだって」

　前後の脈絡もなく先輩が言った。

「まあ、車通りの多い場所ですからね。事故が多いのは頷けます。でも──聞いたこと無いですよ、そんな噂」

「そう？　一説によるとこの場所には地縛霊が住み着いていて、自身の寂しさを紛らわすため、通りかかった人たちを引っ張りこんでいるとかなんとか……」

　おどろおどろしい声音。

「事故から話を飛躍させすぎじゃないですか？　止めて下さい、縁起でもない」

　それにしても、交差点に居座る地縛霊、なんて、また突拍子もない話。お化けの話が苦手な明日香ちゃんには堪える話題だったろうか。先程から彼女は沈黙したままだ。得体の知れない存在を恐れる辺りが、なんとも彼女らしい。

　地縛霊なんて、ふふ。いる訳ないのに。

「そうだな。そんな事、ある訳ないか……って……あ……れ……？」

　偶然にも、私と先輩の考えが一致したその時、

　──鶴と亀が滑った。

　バランスを崩したように先輩はつんのめると、間の抜けた声を上げ、よろけるように数歩、横断歩道の上に飛び出してしまう。当然、信号はまだ赤だ。何やってんですかと慌てながらも、振り返った彼の視線に釣られて後ろを見る。その瞬間――体中の熱は一遍に引き、全身が総毛だった。

　──後ろの正面だあれ。

　右手を水平に持ち上げた明日香ちゃんは、憔悴しきったように虚ろな表情だ。

　濁った瞳。

　乾いた唇。

　土気色の肌。

　ただ正面だけを見据える顔はこちらに向いてはいない。彼女の濁った瞳の中心にゾッとする程の狂気を感じ取り、同時に理解する。

　先輩の背中を押したのは――彼女だと。

『死ねばいいのに』

　明日香ちゃんの囁く声が、聞こえたような気がした。

　──後ろの正面だ・あ・れ？

　直後、激しいクラクションの音と、横断歩道に接近していた中型トラックが急ブレーキを掛けるスキール音が、一緒に鳴り響いた。

　とても間に合うようなタイミングではない。先輩の足は縫い留められたように動かない。接近してくる車の姿を、ただ、驚いた顔で見つめている。彼の寿命を示す数字は限界まで色味を失い、明滅を繰り返していた。

　即座に状況を理解する。そうか、これが先輩の死の瞬間なんだと。

　いつから明滅していた？　私は、先輩と明日香ちゃんと、二人から向けられる好意に舞い上がり、彼の寿命の変化を見逃した。彼女がどれだけ嫉妬の感情を抱き、日々辛い思いをしていたのか、理解したつもりになっていた。母親の寿命の変化に気付いていた事、見過ごしていた事を告白し、許されたとばかり考えていた。本当にそうだったのか？　何故。どうして。気が緩んだ私は現状に甘え、自分のことばかりを考え、本来やるべき事を見失っていた。何の為に私は、先輩の傍らに居たんだ──？　視野が狭い。気遣いがない。覚悟が足りない。ここにきて浮き彫りになる私の浅慮（せんりょ）。そうだよ全部──私のせいじゃないか！

　そうか、思った通りだ。やっぱり私が先輩の──

　……死神だったんだ。

　気が付くと私は飛び出していた。どうしたら先輩を救えるか？　とか、どうやって助けようか？　とか、冷静に考えてる暇もなく。私の方に顔を向け、何か言いたそうに唇を震わせた彼の体を、構うことなく両手で抱きしめた。

　耳をつんざくような音を背に、胸に抱いた愛しい人と過ごした日々を思い出す。

　夕日が差し込む部室で、私に微笑んでくれたこと。寿命の話を告げた時、真面目な顔で聞いてくれたこと。その日、とても風が強かったこと。背の低い私を気遣い、傘を高く掲げてくれたこと。小説の書き方について、様々教えてくれたこと。雨に濡れた私のブラウスを見て、恥ずかしそうに顔を逸らしたこと。自分から、初めてのキスをせがんだ日のこと。彼の指先が触れたとき、凄く心地良かったこと。私が拗ねると、必死になって頭を下げ謝ってくれたこと。

　……ねえ、先輩。私は、良い彼女でしたか？

　そっか、私と先輩の寿命は同時に尽きるのかな。自分の寿命が見えないのって不便だな、と考えた直後に全身を強い痛みが襲い、身体がふわっと浮き上がる嫌な感覚を覚えた。

「咲夜ァァァァァーーーーーーーーーーー!!」

　明日香ちゃんの悲鳴じみた叫びが聞こえる。

　──ゴメンね。明日香ちゃん。

　そしてこれが、私の最後の記憶となった。体中の骨が砕けるような激痛の中、自分の意識を手放した。