Part.44『彼女の十二回目の誕生日』
十二回目の誕生日の朝。夢乃明日香は、いつもより早い時間に眼が覚めた。
眠い目を擦りながら彼女がキッチンに入ると、起きだしてきたばかりなのか、パジャマ姿で朝食を摂っている父親の姿のみがあった。テーブルの上の皿には、焼かれたトーストが二枚鎮座していた。
「あれ……お母さんはいないの?」
母親の姿が見えないことを疑問に思った彼女は、椅子に腰掛け、パンの耳をかじっている父親に尋ねてみた。
父親は物憂げな顔を彼女の方に向けると、「さあな。朝起きた時にはもう居なかった」とだけ抑揚なく呟いた。
どうして、そんな無責任な言い方をするの、と彼女は憤慨したが、喉元まで出掛かった不満は言わずに飲み干した。父親の機嫌を損ねると、『良くないことが起きる』ことを彼女はよく心得ていた。
それにしてもおかしいな、と彼女は思う。
昨日の夜、確かに母親は私と約束をしてくれたのだ。『明日、横浜市の中心街に行って、誕生日プレゼントを買ってあげるね』と。
その後も母親が帰宅することはなく、どこか釈然としない思いを抱え、午前中一杯を自堕落に過ごした。壁掛け時計の短針が、十二時を指し示した。
飲食店を営んでいる父親は、けれど、休みの日は一切料理をしない人だった。そんな事情などとうに心得ていた彼女は、昼食の心配をし始める。
食料を求めて冷蔵庫の中を探し始めたその時、一本の電話が鳴り響く。
「もしもし」
電話に応対した父親の顔から、一瞬にして血の気が引いた。きっと明日は嵐になるな。珍しく
「お母さんが、自殺した」
父親の声が、そんな事を言う。彼女はけれど、まだよく現実を認識できていない。動きが悪くなった心は奇妙なほどに凪いでいて、この白昼夢から抜け出せない。
急いで着替えを済ませ、父親の車で近くの大学病院に向かう。テレビドラマでしか見たことのない、霊安室という部屋に二人は通された。
遺体の他に、殆ど物のない白い空間。ぐるりと見渡し、意外と殺風景で味気ないのね、と明日香は思う。
顔に掛けられていた白い布を捲り、妻であることを確認した直後、父親が床に手をついて泣き崩れた。
毎日あんなに暴力を振るうのに、死んだら一応泣くんだ、と彼女は未だ俯瞰的に物事を捉えていた。
次第に状況を飲み込み始めたのは、「遺体の損傷が激しい」という聞き慣れない言葉を看護師から告げられて、母親の遺品の中から、彼女が欲しがっていたクマのぬいぐるみが出てきた後のこと。
綺麗にラッピングが施されたそれは、どう見ても、母親が自分の為に準備した誕生日プレゼント。
昨晩母親から告げられた言葉を思い出し、彼女は把握した。
自分の誕生日プレゼントは、既に準備されていた。母親の遺書と一緒に。昨日母親が言った、『明日一緒に買い物に行こうね』という約束は、自身の死を知る瞬間まで娘が悲しむことがないようにと、母親がついた気休めの嘘だったんだと。母親はもう、この世界の何処にもいないんだと。
「あ……お母さん……」
遅れて状況を理解した彼女の頬を、堪えきれなくなった涙が伝い落ちた。そこからはもう、止め処がなくなった。
嗚咽を上げて泣きじゃくる彼女の元に、一組の親子が紹介された。
「この方達が、最初に通報してくれた家族です」
「咲夜……」
明日香の前に現れたのは、親友の少女。
「ごめんね、明日香ちゃん」と親友は唇を噛んで言う。「私……。お母さんのこと、救えなかった」
大粒の涙を落とし始めた親友の体を、明日香は強く抱きしめる。
「大丈夫だよ。私なら、大丈夫だからね」
この時の彼女はまだ、親友の言葉の意味を理解してなかった。だが、この時彼女は気が付いた。私は、この親友の少女の事を愛していると。辛くて、悲しくて、また泣きそうだったけれど、傍らに親友の少女が居てくれるのならば、どんな困難でも乗り越えていけると、そう思った。
きっと私は大丈夫。
私には咲夜が居てくれるから。
ずっと、ずっと、一緒だよ。
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