Part.43『一夜の恋②』

 それは、私達が小学校一年生の頃の話だった。小学校に入学して初めて、多人数社会に出る子供も多い中で、上手く環境に順応出来る子供と、そうじゃない子供が出てくるのはごく自然な成り行きだ。まだ、自分の能力についてよく理解していなかった幼い頃の私は、たぶん今より上手に人付き合いのできる性格だったのだろう。

 初めての遠足。そこで、五人一組のグループを作ることになった。その当時、クラスに上手く馴染めていなかった明日香ちゃんは、誰とも組めずに一人孤立してしまう。とはいえ、クラスの人数は五で割り切れなかったのだから、それも当然の結果なのだが。

『誰も組む人がいないんだったらさ、六人でやろうよ』

 一人ぼっちで俯いていた彼女にそう声を掛けたのが、私だったのだという。

 残念ながら私は、この話をすっかり忘れていたのだが。

 私が気に留めていなかった、そんな些細なエピソードでさえも、彼女は心の抽斗ひきだしに大切に仕舞い込んでいたんだ。

 二人の認識の違いを感じ取ると、胸の奥深いところがきゅっと音を立て痛んだ。


「でもね。咲夜のことを好きだと思った瞬間は、もっと、もっとあるんだよ」


 瞳を輝かせ、弾んだ口調で彼女は話し続ける。

 登校班が一緒になった朝の事。強い雨の日に、二人で一つの傘を共有して歩いた事。季節は夏。体育の授業で、私の水着姿に胸がドキドキしていた事。中学校時代の修学旅行で、一緒の班になり京都の市内を観光して歩いた事。その日の夜、一緒に大浴場に入った時、顔を赤らめながら私の方ばかり見てた事。そして、二人で吹奏楽部に入部して、同じホールに立ったコンクールの日の感動。

 彼女は自分の思いの丈を全部ぶつけ、私は一つ一つ丁寧に相槌を打ちながら、彼女の想いを胸に刻み込んでいった。

 熱を帯びたように話し続ける明日香ちゃんの横顔は、いつにも増して輝いて見えた。


 ──失いたくない、彼女の笑顔を。


「でも、本当に咲夜の事を恋愛対象として意識したのは、私のお母さんが死んだ日、だったのかな。あの時ずっと私の傍らに居て、励まし続けてくれたのは咲夜だったから」


 光の加減だろうか、彼女の瞳は僅かに潤んで見えた。綺麗な光を湛える泉の中心に、私の姿が揺らいで映る。一方で私は、向けられた感情の眩しさを受け止めきれない。胸の痛みが、また少しだけ強くなる。


「あの日まで――自分は恋愛に興味が無いのか、もしくは男嫌いが原因で人を好きになれないのかな、と思ってた。でも違ったの。私の本当の気持ち。好きなのは女の子なんだって気付かせてくれたのが、咲夜なんだよ」


 彼女の母親を救えなかったあの日から、私は自分の罪を責め続けて生きてきた。そんな私を許して心の拠り所となってくれたのは他ならぬ明日香ちゃんだったが、それはきっと、彼女から見ても同じ事だったのだろう。

 母親を亡くした事で屑折れそうになっていた彼女の心は、私に寄り添うことで、一時いっときの平穏を得ていたんだ。


「私、嬉しかったの。咲夜が、私にだけ秘密を打ち明けてくれたこと。二人だけの秘密ができたことが、凄く嬉しかったの」


 今にして思えば、私の能力の話を疑うことなく受け入れてくれたのも腑に落ちる。きっと彼女は、私と繋がる理由を欲していた。

 でも、二人だけの秘密だった能力の話も、今では先輩との共有情報。そのことを彼女は、どう受け止めているのだろうか。


「ねえ、咲夜」

「はい」

 思わず背筋が伸びて敬語になる。

「今泉先輩の事、好き?」


 それは私が一番恐れていた質問であると同時に、彼女が一番知りたがっている事柄だ。だから私は、喉元でつかえそうになる言葉を懸命に絞り出した。


「うん、大好き」


 敢えて瞳は逸らさずに見つめる。自分の覚悟を伝えるために。


「明日香ちゃんの事は勿論大好き。ずっと一緒に居たいと思う。でも……ゴメンね。それでも私は、明日香ちゃんの事を恋人として見ることはできない」

「やっぱり、そうだよね」


 傷ついたような声音だった。


「ありがとう、誤魔化さないでちゃんと答えてくれて。やっぱり咲夜は優しいね」


 彼女の頬を涙のしずくが一筋伝うと、そこからは止め処がなくなった。落ちた涙を頬にへばりつかせたまま、それでも彼女は花のように笑ってみせた。殆ど泣き笑いといってよい表情で、うん、うん、と自分に言い聞かせるように何度も頷いた。


「最初から結果は分かってた。咲夜が私に抱いてる『好き』は、友達としての『好き』なんだもんね」


 震えた声が静かに私の鼓膜を叩く。雨後の雫のように頬を伝い落ちる涙を見ているのが辛くなると、反射的に彼女の肩を抱き寄せた。私の肩口をしとどに濡らしていく涙。

 長年温め続けてきたであろう彼女の想いを、一瞬にして打ち砕いた卑劣な自分が許せない。許せないのに、私にできることはただ震える肩を抱き、頭を撫でてあげることだけなんだ。


 いや、それは少し違うだろうか。本当は、「明日香ちゃんの事だけを愛している」とでも宣言すれば、彼女の心は癒されるのだろう。

 けど、ここで気休めの嘘を告げることは、勇気を出して告白してくれた彼女に対して失礼だと分かっていたから、やっぱり嘘はつけなかった。

 やがて嗚咽が静まってくると、「猫じゃないんだから」と言って彼女は笑った。

 切ない笑みだった。

 無理やり口角を上げているのは明白だった。

 それでも私は、気付かない振りをしておいた。


 それから私達は、テレビを観て、少女漫画を二人で読んで、昔のアルバムを見ながら夜遅くまで思い出話に花を咲かせた。小学校の頃の楽しかった出来事。辛かった出来事。中学校の時、誰のことが嫌いだったとか好きだったとか、眠気が瞼を重くさせるまで、絶え間なく話し続けた。

 時刻が夜半に迫るころ、二人背を向け合ってパジャマに着替えた。

 なんとなく気恥ずかしくて、彼女の裸は見れなかった。部屋の灯りを完全に消すと、一緒の布団に潜り込む。笑っていた時の高揚感は既に失われ、高まる緊張に手のひらも自然と汗ばんだ。

 静寂に包まれた部屋の中に響くのは、お互いの息遣いの音だけだ。布団の中で体を反転し彼女の方に向き直ると、ごく自然に、お互いの腕を絡めて抱き合う格好になった。カーテンの隙間から射し込む月明かりが、彼女の顔を仄かに照らし出す。ただでさえ白い肌はより白く。紫紺の瞳は、より幻想的な輝きを放っていた。

 緊張から、ごくりと喉が鳴った。鼓動が、自分の意思を超えて暴れ出す。


「先輩と、もうエッチしたの?」


 瞳を伏せたまま、明日香ちゃんが訊ねてきた。


「……してない」

「そうだったんだ」


 正直に私が告白すると、意外だったのか彼女は目を見開き驚いた。ゆっくりと目を細め、笑みが悪戯な色に染まる。


「ふーん。じゃあ、咲夜の初めて、私が貰っちゃおうかなあ……?」


 もう抑えられない。心臓が、大袈裟に跳ねた。

 上手い返しが出来ずに黙り込んでいると、彼女は上半身を起こして、私の頬を両手で挟みこんだ。


「嫌なら嫌だって、ちゃんと言ってね」

「……言わない。そんなこと言えないよ。だって私は、明日香ちゃんのことが大好きだから」


 このまま彼女と関係を持つのかなって意識すると、やっぱりちょっとだけ怖い。でも、なんでだろう。いつかこうなる事を望んでいたかのように心はどこか冷静で、首を横に振る気にはなれなかった。

 一点の曇りもない澄んだ瞳が、真っすぐ私を見下ろしている。

 ああ。今日の明日香ちゃん──凄く、綺麗だ。

 彼女にならば、私の全てを捧げてもいいだろうか。覚悟を決めた瞬間、瞼の裏に先輩の顔が浮かんだ。不貞行為、か。今年自分が考えを巡らせていた問題が、そのまま自分に跳ね返ってきたことに、自嘲の笑みが零れてしまう。相手は同性だから不貞として問われない、なんて、そんな理屈通らないよね。ごめんなさい……先輩。浮ついた私の心、今夜だけ許してくれますか?


「いいよ、明日香ちゃん」


 決心を伝えるため視線をしっかり合わせると、直ぐに明日香ちゃんの顔が下りてくる。熱を帯びてふっくらとした唇が私の頬に触れ、続いて唇の端にも触れた。


「咲夜の気持ちが手に入らないのなら、せめてあなたの温もりだけでも、私のものにしたい」


 彼女の呟きが落ちてくる。

 心臓が、自分でも驚くほど強く脈打っている。女の子とキスを交わした、という非日常の光景に、頭の中が段々と痺れてくる。

 いったん離れた明日香ちゃんの顔が近づいてくると、ああ、もう一度キスされちゃうんだな、と思う。私がそう思ったのと、彼女が唇を重ねてきたのはほぼ同時だった。照明が落とされたときのように、私はそっと目を閉じた。

 凪いだ水面のように穏やかだった気持ちがかき乱されて、愛おしくてむず痒い。私とキスをすることで、明日香ちゃんの心が満たされていくのかな、なんて意識すると、次第に心のタガが外れていく。

 首筋に腕を絡めて、彼女の体を抱き寄せる。深く息を吸いこんでみると、胸いっぱいに彼女の甘い匂いが満たされた。頬を軽く合わせると、互いに熱っぽくなっているのわかった。

 窓から入り込む月明かりと暗闇の狭間に浮かびあがる、スレンダーな、それでいて女の子らしく丸みをおびた彼女の体。明日香ちゃんが身を捩るたび光の当たる場所が微妙に変化し、体を染める陰影のかたちが変わった。

 背徳感のなかに沈んでいく心がなんだか心地いい。お互いの身体からだの凹凸がぴたりと嵌るような、不思議な感覚。

 広げた私の両手に、彼女が指が絡めてくる。そしらぬ表情で私の顔色をうかがいながら、繋いだ指先を激しくこすり合わせる。優しくて穏やかで、親密な気分で満たされていくような、濃密な抱擁を何度も交わした。今夜の出来事を、何かかたちにして残しておかなければならないと、きっとお互いが強く思っていた。

 

「大丈夫?」


 こみ上げてくる感情を必死に抑え唇を結んだ私の顔を、彼女が恍惚とした表情で見下ろしていた。


「うん。……平気だよ。怖くなんかないよ」


 向けられた瞳があまりにも眩しくて、思わず顔を逸らした。


「良かった。私の心が、ちゃんと伝わっているからだね」


 彼女の唇がまた下りてくる。私の身体からだを、きつくぎゅっと抱きしめてくる。

 明日香ちゃんの頭を両手で抱え、眼前にある彼女の寿命をぼんやりと見つめた。


『人の寿命が見えるということは、即ち、他人の人生が見えるということ』


 和也さんに言われた台詞が去来する。人生……か。この手で触れてみたら、彼女が自分の母親を失ったあの日の悲しみも、私に対する恋情も、もっと深く知ることができるのだろうか。

 一度手を伸ばしかけて、でも、怖くなって引っ込めた。他人の心を覗き見るなんて、やっぱりこの能力は忌々しい。それに、彼女の悲しみを、全部背負う覚悟もない癖に。雑念を断ち切り目を閉じると、その後はただ、彼女が伝えてくる暖かさに溺れていった。

 彼女を失いたくない。愛おしいと思う気持ちが、泡沫うたかたのように浮かんでは消えていく。

 それなのに──。

 私を見つめている明日香ちゃんの顔が、時々思いつめたような色に染まる。そんな顔をさせているのが自分なんだと知っていたから、胸の奥深いところが先程とは違う痛みをうったえる。


「嫌じゃない?」

 なんて、心配そうな顔で訊ねてくるから、

「ん、そんなことないよ」

 と私は答えたものの、身体からだの力が上手く抜けなくなっている自分に気がついた。

 こんな事じゃダメなのに。もっと明日香ちゃんとひとつにならなくちゃ。それなのに意識すれば意識するほど、手足は強張り胸の痛みは増すばかり。彼女も私も、きっと同じ焦りを感じていた。

 お互いに、これが一夜限りの関係なんだと知っていたから。次の朝日が昇るころ、全ての魔法は解けて私たちは普通の友人に戻るのだから。


 だから……私たちの行為は、途中で終わりを告げる。

 

 どちらからともなく絡めていた手を、そっと……離した。

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