Part.42『一夜の恋①』

 明日香ちゃんの自宅アパートは、私の家があるマンションから十分じゅっぷん程の場所にある。多少距離があるものの、有り体に言って同じ団地内。

 通話を切った後、親友の来訪を両親に告げ、そのままリビングのソファに座って待ち続ける。高鳴る胸を落ち着かせようとしても無駄な抵抗で、余計にそわそわするばかり。


 ──落ち着かない。


 彼女がやってくるまでの間、ずっと心がざわついていた。


 玄関口に現れた明日香ちゃんは、大分お洒落をしていた。

 フリルがあしらわれた清楚な印象の白いブラウスに、ボトムは鮮やかな真紅のミニスカート。宿泊用の荷物を詰め込んだ鞄を脇に抱え、短時間でやって来たにしてはちゃんと化粧も施されてる。


「こんばんは」


 なんて、余所行きの挨拶をしてしまう私。

 彼女は靴を綺麗に揃えて脱ぎながら、紙袋を差し出してきた。


「これ差し入れだよ。中身はロールケーキ」

「わ、ありがとう」


 受け取りながら、ふと、唇の艶やかな赤に目を奪われて、昨日のキスの感触を思い出す。


「ケーキナイフと皿を準備して持っていくから、先に部屋行ってていいよ」

 真っ直ぐ顔が見れなくて、視線を逸らしたまま彼女に促した。

「わかった」


 お邪魔します。ゆっくりして行ってね夢乃さん。そんな感じに母親と挨拶を交わして階段を上っていく背中を見送った。


「はあ」


 緊張から溜め息ひとつ。キッチンに吸い込まれると、ミルクティーを準備している私の傍らに母親がやって来て耳打ちをした。


「どうしちゃったの、夢乃さん。随分とおめかししちゃって。いつも可愛いけど、今日はまるでお人形さんみたい」

「そうだね。きっと、新しい服でも買ったんじゃないかな」


 適当に相槌を打っておくも、心中は動揺しまくりだ。過度に意識させないで欲しい、本当に。


 私は、深く息を吐く。

 階段を上り、部屋の前で一度足が竦む。

 私は、深く息を吐く。


「よし」


 勇気を振り絞るため意図的に声を出し、一息に扉を開けた。

 明日香ちゃんは窓際に立ち、カーテンに触れているところだった。私の姿を認めると、驚いたように身を震わせた。


「カーテンの模様変わったね」


 ぐるりと視線を巡らして、ぽつりと明日香ちゃんが寂しげに呟いた。指先で、赤地に黒のドット柄のカーテンを弄んでいる。


「それに……部屋の雰囲気、全体的に変わった気がする。なんだか、前よりも可愛くなった」


 えへへ、とぎこちなく笑みを零してから、彼女はテーブルの脇に膝を折った。


「うん。この間ちょっとだけ模様替えしてみたんだ。どうだろう、似合わないかな?」


 変化があったのはカーテンだけじゃない。モノトーンだった枕と布団カバーも私の好きな薄紫色のものと交換したし、絨毯も濃い目の赤だ。壁際には白色のカラーボックスも一個増えた。中身、雑誌が数冊程度しか入っていないけど。

 模様替えを行ったのは十日ほど前。無論、次に先輩を部屋に招き入れることを意識してのものだった。

 疚しい事を期待してるつもりはないけれど、私の意図を深読みされているようで、改めて指摘されるとなんだかとても恥ずかしい。

 ティーカップをテーブルの上に並べると、何時もと同じ距離感を心掛けて彼女の隣に座った。距離感なんて、今まで考えたこともないのにと、自意識過剰な自分に苦笑い。


「良いんじゃない? 今までの咲夜の部屋って、なんだか男の子の部屋みたいで殺風景だったもん」


 感嘆の声を漏らしつつも、明日香ちゃんの目は笑っていない。私と先輩の事情を、詮索しているかのようだ。


「なにそれ、酷い」


 軽口を言って頬を膨らませる私も、あんまり上手く笑えていない。

 切り分けたロールケーキをミルクティーの入ったカップと一緒に差し出すと、彼女は「ありがとう」と言って受け取った。緊張を紛らわす為にミルクティーを一口啜って、私の方から話を切り出した。


「さっき、先輩から電話がきた。夏休みに入ったら、文芸部の皆で八景島シーパラダイスに行こうって」

「八景島!」と声のトーンを上げた明日香ちゃんだったが、「あそこプールないんだっけ」と残念そうに呟いた。


 落とした呟きを突っつくように、彼女のフォークがロールケーキを二つに割った。


「だね。水族館に遊園地に、あと、ショッピングモールかな? ん、プール行きたいの? 明日香ちゃん」


「そりゃ、行きたいよ!」と明日香ちゃんは再び声のトーンを上げ、「だって、咲夜の水着姿見たいし……」と今度は恥ずかしそうに語尾を濁した。

 喜んだり沈んだり。ころころと変わる明日香ちゃんの表情。なんだか可愛い。


「ん~でも、八景島駅の近くに幾つか屋内プールあるよ。一泊二日の泊りがけで計画してるみたいだし、たぶん行く時間あるよ」


 私が提案すると、今度こそ明日香ちゃんは身を乗り出してきた。


「そっか、屋内プールか! じゃあさ、今度一緒に水着買いに行こうよ!」

 

 普段通りの、花が咲いたような笑顔。

 それは──目を逸らしたくなるほど眩しくて。

 心のベクトルが、ふらりと揺れる。


「水着かあ、持ってないから買わなくちゃ」


 言いながら思う。確かに持っていなかった。所謂、健全で明るい高校生ライフ──なんてものには縁遠い存在だったのだし、しょうがない所だろうか。


「咲夜の好きな色って、紫でしょ?」

「え、うん」

「んー、紫のビキニ。なんかいいのないかな」


 明日香ちゃんの言葉に、ミルクティーを噴きだしそうになる。


「無理無理無理! 私にビキニなんて着れるわけないじゃん! 明日香ちゃんみたいに胸だって大きくないし……」

「そうかな? 十分じゅうぶん大きいと思うけど」


 数センチこちらに体を寄せ、私の胸に手を伸ばしてくる明日香ちゃん。彼女の胸元から、豊満な胸の谷間が覗いて見える。雪のように白い肌と漂う香水の香りに、驚いて視線を持ち上げた。


「あ」小さい呟きの声と共に、伸ばされてきた彼女の手が引っ込んでいく。「ごめん。変な意味で触ろうと思ったんじゃないの」

「ううん。大丈夫だよ」


 何が大丈夫なんだろう。

 明日香ちゃんが私の体に触ること?

 彼女が放った『ごめん』の一言に、性的な意味がこめられていると気付いた途端、心臓は強く脈打ち身体中が熱を帯びた。明日香ちゃんに触られることを意識すると、やっぱりちょっとだけ怖いし恥ずかしい。でも、不思議と嫌じゃなかった。親友だから? 女の子同士だから? 堂々巡りの思考は、一応の着地点すら見つけられない。


「そ、そうだ。八景島シーパラダイスに行ったらさ、ブルーフォールに乗ろうよ?」


 弱気な私は、結局話を元に戻してしまう。世界最高と言われる百七メートルからの落下体験をできるアトラクションの話題を振ると、「嫌だ、怖いよ」と明日香ちゃんはぶんぶんと首を振った。

 そういえば、そうだった。

 あんなに強くて気丈な明日香ちゃんにも弱点があって、それが高い場所とお化けなのだ。

「アハハ」と私が思わず吹き出すと、「笑うなんて酷いよ」と彼女が頬を膨らませる。ひとしきり笑った後で、何のアトラクションに乗ろうか。水族館に行ったら、イルカショーを見ようよ。家族にお土産何を買おうかな……と、取り留めなく話を続けた。


「ホテルってさ、やっぱり部屋はシングルかダブルなのかな?」

 彼女の質問に、

「たぶんね」と私は答える。

「そうだよね。じゃあ咲夜は、先輩と一緒の部屋に泊まるのか」


 心臓がまたどくんと跳ねる。咄嗟に漏れ出たのは否定の言葉。


「いや、それは……ほら、部長に冷やかされそうだし恥ずかしい」

「そうなの?」


 何かを期待するような眼差しが、私の瞳とぶつかった。


「まあ、ね」


 彼女の本心から逃れるように、顔を背け曖昧な返事しかできない自分がもどかしい。なんとなく繋いできた会話が、一瞬にして綻びを見せた。


 落ちてくる静寂。続かない会話。

 気まずい沈黙が、二人の顔に張り付く。

 お互いの胸の内を探り合っているのが、手に取るように分かる。同時に、彼女が今、欲しがっている私の回答も。

 いい加減本題を切り出すべきだと思うのに、伝えたい理想の言葉と本心には相応のずれがある。言葉にしたら、益々気の利かない台詞になりそうで、躊躇い口を噤んでしまう。

 でも、これ以上逃げてちゃダメだ、加護咲夜。

 明日香ちゃんは、きっと何年も悩んで、後ろめたい気持ちを抱えて、それでも勇気を振り絞って私にカミングアウトしてくれたはずなんだ。

 だからこそ先ずは、自分の感謝の気持ちを言葉にして伝えないと。


「この間、三枝先輩から中学の時の吹奏楽部の話、全部聞いたよ。明日香ちゃんには悪いかな、と思ったけれど」

「え、酷い。恥ずかしいから内緒にしておいたのに」と身を乗りだして頬を膨らませた彼女だったが、私が「嬉しかったよ」と言うと、「え?」と呟き膝を正した。

「三枝先輩が、私が辞めた後に悪口を言ってた理由も聞いた。それと、明日香ちゃんが、私のために立ち向かってくれたことも」


 期待と憂いを湛えた瞳が、再び私に向けられる。今度は逃げることなく、正面から受け止めた。私の本当の気持ちを、今、言葉にして彼女に伝えるために。


「アンコンのことも、自分のことも犠牲にして、私のために手を上げてくれたんだよね。ありがとう、本当に感謝してる。……私はいつも、明日香ちゃんに守ってもらってばかりだ。なんだか、恥ずかしいよ」


 明日香ちゃんはふっと相好を崩すと、私の頭に手を乗せあやすように撫でた。子供みたい、と思いながら首をすくめた。


「そんな事、ないんだよ。私だって、咲夜から勇気をもらってばっかりだ」

「私から?」

「そうだよ」

 頭を撫でていた手のひらが、私の頬に添えられる。

「だって咲夜は知らないでしょう。あなたの存在が、私の心の中で、どんなに大きくなっていたのかを。私がどれだけ長い間、あなたの背中だけを見つめていたのかも。鈍感なあなたは、きっと、何も知らないでしょう」


 どこか陶酔しきった顔で、旋律を奏でるように彼女は言葉を紡いだ。いったい私はどれだけの間、彼女の気持ちに気づかないまま寄り添い続けていたのだろう。


「いつからなの? ……その──私の事を好きになったの」

「う~ん……何時からだったかな? 正直あんまり憶えていないんだけど。でも、そうだなあ……。私が咲夜のことを、一番最初に好きだと意識した日の話をしましょうか?」


 彼女の愛の囁きを聞いてしまったら、きっと、もう後戻り出来ない。逃げ出したい──そんな弱気な心を押し流して、私は静かに顎を引いた。


「うん、ぜひ聞かせて」

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