最終章「少女たちの懺悔」

Part.41『友情と恋情と』

 私は夢を見ていた。

 季節はたぶん、中学一年の冬。

 中学校まで至る通学路。

 明日香ちゃんは、悴んだ手に息を吐きかけマフラーを巻き直すと、そっと私に手を差し出した。彼女の横顔は紅潮し、差し出された手を握り返すと、手のひらはしっとりと汗ばんでいた。

 吐く息も煙る寒空の下、何故、彼女の頬が紅潮していたのか。

 何故、彼女の吐息は弾んでいたのか。

 何故、彼女の手のひらが熱を帯び汗ばんでいたのか。

 今ならば、全て理由が分かる。彼女は私に──恋をしていた。



 翌日。明日香ちゃんは学校を休んだ。そして、彼女が居ない事を心の何処かで安堵している自分に嫌気が差した。私が安堵している理由なんて自明の理だった。


 私は──結論を出すことを恐れ、逃げている。


 私は昨晩、明日香ちゃんから受けた愛の言葉を何度も頭の中で反芻しながら、しきりに熱を帯びたままの唇を触っていた。知らなかったんだ。他人から受ける好意が、こんなにも重かったことを。彼女のことはもちろん好きだ。でもそれは、友人としての好きであり、明日香ちゃんの好意に対して、全力で応えてあげられない自分に気付いていた。だからチャットアプリを操作して、何度も、何度も、彼女にメッセージを送ろうと書いては──消して、書いては……消して。ずっと考えを纏められずにいた。

 だから今日、彼女が学校を休んだことに、問題を先送りする理由ができたことに安堵し、目を背けているんだ。

 とんだ卑怯者だ。


 昼休みになると私は、三度みたび二年生の教室に向かっていた。彼女に対する自分の気持ちに答えを見出すため、今、聞いておかなければダメなんだ。明日香ちゃんが言い淀んだ、過去の話を。

 慌ただしく廊下を駆け抜ける。

 流石に三度目ともなると手慣れたもので、何時も声掛けをしてくれる男子の先輩……はなんとなくスルーして、未来さんの姿を見つけて呼び止めた。


「すいません、三枝千鶴さえぐさちずる先輩を呼んで貰えませんか?」


 想定外の人物の名前を挙げたことに、彼女は目を白黒させていた。


「え、あれ……? 千鶴と仲が悪いんじゃなかったの? 私の勘違い?」

「悪いです」と私は即答した。「顔も見たくありません」心底イヤだと言い放つ。「できれば不干渉の立場を貫きたかったのですが、色々と事情が変わりました。そんな感じに汲み取って頂けると幸いです」と苦々しく吐き捨てた。

「どうなってんの」


 未来さんは困惑した表情で私の顔色をチラリと窺い、釈然としない様子で教室の中に入って行った。

 落ち着きなく待ち続けること数分。

 なんとも複雑な表情を顔に張り付かせた三枝先輩が、廊下に姿を現した。


「アンタが私の所にやって来るなんて、珍しい事もあったもんね。いったいどういう風の吹き回しかしら?」


 きっ、と睨むような眼差しを向けてくる。そりゃ私だって、話なんてしたくないですよ。でも先ずは、率直に言ってみるか。


「ああ、もしかして、この間の不満でも言いにきたの? もしそうなら──」

「そういう訳でもないです。少しだけ、話をしたいことがあるんですが、今、時間良いでしょうか?」

「嫌だよ」

「そうですか。残念です。本当はこういう手段を使いたくなかったんですが」


 スマホをポケットから出してちらつかせてみる。明日香ちゃんに写真を撮られた一件を思い出したのか、彼女の顔色がサッと変わった。先生、二年生の先輩に嫌がらせを受けたんです、という対処をお願いするのも一興か。いつまでも根に持つ女だと思われるのは不本意だが、この際四の五の言ってられない。


「ちょ、ちょっと、どういうこと」

「いえ、もういいです。それでは」


 押してダメなら引いてみろ、でもないが、融通の利かない相手であればしょうがない。私は背を向けて歩き始める。向かう先は職員室だ。切り札というのはこういう時に使うもの。周りにいた二年生の先輩たちが眉をひそめてこちらを見ている。いいぞ、騒ぎが大きくなればなるほどこちらに有利になる。まあ、聞き出すのに時間が掛かってしまうだろうけど、方法手段なら後でなんとでもなるだろう、と考えていたあたりで肩を掴まれた。


「ちょっと、待てって」

「話を聞いてくれる気になりましたか?」

「わかった聞くよ、聞くから。いったいなんの話だよ」


 ん~……と数秒考えた振りをしながら、次の言葉を選んだ。


「先ずは、この間の件謝ります。すみませんでした。私もつい頭に血が上ってしまって、言葉に配慮が足りてなかったと今は少し反省しています」


 こちらから頭を下げて、先日の非礼を侘びておいた。こうして下手に出ておいた方が、後々話を進めやすい相手だからだ。


「ま、まあ、あの時は私も言い過ぎたから謝るよ。で、何? 話したいことってそれだけなの?」


 日にちが経ったことで案外冷静になれたのか、それとも安っぽい挑発が効いたのか。三枝先輩は、意外にも素直に頭を下げた。

 よし、大分壁は崩せたかな、と思ったあたりで本題を切り出してみる。


「中学時代の吹奏楽部の話を聞かせて欲しいんです。当時明日香ちゃんと何があったのか、教えてもらえないでしょうか?」


 やはりなにか後ろめたい事情でもあるのだろう。三枝先輩の表情が露骨に曇った。


「成る程……ね。そういう話」得心したように三枝先輩が呟いた。「ここでは人目につくから、ちょいと場所を変えようか」


* * *


 三枝先輩の提案で私達がやって来たのは、渡り廊下の途中にある自動販売機の前。丁度ベンチも置かれている為、話をするにはもってこいの場所だ。通る人の姿もまばらで、誰もこちらに注意を向ける様子もない。

 自動販売機からお茶を二本買うと、そのうちの一本を三枝先輩に差し出した。正直、ここまで義理立てるべき相手とも思わないが、一応の社交辞令という奴だ。

 それに、三枝先輩でも言い難い過去の話をして貰わなければならないのだ。この程度の出費で済むのなら、安いものだろう。


 一度お茶の缶に口を付けた後で、三枝先輩が言った。


「直接夢乃に訊けばいいだろう? と言いたいのもやまやまだが、そうもいかない事情があるんだな?」

「その通りです。察しが良くて助かります」


 一先ず納得した、という風にベンチに座った彼女は、やがて顔を伏せたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。


「話の始まりは、加護が吹奏楽部を退部した直後まで遡る。加護が退部した原因は私の虐めにあるんだろう、と夢乃の奴がつっかかってきやがったんだ」


 私が黙って耳を傾けていると、「その通りだと思ってるんだろ?」と彼女が訊ねてくる。「いえいえ、そんなことは」とやんわり否定すると、「いいよ。実際、その通りだ」と彼女は自嘲の笑みを浮かべる。


「あの当時、部活の内部は二つに割れていた。私を中心として、『程々に部活を楽しむ』というスタンスの人間と、夢乃やお前のように、実力如何いかんにかかわらず、『しっかりと部活に取り組んでいる』人間だ。そんなエンジョイ勢の一人である私が、加護を退部に追いやったことは、さぞ、アイツにとっては気に入らなかったんだろう」


 三枝先輩は当時、トランペットのパートリーダーだったが、その練習態度は決して褒められたものでは無かった。だからこそ、何度か視線を向けてくる私のことが、気に入らなかったのだろう。三枝先輩の取り組み方を、口に出さずとも非難していると、彼女は勘違いした訳だ。

 今更のように、自分が虐められていた理由が腑に落ちる。


「だがあの時は私も、夢乃の奴に苛々していた。私は数か月後に迫ったアンコン(アンサンブルコンテスト)のメンバーに選ばれていたが、ある日突然、アンコンのメンバーから外されたからね。理由は実にシンプルだった。しっかりと練習を重ねる夢乃の実力が、私を追い抜いたからだ」


 正確には少し違うだろうか。明日香ちゃんのトランペット奏者としての実力は、私が部活を抜ける時点でも、部内トップだった。恐らくは、彼女がアンコンのメンバーに名乗りを上げた事で押し出される格好となり、三枝先輩が落選したんだろう。無論この予測は、心の奥底にしまいこんでおくが。


「いよいよ私も面白くなくなった。憂さ晴らしに加護の悪口を吹聴してまわったのも、その為だ。『アイツは部活動から逃げ出した負け犬だ』とか色々ね。その事が夢乃の逆鱗に触れたのかもしれない。ある日部室で二人きりになった時、夢乃の奴が意見してきた。加護の悪口をこれ以上言うのは止めて下さい、とね。そこから私達は、売り言葉に買い言葉で口論となり、私は夢乃の首根っこを捕まえてロッカーに叩きつけた。これでアイツはビビるだろうと思ったんだ。ところが……」

「……反撃されたんですね?」


 私が口を挟むと、「まあね」と彼女の顔が苦み走った。


「まさか夢乃の奴が、あんなに喧嘩が強いとは、予想だにしてなかったよ。逆に腕を取られ体勢を反転させられると、振り向きざまに殴られた。腰の入った良いパンチだったよ」


 嫌な記憶が脳裏を駆け巡っているんだろう。頬を擦りながら三枝先輩は黄昏れた。


「実にカッコ悪い話だが、鼻血を流して私はノックアウトさ。惨めに床に這いつくばった私を見下ろし、夢乃の奴なんて言ったと思う?」

「いえ、それも聞いたことないです」

「あなたに咲夜の何がわかるんですか! って叫んだんだ。目尻に一杯涙をためてな。まったく、意味わかんねえ」


 そんなことが。上手く言葉を返せない。 


「この暴力沙汰が原因となって、夢乃も私もアンコンのメンバーから外される結果になった。更に夢乃に至っては、コンクールでのソロパートも白紙撤回させられた」


 これで全部わかった。明日香ちゃんは、ソロパートを外された理由を自身の不調にあると語っていたが、それも全て嘘だったんだ。

 ふう、と三枝先輩は小さく息を吐き出した。飲み干した空き缶を屑籠に放り込むと、ガランと乾いた音が響き渡る。


「これが、お前が辞めた後に起こった出来事の全てだ。正直言って夢乃の奴も、私のことを恨んでいるだろうね」


 先輩は顔を上げると、「もういいか?」と尋ねてくる。「ハイ、言いにくいことを話して頂いて、有難うございました」と私が殊勝に頭を下げると、じゃあな、と言って彼女は去って行った。


 無人となったベンチに腰を下ろし、呆然と空を見上げる。

 雲ひとつ無く、澄み渡った青空が眼前に広がっていた。だが、私の心はそれほど晴れそうにない。

 事情を何も知らない人から見れば、三枝先輩と明日香ちゃんが、アンコンのメンバー入りを巡って争った事件に映ることだろう。だが本質は違う。明日香ちゃんは自分の為ではなく、私の名誉を守るため。それ以上、三枝先輩の嫌がらせがエスカレートせぬよう、手を上げ立ち向かってくれたんだ。

 自身に降りかかるであろう不利益も、省みずだ。

 なんてことだ。とてもじゃないけれど、知らなかった、で済まされるような案件じゃない。

 自責の念がきりきりと音を立てて胸の内を鋭く抉る。私は彼女の告白をちゃんと受け止めて、熟考した上で答えを出してあげなくちゃいけない。


 その日の夜。お風呂上り。鏡台の前に腰かけ、ドライヤーで髪を乾かしながら私は思う。

 そう言えば最近、鏡を覗き込む機会が増えたなあ、と。高校に入学した当初は身だしなみに気を遣う習慣が薄く、髪の毛ですら軽くブラッシングする程度だったはずなのに。

 私が変われたのも……先輩の、おかげなのかな。

 そんな事を考えながら眉毛を整えている時、スマホが突然軽快な音を奏でた。画面に表示されているのは、『今泉京』の文字。

 右手で眉毛バサミを器用に動かしながら、左手でスマホを拾い上げて応答した。


「もしもし」

『ごめん、咲夜。今、大丈夫?』

「はい。大丈夫ですよ」


 電話の内容は、夏休みに入ったら部活のメンバー全員で、気晴らしに遊びに行こうよ、というものだった。目的地は、八景島シーパラダイス。「え、二人きりじゃないんですか?」とお約束で拗ねてみせると、「発案者は部長だから」とバツが悪そうに先輩が言う。


『埋め合わせは、後で必ずするから』

 彼の言葉に、「ふふ」と私の口から自然に笑みが零れた。「分かりました。楽しみにしてますね」


 話を締めくくると同時に通話が切れた。途端に、強い罪悪感が総出で私を襲う。

 ごめんなさい、先輩。ここ数日間、私の心はずっと浮ついたままなんです。

 先輩を想う恋情と、明日香ちゃんを想う友情と。彼女の告白に対する答えも導き出せぬまま、二つの感情の狭間で浮き沈みする私の心。自分の感情のはずなのに、なんだか自分のものじゃないみたい。

 むしろ、埋め合わせをしなくちゃならないのは私の方だ。

 こみ上げてくる罪悪感が溢れそうになったその時、スマホがもう一度着信を知らせる。

 絨毯から拾い上げて画面を見ると、今度の相手は明日香ちゃんだ。急激に暴れはじめた鼓動を宥め、電話に応答する。


「もしもし」

『あ、もしもし咲夜? 夜遅くなってからゴメンね。今、電話大丈夫かな?』

「うん、大丈夫だよ。……どうしたの?」

『ちょっと急な話なんだけど……。これから咲夜の家に、お泊りに行ってもいいかな?』

「え……?」


 電話口の明日香ちゃんに聞こえちゃうんじゃないかと心配になる程、ゴクリと喉が鳴った。一瞬頭に浮かんだ逃げ口上を追い払う。

 逃げちゃダメだ。加護咲夜。


「私は別に構わないよ。親にも話しておくね。じゃあ、待ってる」

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