Part.40『彼女の想い』

 自宅を目指して歩く道すがらの住宅街。アブラゼミが耳障りなノイズを奏でる中、控えめにヒグラシのカナカナが混じり合っていた。

 季節は既に七月半ば。

 夏休みまで後一週間ほど、という時期にもなると、夕暮れ刻迫る空の下でも蒸し暑い外気が残滓ざんしの如く残っており、ただ歩いてるだけでも背中に汗が伝うほどだ。「あっつーい」とスカートの裾をパタパタと仰ぐと、「はしたない」と明日香ちゃんにとがめられる。

 あれ、なんか軽くデジャブ。


「この間は、迅速に駆けつけてくれてありがとね」


 頬の火照りを沈めるように、手のひらで顔を仰いでいる明日香ちゃんに、改めて先日の礼を言う。


「いえいえそんな。事前に暗号を決めようと提案した、咲夜のアイディアあってのことですよ」


 喫茶店での騒動から二日が経過してなお、こうして自分が生きていることをしみじみ実感してホっとしてしまう。


「なんだか、本当にごめんね」


 もう、何度目かも分からない感謝を伝えると、


「もう謝らないでってば。私は別になにもしていない。騒動の裏側で上手く駆け引きしてたのは全部咲夜だし、咲夜が勇気を振り絞って行動してくれなければ、私、死んでたかもしんない」


 どこか謙遜した口調で、明日香ちゃんは身震いしてみせた。


 明日香ちゃんの首筋にマスターの太い腕が食い込んだ瞬間、彼女は確かに死を覚悟したのかもしれない。背後にある男の顔面に何度拳を叩き込んでも拘束する腕は緩むことがなく、彼女の顔が土気色に変わっていく中、私はマスターの胸元にスタンガンを押し当てそこから形勢は再度逆転。

 明日香ちゃんの蹴りが二度、三度と立て続けにマスターの顔面を捉える中、ようやく到着した警察官達がなだれ込んできて、現場にいた和也さんとその一味は全員がお縄となった。

「やりすぎだよ」と腫れ上がったマスターの顔を見て、芳香さんが再び青褪めたのはついでの話。

「それにしても、こんなに切迫してる状況だってどうして分かったの?」という芳香さんの問いに、ようやく緊張が溶けた私が、明日香ちゃんに代わって答えた。


「明日香ちゃんに送信したメッセージに添えてあった、平仮名の『きっさてん』。あれが警察を意味する暗号だったんだよ。だから文面からは直接読み取れないけど、『一時間以内に連絡がなければ、警察に通報して下さい』の意味になってた」


 もう少し詳しく説明すると、か行で始まる文字を意図的に平仮名で送信した時、緊急、若しくは警察を意味するメッセージだとあらかじめ決めておいたのだ。容易に助けを呼べない状況に陥ることを想定して事前準備ができたのも、和也さんが危険人物だと知っていたからこそ、だろうか。この点に関していえば、敢えて目立つようにと派手に動いた和也さんの計略が、裏目にでた格好だ。

 ただし、明日香ちゃん曰く、結構大変だったらしい。

 彼女が何度事情を説明しても警察はまともに取り合ってくれず、已む無く説得を一旦諦め、喫茶「ノワール」の住所を調べて現場に急行。

 喫茶店の入口付近の窓から中の様子を確認して、撮った写真を未来さんに転送。未来さんが警察に通報したのを確認してから店内に踏み込んだ。先輩が人質にとられている上犯人は凶器も所持していた為、万一を考え無闇矢鱈と騒ぎ立てずに単身で。思惑通り、というか、彼らは明日香ちゃんを見た目で判断して見くびったのが、あの結果を生んだのである。本当に素晴らしい機転と行動力。


 明日香ちゃんは強くなった西日に目を細めながら、

「それにしても、表彰とか参っちゃうね」

 と言った。

「参っちゃうね」

 同じ言葉で返すと、昨日、学校を出る時に未来さんに掛けられた言葉を思い出した。


『最近、誘拐事件が起きたばかりだから、十分に気をつけてね?』


 先日テレビで報道されていた、恐らく誘拐だろうと噂されていた女子中学生の失踪事件にも、和也さんが関わっていたのだ。彼がまた別の名義で借りていたマンションに踏み込んだ所、監禁されていた女子中学生が見付かった。それ以外にも、近年未解決事件として報道されていた、幾つかの詐欺・窃盗事件への関与など、様々な余罪が露呈する。

 こうして私と明日香ちゃんは、警察も全容を掴めていなかった犯罪グループの懐に潜入し、かつ撃退したお手柄の女子高生として後日表彰される運びとなった訳だ。

 茶化してくる佐藤兄妹の姿が目に浮かぶよう。本当に勘弁して欲しい。

 それは兎も角として。ボイスレコーダーを借りに行ったあの日、事件性を危惧してスタンガンまで貸してくれた店長には頭が上がらない。後日ちゃんと、お礼を言わなくちゃ。


「それにしてもさ、明日香ちゃんも無茶するよね。警察が駆けつけるまで、店の外で待ってれば良かったのに」

 私が思い出し笑いをすると、

「無理でしょ」

 と彼女は即答した。思いもよらぬ強い口調で。

「え?」

「男の前でスカートをたくし上げてパンツ見せるとか、有り得ないでしょ」

「明日香ちゃん、声、大きい……」


 夕方の住宅街には、今日も人の姿はない。けど、改めて指摘されるとなんだかとても恥ずかしい。


「それに、チラっとしか見られてないから」


 でもそれは、明日香ちゃんのおかげ。都合が悪くて、語尾は自然と弱くなった。


「チラっとでも、パンツはパンツです!」

「ね。この話、もう止めにしようよ」


 ひと気がない場所とはいえ、下着の名前を連呼されるのは流石に抵抗がある。

 その時不意に、明日香ちゃんの足がぴたりと止まる。釣られて私も立ち止まると、彼女は口元に手を添えうっとりとした顔で瞼を閉じた。


「私ね……」


 どことなく、儚さすら漂う彼女の横顔に、心臓が小さく跳ねた。


「咲夜に何かあったらと思うと胸が張り裂けそうになっちゃって、居ても立ってもいられなくなっちゃったんだ」

「明日香ちゃん……」


 幼少期からずっと、私は明日香ちゃんに依存してきた。だから彼女がこんなにも私の事を気に掛けてくれていたことを、素直に嬉しいと思った。とは言っても、彼女の好意に甘えてばかりじゃダメなんだろうけど。

 改めて親友の有り難みを認識すると、自然と熱を帯びてゆく頬。彼女は湛えていた微笑を静かに引き取ると、続けてポツリポツリと語り始めた。


「私ね。咲夜が居なくなったら、たぶん、もう、ダメなんだと思う。勝手に足が動いたのも、そのせい、なんだよ」


 たどたどしく紡がれる彼女の言葉。

 不自然な程に弱々しい声音に感情の振幅を感じ取り、明日香ちゃんの顔に視線が張り付く。彼女もこちらを向いていたため、意図せず二人の視線がぶつかった。


「そんなの、私だって一緒だよ。私はいつも、明日香ちゃんに助けられてばかりだから、それこそ、恥ずかしいよ」


 郷愁きょうしゅうっていうくらいの軽い羞恥を覚えて、ふいと視線を逸らした。


「そんなことない。救われてるのは私も同じ」


 囁くような彼女の声が、湿気を帯びた夏の大気と交じり合う。


「中学の時だってそうだったし。ほら、この間、中学の吹奏楽部でトランペットを吹けなくなった時の話を教えたでしょ?」


 夕焼け空を綺麗に映した、二重瞼の瞳がこちらに向いた。


「そういえば、そんな話を聞いたね。明日香ちゃんの実力を考えると、今でも信じられないって思うけど」

「私の不調の原因ってたぶん、咲夜が吹奏楽部に居なくなったから、なんだよ」

「え、私!?」


 予想外の言葉に驚いて、逸らしていた瞳を再び向けた。トンビの鳴く声が、頭上からピーヒョロと響いた。


「そうだよ。だって、咲夜の居なくなった吹奏楽部なんて、なんの価値もなかったんだもん。続ける意味なんて見いだせなかったし、本当は途中で辞めるつもりだった。でもさ……三枝先輩が、咲夜が居なくなった後も、あること無いこと悪口を捏造しては吹聴して回るもんだからさ、ここで私が辞めたらもっと付け上がらせてしまうな、と思ってね。なんだか、辞めるに辞められなくなっちゃったよ」


 自嘲気味に笑い、明日香ちゃんが再び歩き始める。私も、彼女と歩調を合わせて歩き出す。そうか、私が辞めてしまった後も、彼女は三枝先輩の暴挙に立ち向かってくれてたんだ。彼女に対する後ろめたさと胸の痛みが、また少しだけ強くなる。

 でも、ちょっとだけ意外だな、と私は思う。

 私が明日香ちゃんに寄りかかってしまうのは今に始まった話でもないが、友達の多い彼女は、私に依存する理由等ないと思うのだが。


「じゃあ、ソロパートを外された原因は精神的な理由で吹けなくなった事……じゃなくて、むしろ、私のせい……なのかな?」

「あはは。そんなの気にしないで。別に咲夜は何も悪いことしてないじゃん。私が勝手に落ち込んで、勝手に憤っていただけ」


 段々と語尾を濁し、最後に一言だけ彼女は口添えた。「ま、色々あったしね」、と。

 彼女の顔に憂愁の影が差す。加えて明日香ちゃんが口にした『色々』のフレーズ。吹奏楽部の話題を出してはみたものの、これ以上の詮索はして欲しくないと彼女は予防線を張っている。それでも──。


「何か、揉め事でも起きたの?」


 敢えて訊ねてみた。たとえ話しにくい事情があったとしても、私たちは親友なのだから、何かしら回答を示してくれるものだと思ってた。


「まあ、三枝先輩とは色々ね。だってさ、咲夜も知っての通りあの性格だよ? そりゃ、揉め事も起こりますよ」


 ここで一度言葉を切り、数秒思案したのち、彼女は苦々しく笑った。


「でも、ホントごめんね。もう昔の話だから」


 益々曇った表情。寂しそうな響きの声と言い淀んだ彼女の様子に、それ以上は突っ込んで訊けなくなってしまう。


「ねえ、咲夜」

「うん」

「今泉先輩と付き合ってるって、本当?」

 核心をついた質問に、心臓が、どくんと跳ねた。「あ……うん」

「もう、キスした?」

「え……うん……した」


 先日、先輩を部屋に招いて交わした、恋人らしい行為の数々を思い出してサっと顔が熱を帯びる。それは大人のカップルからしてみれば、他愛もないじゃれ合いのようなものなのだろうけど、私にとっては大事件だ。日が強く西に傾いたことで薄暗くなってきた住宅街。次第に迫る夕闇は、私の顔色の変化を上手い事隠してくれるだろうか?


「そっか~、先を越されちゃったのか~」と明日香ちゃんは、オレンジ色の空に向かって叫びを放った。


 瞬間、氷水でも飲んだように心が冷え込んだ。直接言葉にこそ出していないが、彼女も先輩のことが好きなんだ、と直感した。

 先輩は、多少の打撲こそしていたものの、大事に至るような怪我もなかった。しかし彼の寿命は、変わることなく一年のまま。つまり今回の事件は、彼の死因とは無関係だったという話。それでも、私は落胆していない。『あんまり無茶したらダメですよ』と泣きながら私が抱きつくと、『ごめんな』と謝り彼も私を抱き締めてくれたのだから。彼が無事であるという、ただそれだけの事が、今は何よりも嬉しかった。

 改めて惚れ直すというのは、きっとこういう気持ちなのかな。

 でも──


「ごめんね。明日香ちゃんの気持ち、全然気付いてなかった」


 思えば昨日も、抱き合う私たちの姿を、彼女は複雑な顔で見つめてた。

 すると彼女は頬を膨らませ、私の方に顔を向ける。


「ほんとだよ。咲夜はいつもいつも、鈍感なんだもん」


 ちょっとだけ、拗ねたような口調。


「ごめんね」

「……咲夜はいつだってそう。私の気持ちになんて、全然気付いてくれない」


 明日香ちゃんの足が再び止まる。気が付くといつの間にか、毎日別れる交差点まで辿り着いていた。こちらに向いた紫紺の瞳の中心で、私の姿がゆらゆらと揺れ動いた。


「でも、私はまだ、諦めてないから」


 宣言するような強い口調。真剣な眼差しから、目を逸らせない私。心臓が、もう一度大きく跳ねた。


「女の子だから、とか。男の子だから、とか。そういうの、私は気にしないから。私は自分の気持ちを大切にしたい。もう──嘘をつき続けるのは辛いの」


 覚悟の色が滲んだ彼女の瞳は、僅かな憂いを湛えつつも、綺麗な光を解き放つ。ゆっくりと彼女が身を寄せてくるが、蛇に睨まれた蛙の如く私は動けない。なんとなく気圧されて後ずさると、とん、と背中が誰かの家の塀に触れた。


「私、咲夜のことが好き」


 彼女が放ったソプラノの響きが、湿気を帯びた空気と混じり合って溶けた。

 私も明日香ちゃんのことが好きだよ、と言おうとして、でも、言えなかった。彼女が言っている『好き』とは、根本から意味が異なるような気がして、結局、口を噤んでしまう。

 最終的に、二人の身体は完全に密着した。凄く柔らかい。甘くていい香りがする。鼓動が伝わってくる。速くて、強い鼓動だ。それが私の心音なのか、彼女の心音なのか分からない。彼女の顔は、更に近づいてくる。


「あすかちゃ……」


 怯えたような声を漏らした私の頬に、彼女の手のひらが添えられる。


「ゴメンね」


 囁くような謝罪の言葉が、私の鼓膜を優しく叩いた。


 次の瞬間──私達の唇が、静かに重なった。


 先輩のものより、もっとふっくらとした感触。触れ合った衣服越しに伝わる明日香ちゃんの体温と、はらりと舞った長い髪からわき立った甘い香りが、まるで麻薬のように私の脳内を蝕んでいく。

 どうしてだろう。抗うことは、できなかった。

 女の子とキスをしている自分を認識すると、目、閉じなくちゃ、と心だけが焦っていく。

 でも、それもなんだか違う気がして、結局は開いたままになった。交差点に設置されたカーブミラーに、唇を重ねている二人の姿が映ってる。

 どれくらいの時間、私達はキスをしていたのだろう。

 やがてゆっくりと唇が離れた。澄んだ紫紺の瞳は、私を捉えて離さない。明日香ちゃんは、悪戯っ子のように瞳を細めた。


「私の言う『好き』はね。咲夜とエッチなことがしたい、『好き』なんだ」


 ここまで愚直に想いを告げられ、意味を取り違える程私だって馬鹿じゃない。初めて告げられた彼女の本心に、心臓は最早限界まで強く脈打ち、向けられた彼女の瞳を、ただ真っすぐ見返すことしかできない。

 何事もなかったかのように明日香ちゃんは背を向けると、一転して明るい声を出した。


「遅くなるから、もうかえろ?」

「あ……うん」


 気の利かない台詞だと自覚している。しているのに、こんなことしか言えない自分がもどかしい。

 彼女はこちらに顔を向けることもなく「忘れてね」と独り言のように呟いた。私が何も返せず押し黙っていると、「冗談だから」と弱った笑みを浮かべた。

 けれど冗談なんかじゃないのは、彼女の歪んだ表情が、雄弁に物語っていた。


 夕日に照らされて赤くなった君の頬が。


 困ったように、弧を描いて垂れ下がった眉の端が。


 忘れることなんて──できるはずがない。

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