Part.38『対決』

「ん~~~~!!」


 先輩の呻き声が、より一層大きくなって聞こえてくるが、気に留めないよう心を殺して身を屈めると、スカートの裾に手を掛けた。

 椅子に腰かけたままゆっくりめくり上げていくと、すねから膝。次第に太ももまでが露わになっていく。


「ここからじゃ見えねえぞ」


 わざと右膝を数センチ浮かせてカウンターの方から見えにくい様演出すると、案の定マスターの男性が、手に持っていたナイフをカウンターに置いてこちらに近寄ってきた。

 よしいいぞ、計画通り。

 頬に喜色が浮かばぬよう、何食わぬ顔でスカートをめくり、反対の手をポケットの中に入れた。和也さんもテーブルに手をつき身を乗り出してくる。

 まだ早い。もっと二人の注目を集めないといけない。チャンスは一度切りしかないのだから、慎重に。

 スカートが更にたくし上がり、下着のクロッチ部分が覗いたその時、喫茶店の扉が荒々しく開くと同時に甲高いソプラノの声が店内に響いた。


「お楽しみのところ悪いんですが! 咲夜のパンツを拝んでいいのは、私だけなんですからね? 知ってましたか!?」


 全員の視線が喫茶店の入口へと集中する。

 開いた扉の向こうに立っていたのは、ブレザーの制服を着た可憐な女子高生。こちらに指を突きつけ凛と佇む彼女の胸元で、鮮やかな緑色のリボンが揺れる。瞬間吹き込んできた爽やかな風が、ウェーブの掛かった長い髪を軽やかに舞い上げた。


「明日香ちゃん!」


 私が名前を呼ぶと、彼女は二人の男に油断なく視線を留めたまま、笑顔で応じた。


「まったせーたね咲夜! よく頑張った」


 緊張感を漂わせ、浮足立った男達だが、現れたのが華奢な女子高生一人だと認識すると、嘲りの表情を浮かべて元の位置に直った。

「ビビらせんなよ。警察かと思ったじゃねぇか」とマスターが安堵の声を漏らす。一方で和也さんは「玄関には鍵が掛かっていたはずだが? どうやって扉を開けた?」と冷静に問いかけた。


「鍵って、これのことかしら?」


 右手に握り締めていた物を、ポイっと明日香ちゃんが放り投げる。チャリンという金属音を響かせ木目の床に落ちたのは、金色の鍵だ。


「どうなっていやがる……!」


 鍵と彼女を交互に見つめ、和也さんが忌々し気に呟いた。


「おい、女子高生」

「はーい?」

「どうやってコイツと連絡を取り合った? それに、表に見張りが一人いたはずだがアイツはどうした? その鍵は、見張りのアイツが持っていたはずなんだが」


 明日香ちゃんはわざとらしく視線を斜め上に逸らす。腰に手を当て他人事ひとごとのように口上を並べた。


「一つめの質問に対する回答。ノーコメント。二つめ。見張りというのが、階段の下で茫然と突っ立っていた中年体型の男のことを指すのでしたら、今頃は夢の中です。ですが、心配はご無用。過度に騒ぎが大きくならぬよう、手短に気絶させておきましたので。まあ、そのうち目を覚ますでしょう」

「くそっ、あの役立たずめ……」


 和也さんが、苦虫をかみ潰したような顔をした。「おい」と彼が呼びかけるより早く、マスターが動いた。


「警察に通報していないだろうな?」


 明日香ちゃんの方に迫りつつ、マスターが高圧的な態度と口調で問いかける。


「どーですかね? こんな状況を見てしまいましたからね。ちょっと保証はできかねますね。でも、通報したかと訊かれて、ハイしました、なんて正直に答えるようなお人好しに見えますかね──私?」


 朗らかなトーンから始まり、徐々にナイフのように鋭さを増していく明日香ちゃんの口調。「コイツ……」とマスターの顔がいよいよ険しいものに変わる。


「通報していたとしても、所詮小娘の戯言だ。誰も信じやしない」


 自分に言い聞かせるように、和也さんが鼻を鳴らして笑う。だが反面、彼の顔には明らかな焦燥の色が浮かんで見えた。

 たぶん、私が喫茶店にやってくるかどうかも、彼らの中では賭けであっただろう。だから、まんまと私をおびき出した今の状況を逃したくないと考え焦っているんだ。明日香ちゃんに注意が向いているいま、絶対に何らかの綻びを見せるはず。

 逃げるチャンスは──そこに生じる。


「随分と強気だけど、夢乃さん、本当に大丈夫なの」


 斜向かいの芳香さんが、潜めた声で尋ねてくる。悪い想像をしているのだろう。額には脂汗が滲み既に顔面蒼白だ。


「相手が並の男ならね。彼女ああ見えて、極真流空手黒帯だから。小六のとき、少年部の神奈川県王者チャンピオン

「マジで?」


 囁くように意見交換をする。かくいう私も不安だった。明日香ちゃんは空手を辞めてから数年経ちブランクがあるし、あのマスターの男性が、何らかの格闘技をかじっているであろう事も間違いない。

 マスターは半身の体勢を維持したまま、油断なく彼女との距離を詰めていく。相手が女子高生とはいえ、短時間で見張りの男を圧倒した事実と立ち居振る舞いから、只者ではないと判断したのだろう。


「本当はもう少しの間、ひるんでて欲しかったんだけどなぁ……」


 明日香ちゃんの表情が、真剣なものになる。壁との距離を推し測りつつ、広いエントランススペースに相手を誘い込む様、すり足で移動していく。


「さっさと済ませろ! そんな小娘など秒で片付けてズラかるぞ」


 苛立ったような和也さんの激が飛ぶ。マスターは頷くと、テーブルのひとつを寄せてエントランス周辺の空間を更に広く取った。

 ここで存分にやろうぜ、とでも言いたげに、彼女に目配せを送る。明日香ちゃんは一つ息を吐き、腰を落として迎撃態勢を整えた。

 直後、二人の視線が正面から一瞬交錯。それが、戦いの火蓋が切って落とされた合図だった。

 マスターが飛ぶように距離を縮めると、そこは狭い店内のこと。瞬く間に明日香ちゃんの眼前だ。


「ちっ」


 舌打ち一つ。マスターの左ストレートを身を捩ってかわすと、彼女は壁を蹴って三角飛びの要領で彼の背後に回り込む。

 マスターが振り返るのと、床に着いた右足を軸に明日香ちゃんの左回し蹴りが放たれたのは同時だった。

 中空を切り裂く左足。

 しかし彼も、ひじを立ててなんとか防ぐ。


「やるわね」


 彼女の口元がニヤリと歪んだ。

 壁を背負わぬよう、円を描きつつ彼女がステップを刻むと、逃がさんとばかりにマスターも追う。

 明日香ちゃんはマスターの突進を止めるべく左のジャブを数発置いた。しかし彼は肘を立ててガードすると、お返しとばかりにジャブを二つ繰り出した。明日香ちゃんがガードを固めて防ぐもやはり体重差が大きい。押されてバランスを崩したところに、マスターの右拳が曲線的な軌道で放たれた。

 防ぎきれないと判断した明日香ちゃんが、身を屈めてその攻撃をかい潜る。下げた頭の上を、マスターの右フックが唸りを上げて通過していった。


 ──そうか、ボクシング。


 マスターの腰が入ったパンチを見て、そう判断した。

 明日香ちゃんは腰を落とした姿勢を維持したまま、マスターのすねを目掛けて左のローキックを二発連続で放つ。彼が嫌がって右ひざを上げてカットした瞬間、待ってましたとばかりに右の前蹴りを渾身の力で打ち込んだ。

 マスターの体が堪らず後方に飛ばされる。

 テーブルの角に激突、と思われた瞬間マスターは跳躍すると、テーブルの上に飛び乗った。

 調味料などの小瓶が散乱。テーブルの下で響く破砕音。

 マスターが広いスペースに飛び降りた瞬間を狙って、明日香ちゃんは右正拳突きを打ち込んだ。ガードの上から襲ってくる衝撃に、マスターの顔も苦痛に歪む。

 その後も何度か激しく拳が交錯するが、お互いにガードが固くて有効打には至らない。

 マスターのパンチを見切って躱すと、明日香ちゃんの下段から中段に繋がるコンビネーションキックが、立て続けにマスターの体を捉える。


「このアマぁ……!」


 次第に焦りが見え始めるマスターの顔。

 飛沫となって舞う二人の汗。


「凄い……!」


 畳み掛けるような連撃に、芳香さんから驚嘆の声が上がる。


「何をやっていやがる」


 一方で和也さんは、二人の攻防を注視しながら歯噛みした。

 スピードと蹴り技でなら彼女に一日の長がある、と私のボルテージが上がったのも束の間、マスターが放った反撃の拳が、ガードの上から彼女の顔面付近を捉えた。

 バランスを崩し、けれど、しっかり踏ん張った彼女に、マスターは拳ではなく全体重を乗せた渾身の前蹴りを放った。

 予想と違った攻撃に、明日香ちゃんの反応も一瞬遅れる。かわしきれずに両腕でガードをするも、小柄な彼女の体は堪え切れず大きく後方に弾かれた。追撃に伸びてきたマスターの右ストレートを、彼女はスウェーして避けると、体勢を落とし体を回転させながらの足払いを放った。

 この一撃は完全に両の足首を捉え、マスターが大きくバランスを崩す。

 素早く身を起こした明日香ちゃんの中段回し蹴りが続け様にマスターの脇腹を捉えると、口元を歪めて彼が背を丸めた。頭が下がった好機を見逃す明日香ちゃんではない。渾身の左上段蹴りがマスターの側頭部を狙って一閃される。

 はためくスカートの裾。

 弧を描く軌道──直撃!

 と思われた一撃は、しかし、拳ひとつでギリギリ遮られていた。


「惜しい!」

「くそっ、ホントに強いのね」


 私の叫びに続いて明日香ちゃんの呟きが落ちる。

 しかし大技を放った後だけに、明日香ちゃんにも一瞬の隙が生じる。真っ直ぐ彼女の方に突き出されたマスターの左腕が、ブラウスの襟首をがっしりと掴んだ。そのまま体重差を活かして押し倒そうというのだろう。


「こいつ……!」


 上がる呻き。弾けるブラウスのボタン。

 少々力が強すぎたのだろう。ブラウスのボタンが弾け飛んだことで、胸元を掴む彼の手の拘束が僅かに緩む。生じた僅かな隙を、明日香ちゃんが逆手に取って反撃に転じる。

 男の腕を強く引き抱え込むように両手で掴むと、飛びつくようにして片足を相手の脇の下へ、もう片足を首を刈るように振り上げて頭の後ろにかけ、全体重をかけてぶら下がった。

 腕挫十字固うでひしぎじゅうじがための体勢。

 しかしそこは、軽量の明日香ちゃんのこと。マスターは両脚で踏ん張ると、左腕一本で彼女を持ち上げるようにして支え、勢いもそのままに彼女の背中を喫茶店の壁にぶち当てた。


「あ、がぁ……!」


 部屋中を揺るがす振動。

 背中から襲ってくる激痛に明日香ちゃんの顔は歪み、拘束していた腕の力も僅かに緩む。

 狭い部屋の中じゃなかったら、技は完全に極まったはずなのに、と口惜しく思う。

 マスターは明日香ちゃんの体を床に叩きつけると、力尽くで腕を引き抜き、素早く彼女の首に回した。そのまま裸締めチョークスリーパーの体勢に入ろうと試みる。

 明日香ちゃんもそうはさせじと体を半身にして捻り、絡み付いてくる腕の間に拳を割って入れる。だがいかんせん、膂力りょりょくの差が大きすぎる。このままでは技が極まってしまうのも時間の問題だ。


「勝負あったか」


 和也さんの注意が、二人の攻防からカウンターに置かれたままのナイフに向いたタイミングで、先輩が動いた。両の手足を縛られたまま、それでも這いずるように明日香ちゃんの救出に向かう。


「小僧!」


 和也さんが先輩の方に走り出したその時、私の眼前に彼の無防備な背中が晒された。ここで私も、遂に動く覚悟を決める。

 先ほどから左手で握っていたを、素早くポケットから出すと和也さんの背中に押し当てた。


「ぐごぉがぁぁぁーーーーーーーーーーーー!!」


 和也さんの凄まじい絶叫と共に、スーツの生地が焦げる匂いが立ち込める。全身を駆け抜ける激烈な衝撃に、和也さんの体は弛緩してたまらずくずおれた。

 まだ気絶はしていない。でも、店長から借りてたスティック式のスタンガンがようやく役に立った。状況が一変したことで弾かれるように飛び出した芳香さんが、先輩の方に向かうのを横目で見ながら、驚愕の顔をこちらに向けたマスターとの距離を一息で埋める。


「うわああああ!」


 叫び声とともに、マスターの胸元にスタンガンを押し付けた。

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