Part.35『トリック』
傷ついたのね。
苦しかったのね。
でも大丈夫。お母さんが、力になるから、ね?
不意に、思い出した母親の言葉。
『落ち着け加護。仮にそうだとしても、俺たちは三人いるんだ。手分けして捜せばまだ間に合う』
そうだね分かってる。
私はもう、一人ぼっちなんかじゃない。
今度は私が──あなたを助ける。
* * *
根岸駅の構内に到着すると、改札前のコンコースに優香さんが佇んでいた。左右に視線を配っていた彼女だったが、私の姿を認めると、笑顔で手を振り出迎えた。
「お待たせしてしまいましたか?」とこちらから声を掛けると、「そんなことはないですよ」と彼女は破顔した。
シンプルなデザインの白いブラウスに、
……ダメだ。優香さんの寿命、一年のままで変化がない。つまり、ストーカー事件は未解決、というか、彼女の運命を変えられていないという意味だ。どうして? 先程から胸中で渦を巻く不安は、新たな心配事を巻き込んでより一層深くなる。
「お話をする場所ですが……」と提案を始めた優香さんの言葉を途中で遮った。「それなんですが、私が知っている喫茶店でもいいでしょうか?」
住所以外知りませんけどね。不審に思われぬよう、平静を装い店名を述べると、「それで構いませんよ」と優香さんはあっさり同意した。
「ありがとうございます」と頭を下げ、二人並んで歩き始める。
指定された住所をスマホの地図アプリで確認しながら辿り着いた場所は、築年数を感じさせる、一棟の閑散としたビルだった。外壁には縦方向の雨染みが幾つも刻まれており、元々白かったであろう色はすっかりくすんで灰色だ。
予想以上にパッとしない景観だ、と眉をひそめた私を他所に、「この上でしょうか?」と優香さんが指をさす。彼女が指す方向には、外壁を沿うように設置された金属製の細い階段があった。
「ええ、多分」と何の気なしに呟いて、失言だったと口を塞いだ。
こんなひと気のないビルの二階に、本当に喫茶店などあるんだろうか、と戸惑う私の予測に反して、階段を上り切った先に店の入口はあった。木製の扉が一つ備えられ、扉の脇に喫茶『ノワール』と書かれた看板も立てられている。
本当にあるんだ意外だな、と感心している暇もなく、優香さんは扉を開けて中に入って行った。慌てて彼女の後を追いかける。
思いのほか広い店内に居たのは二人。カウンター席の最奥に座っている、眼鏡を掛けた実直そうな顔立ちの青年と、カウンターに立つマスターらしき長身の若年男性。マスターがこちらに気付いて会釈をした。
広いエントランススペース脇のショーケースには、ショートケーキが複数並べられており、カウンター席の他に四人掛けのテーブル席が三つある。
幾つかの観葉植物が配置されている反面、壁には一切の飾り気がなく、シンプルを通り越していっそ殺風景だ。静寂に満たされた空間に、まるで、予約制の高級料亭に間違えて入店した時のような場違い感を覚える。
取り敢えず、和也さん……というか、先輩のスマホから怪しいメッセージを送ってきた人物は居なさそう。
やや拍子抜けしながらも、強張っていた体の力を抜いた。先輩の姿を確認できなかったのは残念だが、最悪の結末をいきなり突きつけられなかった事に心
どの席に座ろうか、と思案する私を置き去りにして、優香さんは店内をどんどん進む。一番奥のテーブル席に腰を下ろすと、私に手招きをして向かい側に座るよう促した。
優香さんって、こんなにアクティブな人だったかな。首を傾げ座ったタイミングで、マスターの男性がやって来る。「いらっしゃいませ」と言いながら、テーブルの上にお水とメニューを並べた。「注文が決まりましたら、お呼び下さい」
会釈をし、マスターはカウンタ―の奥に戻って行った。
「ところで優香さん。相談事ってなんですか」
こうしている間にも、次の指示が飛んでくるかもしれない。直ぐに気付けるよう、ポケットの中でスマホを握りしめたまま優香さんに尋ねた。しかし彼女は私と目を合わせる事なく、カウンターに座っている男性客に声を掛けた。
「ほら、約束通り加護さん連れてきたよ。これで私の事信じてくれるでしょ?」
え、優香さんの知り合いだったの? 予想外の言葉に驚き顔をあげると、グレーのスーツを隙なく着こなした男性が、ゆっくりと体をこちらに向けた。
「ああ、ご苦労だったな」
男性は優香さんに労いの言葉をかけ、私と目を合わせた。
「初めまして、和也です。噂は色々と、耳にしていることとは存じますが」
「和也……さん!?」
不遜な態度を見せたこの男性が、
「どうして──」
動揺から心臓が強く脈打った。
困惑を深める私の反応など歯牙にもかけず、和也さんは続けて言った。
「理解できない、って顔をしているな」
私の内心を見透かしたような言葉。
「ちょっと待って……。そんなことは有り得ない」
「なんで、この人の寿命が見えないの? って顔をしているな?」
「……」
完全に図星だった。返す言葉を失ってしまう。そう、和也さんの指摘通り、何度目を凝らしたところで彼の寿命は見えなかった。どうして……? 違和感が真っ黒な
それに、気のせいだろうか。和也さんの顔、どこかで見た気がするのだが。
「俺の顔をどこか見たことがあるな、と記憶の糸を手繰っているだろう?」
「……!」
尚も重ねられる和也さんの指摘に、本当に心を読まれているの? と全身の毛が逆立った。
まさか、そんなはずはないでしょ。
どうせハッタリに決まってる。
そんな私の反応を見て楽しむように、彼は愉悦の表情を浮かべ高笑いした。
「ははは心配するな。本当に君の心を読んだ訳じゃない。顔色の変化から予測して、カマを掛けただけだよ。但し……俺の寿命が見えないのは、本当だろう?」
嘘をでっちあげた所で、どうせバレてしまうのだろう。私は観念して頷いた。
「その通りです。正直、寿命が見えないのは自分と両親だけだと思っていたので、驚いているところです」
だろうな、と言って和也さんは、満足気に頷いた。
「では、あなたが私をこの場所に呼び出した、という認識でいいんでしょうか?」
「無論」
彼は頷くと、席を立って私達がいるボックス席に移動してくる。優香さんが座席を詰めると、和也さんは私の向かい側に腰を落ち着けた。
「優香さん。これはどういう事なんですか?」
憤りの声を
「加護君はまだ勘違いをしているようだ。
一度聞き流した後で、文脈に違和感を見つけ驚嘆した。和也さんが呼んだのは、優香さんの妹──芳香さんの名前。
「そんな、芳香って……どういう事ですか?」
真偽を確かめるため優香さんの顔色をうかがうと、彼女は微笑を湛えで後頭部に手をそえる。髪の毛を掴んで頭を左右に振ると、弾みで長い頭髪の一部が抜け落ちた。
いや、正しく言えば、抜け落ちた訳ではなかった。
「エクステンション……!」
「そうだよ。先日、ストーカー被害を伝える為に加護さんたちと面会した姉の優香も、私の変装だったの。どう? 全然気づかなかったでしょ?」
「じゃあ……。和也さんが押しかけてきたという話も、ボイスレコーダーで、ストーカー被害の証拠を掴んだって話も──」
自分でも、滑稽だと思うくらいに声が裏返る。
「そう、全部私の虚言であり、演技」
悪びれた様子もない開き直った彼女の声が、私の神経を逆撫でした。
「そんな……! 最初から私達を騙してたんですね……!?」
「まあ、結果的に、そういう話になるのかな。私の姉と加護さんは、一度も顔を会わせてないんだしね」
巧妙な詐欺にでも遭った気分だった。全然見抜けなかった、と強く唇を噛みしめた。
通りで──姉妹双方の寿命が一年になってるとは、随分数奇な巡り合わせだと疑問に感じていたんだ。優香さんと芳香さんは瓜二つだという先入観に囚われていたから、同一人物である可能性を頭から排除してしまってた。
ここまでくると最早認めざるを得ない。私達は最初から、この二人に騙されていたんだ。これは、芳香さんによる明白な裏切り行為。得も言われぬ怒りがふつふつと湧き上がり、口元がわなわなと震えた。
先輩がどんな思いであなたに手を貸そうと決心したのか、人でなしのあなたには分からないでしょうね。
「私達は、本気であなた達姉妹の事を心配していたのに!」
「悪い予感、してるでしょう?」
彼女は問い掛けに答えることなく、
よくよく考えてみれば、これは容易に想像できる展開だった。
先輩との連絡が急に途絶えたこと。
そのタイミングを見透かしたかのような、芳香さんからの呼び出し。
三田姉妹は味方だと信じていたからこそ気の緩みが生じて、大して疑いもせずホイホイおびき出されて、気が付けば相手の手の内、このザマだ。肝心なところで抜けてるんだよな、私は。
でも、一つだけ分からない。
「何の目的で、私達を騙したんですか?」
私の叫びは彼女の耳に届かないと判断し、質問を変えてみた。
「ん~……。それを説明しようと思うと長くなるんだよね。……まあ、詳しい話は彼から直接聞いてよ」
気のない返事をして、芳香さんは椅子に深く座り直した。自分の役目は終えたとばかりにスマホを弄り始めた彼女に代わって、和也さんが私に向き直る。
「まあ、そんなに緊張するな。肩の力を抜いて、ゆっくり話をしようじゃないか」
「先輩に会わせて下さい」
肩の力なんて、抜けるわけないじゃないですか。
「ふむ。確かに今、君にとって一番の感心事は、愛しの先輩の安否、といったところだろう。だが、物事には順番というものがある。もう少々辛抱したまえ」
この瞬間、私は確信する。
もったいぶった話の切り出し方をするということは、チャットアプリの文言通り、先輩の命に別状はないということだ。当然、先輩を人質に取り私を呼び出した事にも、何らかの理由があるはず。ここは下手に刺激しない方がいいと考え、全ての感情を殺して頷いた。
和也さんがふんぞり返ったその時、入り口の方からカチャリと金属質な音が響いた。施錠された? と反射的に顔を向けると、諭すような口調で彼が言った。
「外で見張っている仲間に、施錠させただけだ。そんなに身構えなくてもいい」
外にまで仲間が居るのか。入ってくる時は気付かなかったのに。
つまりこれは、
「袋の鼠、という訳ですか。若しくは、飛んで火に入る夏の虫?」
震え始めた拳を膝の上で握りしめ、精一杯の強がりを述べる。
「その通り」と和也さんが愉快そうに笑う。「今、店の中と外に居るのは、全て俺の仲間達だ。無論、カウンターの奥に居るマスターも含めて、な。間違っても……逃げられるなんて思わないことだ」
和也さんが、カウンターの奥に立つマスターにちらりと視線を送った。
「……生憎ですが、この状況下で逃げられると思うほど、バカでも楽天的でもありません」
「なかなか素直じゃないか。素晴らしい」
満足そうに冷笑を浮かべ、和也さんは指をパチンと鳴らしてマスターの男性を呼びつけた。
「ここから話が少し長くなる。喉が渇くだろうから、飲み物を奢ってやろう。何がいいかな?」
和也さんの声に応じ、テーブルの脇までやって来たマスターを見上げた。こうして改めて見るとよく分かる。痩身とはいえ、上背もあるし比較的筋肉質だ。何か格闘技でもやっていそう。
「ブレンドコーヒーでお願いします」
「豆の配合もある程度リクエストに答えられるのだけど、希望はありますか?」
紙にメモを取りながら、マスターが問い返してくる。
「ブラジルとモカとマンデリンで」
「ほう。香り重視で、酸味を抑えて苦味を出すマンデリンを加える、と。なかなか通じゃないですか。では、コーヒーの香りを際立たせる為に、中煎り (ハイロースト)にしてあげましょう」
マスターは丁重に頭を下げると、カウンターの奥に戻って行った。
一応……抵抗する手段が無いわけじゃない。だが、四面楚歌の状況下では、中途半端な抵抗はかえって状況を悪くする。動くなら相当な覚悟が要るし、チャンスは間違いなく一回のみ。タイミングは、慎重に推し量る必要がある。
ブレンドコーヒーが配膳された。緊張を紛らわすために口をつけようとしたその時、和也さんが右手を差し出してきた。
「なんでしょうか……?」
「スマホ寄こせ。怪しい動きをさせるつもりは無いが、万が一警察に通報されたら困るからな」
「警察に通報されるような事をこれからする、と言っているようなものですね?」
精一杯の皮肉をこめてスマホを差し出すと、「否定はしない」と彼は唇の端を歪めてみせた。スマホを受け取ると、早速画面をタップして確認を始める。
「ロックすらしていないなんて、不用心だねえ。ふむ……発信履歴に妙なところはなし、と。チャットアプリはどうかな? ……ん? 君はところで何年生だ?」
「高一です」
「去年まで中学生ってことか。道理で。『一時間後に、直接きっさてんまで連絡してください』だって? 喫茶店ぐらい漢字で打てよ女子高生。ま、女子高生になり立てのガキんちょじゃしょーがねえか」
警察には連絡を入れてないようだな、と和也さんは満足げに頷いた後、マスターに声を掛けた。
「おい、電話がかかってくるかもしれんから、一応電話線を抜いておけ。それと、スマホの電源切って保管しとけ」
「了解」投げ渡されたスマホを受け取って、マスターが頷いた。
二人の会話を聞きながら思う。そろそろ一時間経つんだな、と。もう少しだ。もう暫くの間、時間を稼ぐ必要がある。意図的に緩慢な動作でコーヒーを啜った。
「さて、それでは本題に入っていこうか」
と和也さんが言った。
「そうだな……取り敢えずは、俺の寿命が見えない
「違うんですか?」
「正しく言えば、その二つも間違いではない。だがもう一つ、『同じ能力を持つ人間』が、寿命が見えない対象として追加される。そちらが真実」
「ちょっと待ってください……。だって、それじゃあ」
俄かには信じ難い話。無意識の内に唇が震える。だって、その話が真実であるなら、和也さんも──。
「その通り。君と同じように、俺も、他人の寿命が見える能力者だ」
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