Part.29『光射す場所②』
あれ……改まって考えてみると、何をするんだろう私達は。
いや待てよ。もしかして先輩は、「ナニしようか?」と言ったんだろうか?
ははは、まさかそんな。先輩に限ってイキナリそんなこと等有り得ない。
勢いで先輩を自室に招き入れたものの、この先のプランなんて何も考えていなかった。
もしも、先輩が
正直に言って、彼が変な気を起こしてくれたなら……凄く嬉しい。
ちょっと待って、一旦落ち着くんだ私。飛躍を始めた不埒な妄想を、
でも、緊張するなという方が無理な話だ。想いを寄せている男の子と自分の部屋で二人きり。このシチュエーションで緊張しない女の子がいるとしたら、その子は既に人間として大切な何かを失っているとしか思えない。思春期の高校生は、自分ではコントロールできない感情のあれこれで、はちきれそうな存在なのだ。
ああっ、意識し始めたら、さっきよりも先輩との距離を近く感じる。
緊張を和らげなくちゃ、と鼻から深く息を吸い込んだ。
よし──ここは一度仕切り直して、自然に会話を繋げる事を念頭に考えよう。そうだ、『取り敢えず、紅茶のお代わりなんてどうでしょう?』なんてどうだろうか。気遣いのできる後輩アピール。よーし……これだ。
「と──」
「なあ、加護」
「ひゃい!?」
驚きから、背筋が伸びて声まで裏返る。
「あはははっ、何でそんなに緊張してるの?」
「な、なんでもないです。考え事をしていただけですよ!」
不埒な妄想ですけどね。思えばいつの間にか、完全に攻守が逆転していた。
「なんだか呼吸も荒くなっているけど、熱でもあるんじゃないのか?」
先輩が私の顔を覗き込んで、額に手を当ててくる。近いです。顔の距離が近いです!
「ほほ、本当に……大丈夫です! 熱なんてありませんから」
両の手のひらを掲げて弁明すると、「そっか」と呟いて彼は額の手を放した。放した手をそのまま口元に持っていくと、辛抱堪らんという風に大きな声で笑った。
「お前って、ほんと、おもしれー女」
無遠慮な笑い声に、憤慨して頬を膨らませた。元を正せば、あなたが鈍感だからです。本当に熱を帯び始めた額を擦りながら、先輩の目をじっと睨んだ。
彼は「おほん」と誤魔化すように咳払いをしたのち、一転してマジメな声で尋ねてきた。
「なあ、加護。前から思ってたことなんだけど。一つだけ、訊いてもいいか?」
「え、ハイ、どうぞ?」
なんだろう、と今度は別の意味で背筋が伸びる。
「加護はさ、どうして俺のことを助けたいって思ったの?」
どうして、か。改めて考えてみると、自分の事なのによく分からない。先輩を助けたい、と純粋にそう願ったのか、それとも、私が背負い続けている罪の十字架をおろすための、偽善に過ぎなかったのか。
「え……なんでですかね。でも、理由なんて必要なんでしょうか? 死が差し迫っている人が目の前に居たら、手を差し伸べようと考えるのは、普通のことなんじゃないですか……?」
悩みながら口にした答えは、どこか違和感混じりだった。自信の無さがそのまま語尾にも現れる。
「いや、そんなことはないと思うぞ」
先輩は思案げに首を傾げると、「うーん、そうだなあ……」と呟き天井を見上げた。
「例えばさ、満員電車の中で、赤ん坊を抱いて立ち乗りしている女性が居たとする。みんな積極的に、席を譲ると思うかい?」
「あ~……それは無いでしょうね。みんな誰かが譲れば良いって牽制し合って、結局は見て見ぬふりをしそうです」
「その通り。もう一つ例を挙げよう。これは、俺が中学生だった時の話になるんだが、当時クラスに、陰湿な虐めに遭っている男子生徒が居た」
「はい」
「実際に彼を虐めていた当事者は、ほんの数人でしかなかった。だが、ソイツらは素行が悪い事で有名な不良の連中。当然の如く、誰も口出しできなかった。クラス中が見て見ぬふりをして、虐められてる生徒を見殺しにしていた。実に情けない話なんだけど、俺もその中の一人でしかなかった」
虐めに遭っていた男子生徒の話が、過去の自分の境遇と重なって聞こえる。他人事と、切り捨てることはできなかった。
「でもそれは……しょうがない事なんじゃないですか? 逆らったら、どんな仕返しをされるか分からないんですし」
私が吹奏楽部で虐めに遭っていた時も、似たような考えで顔を背けていた同級生は居ただろう。触らぬ神に祟りなし、とでもいうべきか。それはある程度止むを得ないことであり、今更咎めようとは思わない。
「まあ確かに、普通はそう思うだろうな」
と彼は自虐的に笑った。
「でも──その虐められてた男子生徒は、実のところ俺の友人だったんだ。卒業式の日、彼に言われたよ。『お前だけは、助けてくれると信じてた』ってね」
さすがに返す言葉を失ってしまう。
元凶はもちろん虐めていた生徒逹であり、先輩やクラスメイトらに罪はない。だが、見て見ぬふりをしたという事実は、後味の悪い記憶として各々の心に残った事だろう。私も前述した通り虐めという境遇の中に居たが、私の場合は明日香ちゃんという良き理解者が居た。だからこそ、身に染みて分かる。手を差し伸べて貰えなかった男子生徒の無念も、手を差し伸べる事ができなかった、先輩の後悔も。
「話を一旦戻す。虐めの話は勿論として、たかが席を立って譲るという些細な好意ですら、勇気が出なくなる。本当は助けたいと思ってるはずなのに、周りに同調して止めてしまう。常日頃、偽善者ぶった発言をしていても、いざその場に居合わせると、物怖じして行動できなくなる。それが……人間ってもんだ」
「確かに……そうでしょうね。他人と違う行動を取ることを恐れるのは、人間の本質でもあり弱さです。ですがそれは──致し方ない部分でもあります」
言いながら、惨めな過去の自分を慰めているようで、益々嫌気が差してくる。
眉間に皺をよせ、「そうだな」と呻くように呟いた先輩の姿が、どこか自分と重なって見えた。
「俺はそんな感じの、臆病者なんだ」先輩が、自嘲気味に笑う。「傷や重荷ってのは、負った本人だけが痛いんじゃない。傍らに居て、それを分かち合う人間も同じように痛いもんだ。俺はアイツの痛みを共に分かち合う覚悟がなかった。でも、加護は違う。俺が来年中に死んでしまう人間だと知りながら、それでも俺の傍らに居る事を選び、手を差し伸べてくれたんだから。やっぱりお前さ、凄いと思うんだ──」
「──臆病者なんかじゃないです」
発言を食い気味に遮った。あれ、どうして私が泣くんだろう。自分の声が酷い涙混じりなのに気がつき、慌てて目元を拭った。
「先輩は臆病者なんかじゃないです。だって、数年経った今でも、昔の事を気にかけているじゃないですか。チャンスさえあれば、その友人に謝りたいと今でも思っているんでしょう?」
「それは、まあ」
「なら、いいじゃないですか。確かに、二人の間には一時影が落ちたかもしれません。それでも先輩は、自分が犯した罪と今でも真摯に向き合っています。きっとまだ、やり直すことだって出来ます。でも……私は違うんですよ」
「加護?」
先輩が、不思議そうな顔で私の名を呼んだ。
「私が目を背けたことで、彼女は死んでしまった。もう、絶対にやり直す事も時間を巻き戻す事もできないんです。それだけの罪を犯したというのに、私は未だ過去のトラウマと中途半端にしか向き合えてない。むしろ臆病者なのは、私の方なんですよ……!」
辛い過去の記憶が、胸を過る。
そう、私は凄くなんかない。
あの日まで私は、逃げてばかりだったから。
他人の寿命と向き合うことを、心のどこかで恐れていたから。
だからこそあの日だって、私は顔を背けて逃げたんだ。
「少し落ち着け。今一つ話が見えない」
困惑した顔で、先輩が私の方を見る。
「なあ、加護。お前が辛くなければだけど、昔何があったのか、詳しく聞かせてくれないか?」
無言で私が頷くと、睫毛の長い黒い瞳と、私の濃紺の瞳が真っ直ぐぶつかった。あまりにも深い黒色に意識ごと吸い込まれそうになって、思わず息を呑んでしまう。
「この間、小学生の時に、自殺した女性を救えなかった話をしたじゃないですか? あれ、実を言うと明日香ちゃんの母親のことなんです」
今度は、彼が息を呑んだ。
「それは、本当の話なの?」
「本当です」と頷いた私の声は、自分でも滑稽に思う程弱々しい。「私達が五年生だった頃、明日香ちゃんの父親が会社をリストラされたんです。それが全ての発端でした。その後彼女の父親は仕事をする意欲を失ってしまい、母親とケンカばかりしてたそうです」
その当時の明日香ちゃんは、普段の天真爛漫振りからは想像も出来ないほどに元気がなかった。傍から見てても酷く塞ぎこんでいて、表情も常に虚ろだった。
「明日香ちゃんも落ち込んでいて、私も中々声をかけられませんでした。その後、父親は飲食店の経営を始めますが、そちらも上手くいかず借金ばかりが膨らんでいきました。両親の関係は溝を深めるばかりで、父親は母親に暴力を振るうようになったそうです。そんな中、起きたんですよ。彼女の母親が自殺する出来事が」
「そうか。そして夢乃の母親の寿命の変化に、加護は事前に気付いてたんだな。近いうちに、母親が命を絶ってしまう可能性に」
「その通りです……。私は救えたかもしれない命に、手を差し伸べなかった。その結果明日香ちゃんの母親は、私の目の前で死んだんです」
暗い感情がせり上がってきて、軽くえずいた。無意識のうちに、視界が強く滲み始めている。
「だからこの日の記憶は、私の中でずっとトラウマになってるんです。私が声を掛ければ、せめて誰かに伝え相談していれば、何か救う方法があったんじゃないかと、ずっと後悔してるんです」
膝の間に顎を挟むようにして俯いた。先輩に、辛い胸の内を洗いざらい吐き出したことで、感情まで溢れそうになっている自分に気が付き、必死に涙を堪えた。
「でも、それでも、時々わからなくなるんですよ。私が今、先輩を助けようとして頑張っていることだって、過去に背負った罪を許し慰める為の代償行為でしかないんじゃないのかと。私は、誰のために頑張ってるのか。自分の為なのか? それとも誰かの為なのか? 自問自答を繰り返してるんです。……ええ、私は全然、凄くなんかないんです」
許容範囲を超えた涙が一筋頬を伝った瞬間、ついに溢れだした感情ごと先輩が私を抱き寄せる。大きな手のひらで私の頭を抱え込み、気が付けば頬は彼の胸元に押し当てられていた。
「せせせ、先輩!?」
彼の首筋辺りから、甘いシャンプーの香りがふわりと湧き立つ。私から漂っているものと、一緒の匂い。
「それでもいい」
「……え?」
「理由なんて、どうでもいい。俺は加護のことを、特別な女の子だと思っているから、そこにどんな打算や偽善が含まれていても構わない。俺の傍らに居てくれるのなら、それだけでいい」
「あの……先輩?」
「そっか、辛かったんだな。でも、あんまり一人で抱え込むな。本来、人の死というものは、不条理に訪れるものなんだ。全ての人を救うなんて、到底無理な話なのだから。だから、あんまり抱え込むな」
「はい」
瞼の裏側が熱を帯びていくばかり。そうか、とこのとき私は気が付いた。私は許して欲しかった。自分の罪を誰かに告白し、よく頑張って耐えたね、と労って欲しかった。
「それでもやっぱり、背負った過去が辛いのならば、加護が抱えている重すぎる十字架を、半分だけ俺にも背負わせてくれないか?」
「それは……どういう……?」
「ああ、ごめん」
先輩は弱ったように一度視線を逸らすと、少しだけ赤味を帯びた頬を指でかいた。
「俺さ、よく窘められるんだ。言ってることが遠回しで理屈っぽいから、何を伝えたいのか分かり辛いってね。だからもう、ストレートに言うわ」
抱き寄せていた私の頭を解放し、正面からしっかり目を合わせてくる。
真一文字に結ばれた薄い唇。真摯な想いを余すところなく伝えてくる切れ長の瞳。彼の全てが、私にだけ向けられている。
「咲夜、好きだ。俺と付き合って下さい」
直後、二筋めの涙が頬を伝うと、そこからは止め処がなくなった。視界が強く滲んで何も見えない。こんなにも嬉しいのに、涙って出るんだ不思議だな。顔が熱い、胸が苦しい、呼吸が出来ない、どうしよう。
彼の問い掛けを受け入れた瞬間、今まで構築してきた関係は全て音を立てて崩れ去り、新たな関係が構築される。それでも私は、彼の特別になりたいと望んだ。
でも――光射す眩しいその場所の景色を、私は未だ知らない。だから差し伸べられた手を握るのが、ほんの少しだけ怖かった。
「本当に……こんな私で……良いんでしょうか?」
温かい光が降り注ぐ空間で待っている彼に、嗚咽混じりの声でたどたどしく言葉を紡いだ。こんなに弱い私でも、支えてくれますか、と伺いを立てた。
「当たり前だろ。俺はずっと前から、咲夜のことが好きだったんだ。本当はもっと早く気付いてくれるかと思ってたんだけど、お前、鈍感なんだもん」
「酷いです。でも、ごめんなさい」
私が笑うと、先輩も笑顔で返してくれた。躊躇いなく差し伸べられた彼の手が、私を暖かい場所へと
「私も、先輩のことが好きです。たぶん……ずっと前から好きでした」
そのとき、二人を繋ぐ架け橋が出来た。弾んだ気持ちを抑えられず、私は軽い足取りで橋を渡って行く。辿り着いたその場所は、とても暖かくて、心が安らぐ空間だった。
目を閉じて、ちょっとだけ顎を上げてみた。
私の唇は、他の人よりほんの少しだけ低い場所にあるから。そして、恋人が出来たらしてみたい、あんな事やそんな事の、最初の一歩を実践してみた。
初めてのキスは、甘くて切なくて、ちょっとだけしょっぱい涙の味。
思いの外柔らかい唇の感触が名残惜しくて、もう一度キスをせがんだ。
先輩が私の要求に応える。優しくて穏やかで、しっかりと彼の熱が伝わってくるようなそんな口づけ。
彼の背中に指先を這わせると、ごく自然に抱き合う恰好になった。
さっきからずっと、胸の音ばっかりうるさく聞こえる。
身体の中心が、もの凄く熱い。
だって、本当はこうされたかった。もっとずっと前から……抱きしめて欲しかった。
彼の手がうなじのあたりを撫でると、触れただけだというのに疼くような感覚が走り全身が震えた。
過敏な反応に驚いたのか、「ごめん、嫌だったよね?」なんて不安そうに尋ねてくる彼。私は、軽く首を横に振る。
「大丈夫。ちょっとだけ恥ずかしいですけど平気ですっ……て、あははっ、くすぐったいから話してる途中で指を動かさないで下さい!」
耳たぶまで熱くなっている。そんなことを意識しながら抗議すると、彼は「ごめん」ともう一度耳元で囁いた。
ただゆっくりと、彼の体温の中に身を委ねていった。あたたかくて心が安らいでいくようで、今まで伝えられなかった想いを交わし合うように口づけを何度もした。優しく触れてくる彼の手のひらから伝わる熱と刺激に、心がゆっくりと溶かされていく。
ぼんやりとして、凄く気持ちよくて、頭の中は親密な気分で満たされていて。私は、あたたかくて心地良いその場所に、夢中で顔を埋めていた。
先輩の腕に抱かれながら、不意に彼の寿命が視界に入った。本能の赴くまま手を伸ばすと、慈しむように触れてみる。すると次の瞬間まるで雪崩のように、様々な光景が頭の中に映像となって押し寄せてきた。
晴天の屋上で、叫び声を上げる私。
放課後の部室。茜色の光に包まれて、胸元のリボンを落ち着きなく弄っている私。
三つ並んだパフェを見つめて、呆れたように肩を竦める私。
雨の中ずぶ濡れになって、青い下着がクッキリと透けて見えている私。
今年私が見てきた光景が、まるで走馬燈のように去来した。
「きゃあっ」
短く悲鳴を上げて手を引っ込めると、瞬時に映像は途切れて消えた。彼は私を一旦解放すると、心配そうな顔で見下ろしてくる。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです……」
絨毯の上に仰向けになったまま答える。なんだったんだろうか、今の。
顔赤くなってないかな。唐突にこみあげてくる羞恥心に、顔を背けたまま頭上の先輩を抱き寄せた。ごく自然な動作で再び寿命に触れてみたけれど、先程の光景は、もう再現されなかった。
もし、二人の想いが繋がったことで彼の心が流れ込んできたのなら、こんなに嬉しいことはない。今既視感のように見えたものは、全て私の姿だったのだから。流石に妄想が過ぎるだろうか。それでも今は、この甘美な余韻に浸ることを自分に許そうと思う。
先輩の体をぎゅっと抱きしめながら、私は改めて誓いを立てる。彼の寿命を、絶対に本来あるべき数字に戻してあげるんだ。私が先輩を護るんだ、と。
窓を隔てても聞こえていた雨の音は、何時の間にかしなくなっていた。そうか、雨、止んじゃったんだな、と私は思った。
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