Part.23『眼鏡』
湯船から立ち昇る湯気が浴室の
私は、お風呂に浸かっている時間を好む。
自分の身分を示すものを一切付けていない、裸一貫の状態。暖かいお湯に浸かっている間は、普段の生活の中にある上下関係も、対人関係におけるしがらみも、日々感じている様々なストレスも、全てを忘れ温まることで肉体的にも精神的にも癒されるからだ。
但し今日ばかりは、いつもと勝手が違っていた。湯気で白く煙った浴室と同じように、霞がかった頭で絶え間なく考え事を続けていた。
お湯から手をだしてみると、ちゃぷんと音を立てた。そっと手のひらで、顔を覆ってみる。
今日の放課後、未来さんに言われた台詞の数々が、代わる代わる頭の中を駆け巡っていた。
なんとなく、予兆のようなものはあった。予測していないわけでもなかった。けれど、自分に対して強い感情として向けられる覚悟は、きっとできていなかった。
未来さんは今泉先輩のことが好き──私は、彼に対して特別な感情を抱いていない──ならば、答えは実にシンプルだといえる。私が先輩の元から身を引いて、距離を置くべきなのは
だがしかし、ここで別の問題が浮上してくる。
ならば──誰が今泉先輩を助けるの?
彼を救う為に、傍らに居続けたいと私は願っている。
ここで、思考は振り出しに戻る。
そもそも、身を引くとは何なのか。言葉の意味を直訳すると、恋愛事で相手や自分を傷付けないために距離を置くことだ。
だが、未来さんに気遣い私が距離を置くことで、目の行き届かない時間帯が増えた結果、先輩が危険に晒される瞬間に立ち会えなくなったとしたらどうなの?
想像してみた。
そんなのは嫌だ。先輩が死んだら、私は嫌なんだ。
私なりに一生懸命ここまで頑張ってきたんだ。今更彼の元を離れて、今日までの努力を無駄にするのなんて耐えられない。
私は──身を引くべきだ、と結論を与えつつも、どこか釈然としない思いに苛まれていた。
お湯から上がると、湯気で曇った鏡を擦って綺麗にした。そのまま鏡の正面に立ち、自分の裸身を晒してみる。
胸の膨らみは控えめだし、腰にかけてのくびれもさり気無いもんだ。身長だって全国平均より低いのだから、スタイルでは到底未来さんに敵わない。女性としてあるべき魅力で負けていることを自覚すると、嫉妬と羨望に満ちた感情に駆られた。
「……なに考えてんだ」
思わず頭を抱えてしまう。問題は、そんな事じゃないというのに。
胸が大きいから。ウエストが細いから。瞳が綺麗な二重瞼だから。容姿、体型を勝ち負けの定義として捉えている時点で、子供染みた発想だ。
つまるところ私は、先輩の運命を変え助けたいという点では揺るぎないものの、自分を後押ししている動機や感情の整理ができなくなっている。降ってわいた新事実により、やるべきことの優先順位が揺らぎ決められなくなっている。
『でも、彼の事。ちょっとくらいは、気になっているんでしょう?』
未来さんに言われた台詞を思い出した。
先輩は、寿命幾ばくもない人なのだから、気にかけている事は紛れも無い事実。事実なんだけれども、私に恋愛感情が存在していないから、話がややこしくなっている。
でも、もしかしたら、先輩は私のことを……? そんな自惚れた考えが一瞬脳裏を掠めるが、
ともあれ、未来さんの頼み事を無下にするのも心苦しい。当分の間、二人で帰宅するのだけは控えよう。
その後のことは、行く行く考えていけばいいだろう。そう結論を与え再び鏡を覗き込んだ時、一つの違和感に気がついた。
「あれ──?」
目を凝らし、もう一度確認をして、微細な違和感の正体に思い至る。
* * *
結局、一度出したはずの結論も上手く受け止められぬまま、朝を迎える。最早言うまでもなく、寝不足である。
眠い目を擦りながら玄関口を出た私は、マンションの外部廊下から空を見上げて愚痴を零した。
「なんだ、雨なの……」
マンションのエントランスを出ると、赤い傘を開いて歩き始める。
天候と同じように湿気を帯びた感情が、重石のようになって心中に沈んでいく。嫌だなあ、今日は部活に顔を出したくない気分だった。とはいえ、文化祭に向けての執筆も遅れがちな私に、休むという選択肢は存在しない。気まずいけれども、重い身体に鞭打って向かうしかないだろう。
げんなりして肩を落としそうになったその時、背中の方から
「おはよう咲夜!」
「おはよう明日香ちゃん」
口々に挨拶を交わし、振り向いた私の姿に彼女は驚いた。目をまん丸に見開き驚いていた。
「咲夜……。何時の間に眼鏡なんて」
昨晩お風呂に入っているとき感じた違和感こそが、視力低下。そこで今日から、オーバルタイプの赤ぶち眼鏡を掛けて登校したのだ。わりと自己主張の強いデザインなので、パっと見での変化も大きい。
「どうも最近、視力が落ちちゃったみたいでね。思い切って今日から掛けてみたよ。……変かな?」
「いや、変じゃないよ。結構カワイイかも。でも、そんなに視力落ちてるの?」
彼女は軽やかにステップを刻んで周囲をくるくる回ると、色んな角度から私の顔を覗きこむ。唇が触れそう顔近すぎるし恥ずかしいです、明日香ちゃん。
「たぶん両目で0.5~0.6くらいかな。実を言うと前々から視力低下は自覚してて、家では時々眼鏡掛けてたんだ。私、コンタクト嫌いだからね。あの目に異物が入る感覚が、どうしても許せないんだ」
「コンタクト、苦手?」
明日香ちゃんは目を丸くすると、眼鏡に鼻先が触れそうな程顔を寄せてくる。
「だね。目薬も自分で注せないくらいだし」とボヤくと、「小学生じゃないんだから……」と彼女は呆れ顔になる。
それでも、直ぐ笑顔に変わると、「うん。でもやっぱり赤ぶちだよね!」と自分のことのように、嬉しそうに笑った。
学校に到着して校門を潜った辺りで、二年生の男子生徒にも声を掛けられる。
「あれ、君、いつの間に眼鏡かけたの?」
「おはようございます。今日からですよ」
誰だっけ? ──と記憶の糸を手繰り寄せて、先日二年生の教室に出向いた時、声掛けをしてくれた先輩だと気がついた。
「似合ってるじゃん、なかなか良いよ。なんか今泉の奴が好きそうだ」
彼の言葉に、またか、と溜め息を落としそうになる。
「ですから……私たちは付き合っていません。誤解ですから、これ以上変な噂を広めないで下さいね」
「そうなの? この間今泉にそれとなく訊いてみたけど、別に否定はしてなかったよ?」
「でも、肯定もしてなかったんでしょう?」
まあね、と答える彼の声を聞きながら、今度こそ間違いなく溜め息が漏れた。
それにしても……今泉先輩は否定していないのか。噂が広まっている元凶は、彼本人なんじゃなかろうか?
その後も、昇降口で出会った名前も知らない同級生に。教室に入ると口をきいた事も無いクラスメイトに。挙句の果てには担任教師にまで同じ質問をされて、その度に「視力が落ちた」ことを説明する羽目に陥った。
こんな陰気で目立たない女生徒なんて、放っておいて欲しいもんだと、内心で愚痴をこぼしながらも。
そんな中、毎日騒々しい佐藤亜矢は「加護ちゃん、今日からメガネっ子か!?」と大袈裟な反応をみせた。
はいはい、と思った。「そうか。彼の好きな属性は、眼鏡女子なのか。メガネをかけた外見だと誰しもマジメそうに見えるから、そんな加護ちゃんが一転して甘えてきた時のギャップ。そして、何かを期待してメガネ武装を解除するときの仕草! 普段はメガネをかけた真面目そうな、いや、いっそ本当にマジメな女の子が夜な夜な違う顔を見せる時の破壊力ときたら辛抱堪らんのも頷ける。故に、敢えてコンタクトという無難な選択肢を捨て去り、メガネ武装を促す先輩の気持ちも……ちょっと、何処行くの? まだ話の途中なんだけど~……」
リアクションしたら負け。リアクションしたら負けだ。私は他人の話を聞き流すスキルを発動した。
そうこうしているうちに放課後になる。さて、部活でも行きますかね……。
「お疲れ様です」
部室に入るなり部長は私の顔、もとい、眼鏡に目を向け瞳、もとい、眼鏡の奥を光らせた。
「ほほう。今日から加護君も、僕の仲間だな!」
「違います」
私は全力で否定した。
およよ、と部長が泣き崩れた。
やれやれ……私の本体は眼鏡ですか。嘆息しながら席に着くや否や、今度は今泉先輩が話しかけてくる。
「加護、お前いつから眼鏡っ子になったの」
「今日からです。視力が落ちました。眼鏡かけました。ハイ、終わり」
「なんだよ、その冷たいリアクション……」
「何度も同じ質問をされて、ほとほと疲れ果てました。それだけです」
──それにしても。
今日ほど隣の席が未来さんじゃなくて良かったと思うことは無い。昨日の今日では、顔を合わせるだけでも気まずいし、ましてや話なんて出来るはずもありません。
こんな時、意外にも眼鏡の存在を頼もしく感じる。たかが薄いレンズ一枚とはいえ、他人が向けてくる様々な悪意から、身を護る効果があるのではなかろうか?
『加護咲夜の精神耐性が+2された!』
そんな感じの気分だった。
耐性アップの為に、色付きレンズにしちゃおうか?
流石に、生徒指導案件だろうか?
案の定……まったく集中できません。
部長はよくわかんないけど書いた詩をずらっと並べて唸ってる。たぶん、どれを掲示する作品にするのか選定に入っているのだろう。むしろ取捨択一できる状況なのに嫉妬を覚えます。未来さんや今泉先輩の進捗状況はわからないけど、手は動いてるしきっと調子は良いんだろう。
あの……と言ったら失礼だけど、明日香ちゃんですら最近は無言で画面と睨めっこをしている。もちろん手もそれとなく動いているので、自分なりのイメージで物語は書けているんだろう。
どう見ても調子が悪いのは、物憂げに窓の外に視線を投げている私だけですよっと。……流石に笑えないわ。
結局、殆ど執筆が進まないまま一日が終る。
「なんだか顔色悪いけど、大丈夫か?」
聞こえてきたのは、気遣うような先輩の声。そんなに私の顔色は悪いんですかね。
「うん、ちょっと寝不足かもしんないです」
適当に答えておいた。半分嘘で、半分本当。
「──じゃあ、帰ろうか」と先輩が声をかけてくるが「すいません。今日もこれから用事あるんで、お先に失礼します」と嘘をでっち上げて席を立った。
鞄を手に持ち背を向けると、「そっか」という先輩の沈んだ声が追いかけてくる。私は聞こえない振りをして、そそくさと部室を後にした。
何時までも隠し切れないだろうなあ、と嘆息をしながら靴を履き替え生徒用玄関から外に出る。丁度その時、チャットアプリの着信音が鳴った。
京 【用事があるって話、嘘だろ? 顔に出てるから分かるよ】
先輩の癖に鋭いな。思わず苦い顔になる。
咲夜 【ごめんなさい。実はちょっと色々事情がありまして。暫くの間、一緒に帰れなくなりました】
情報ぼやかし過ぎ。これじゃ何も言ってないのと同じだな。益々苦い顔になる。
京 【そうなんだ? 残念だなあ。俺さ、加護と一緒に帰るの、楽しみにしてたのに】
咲夜 【そんなお世辞を言っても、なびかないですよ】
京 【何で! なびいてよ!】
もう、この人は……何処までが本気か分からないから、今一つ反応に困るな。
京 【何か、言われたんでしょ?】
心臓がどくんと跳ねた。全部お見通しなの? と焦燥が募るが、誘導尋問の可能性もあるのでシラを切っておく。
咲夜 【なんのことですか?】
ところが。
京 【未来でしょ?】
──え!? 何でわかるんだろう、と感じた私の疑問は、彼の次の一言で払拭され、同時に思考が凍り付くことになった。
京 【俺去年の冬まで、アイツと付き合ってたから】
驚きで、スマホを落としそうになった。
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