Part.20『緊迫』
山頂公園から三枝子さんのアパートまでは、自転車でおよそ十分。目一杯スピードを上げながら、それでも行き違いにだけはならぬよう、歩道を行き交う人の姿を注視しながら進んだ。
アパートに着くころには、額にじんわりと汗をかいていた。キキっと音がする程乱暴に自転車を止め、高橋家の前まで走ったところで一旦足が止まる。
高橋家の部屋の扉が、少しだけ開いていた。
高橋さん親子は施錠した上で部屋を出た、と明日香ちゃんは言っていた。それなのに扉が開いているということは、何らかの用事があって一度家に戻った。あるいは、
──別の誰かが中に居る。
隙間から耳を澄ませてみるが、声や物音は聞こえなかった。怖い。怖くてたまらない。でも、迷ってる暇なんかない。今日、高橋さん親子に死が訪れる運命だとしたら、私がどうにかしなくちゃ……!
ノブに手をかけ静かに扉を引き開けると、直ぐにリビングに立っている男性の背中が見えた。
半開きになった擦りガラスの引き戸の向こう側。ワイシャツにジーンズという服装の男。そしてその向こう、リビングの中央に倒れている女性は──高橋三枝子さんだ。
予想に反して男が居たという事実に、恐怖が強くなり足がガクガクと震え始める。スマホをマナーモードに変更すると、先輩と明日香ちゃんに状況説明のメッセージを送った。
既に死んでいるのだろうか。戦慄を覚えながら三枝子さんの様子を窺うと、気を失ってるのか顔を伏せてこそいたが、彼女の寿命は見えた。つまり、まだ息はあるという事なのだけれど、安堵してる訳にもいかなかった。何故ならば彼女の寿命、背景が透けて見えそうな程、色味を失い明滅していたのだから。
間違いない。今、この瞬間こそが彼女の最後の時。三枝子さんはこの男性に殺されるんだ。
躊躇している暇は無いが、音を立ててもいけない。ドアは開けたままでゆっくりと靴を脱ぐと、足音を殺しすり足でリビングに向かって廊下を進む。
呼吸が苦しい。
恐怖で心臓が飛び出しそうだ。
男性は身動きひとつせずに立ち尽くしている。
じりじりと壁際を移動すると、男性の脇を通り抜けてリビングの真ん中まで進み、倒れてる三枝子さんの傍らに
近くに祖母の姿はなかった。今は別室に居るのだろうか。
多少争った形跡がある、と散らかったリビングの様子を見ながら、三枝子さんの肩を揺すって声を掛けた。
「三枝子さん。大丈夫ですか?」
そこでようやく彼女の瞼は開き、顔を上げた。
「……あなたは?」
それは酷くかすれた声で。でも、彼女が普通に反応できる状態だったと安堵する。背中にそっと手を触れると、彼女の身体は小刻みに震えてこそいたが、頬に殴られたのか痣がある程度で目だった外傷はなさそうだ。
「大丈夫ですよ」とだけ声を掛け、男性の顔を見上げる。「中村さん……ですよね?」
勇気を振り絞って頭に浮かんだ推論を述べると、彼は答えることなく私の方に胡乱な瞳を向けた。
「お前……誰?」
「あなた達の娘、梓さんの友人です。三枝子さんに……何をしたんですか?」
精神が錯乱している可能性がある。イタズラに刺激しないよう、穏やかな声で尋ねた。しかし彼はふっと不敵な笑みを零しただけで、興味を失ったように私から視線を外した。
動かないなら、今のうちかもしれない。
「一旦、外に出ましょう」
声を掛け三枝子さんを抱き起こそうとした時、突然、彼が呟いた。
「どうしてだよ」
地を這うような声に驚き顔を上げると、今度はしっかりと目が合った。彼の瞳に強い狂気が宿っているのに
リビングの窓から射しこむ光を反射して輝いたそれは──包丁。
「ヒッ」
全身が粟立つ感覚。反射的に、抱き起こそうとしていた三枝子さんから手を離した。
同時に私の体もガタガタと震え始める。先に通報しておくべきだったと後悔するも時すでに遅し。わき上がる恐怖を必死に押し留めて、男の顔を見返した。
「元を正せば、お前が全部悪いんだろう? 他所に男を作って、家庭を滅茶苦茶にしたのはお前の方だろう?」
中村さんは可笑しくて堪らない、というように笑った。向けられた暗く濁った瞳には、強い憎悪と絶望の色が浮かんで見えた。
恐らく、押しかけて来た中村さんと話をする為一旦自宅に戻ったものの、何らかの理由で話が拗れてカッとなり、彼が台所から包丁を持ち出したという所だろうか。なんて──冷静に分析してる場合でもないが。さて、どうしよう。
「たとえそうだったとしても、もう済んだことでしょう? 暴力では何も解決しません。娘さんが悲しむだけです」
必死に搾り出した声はしかし、中村さんの耳には届かないようだ。ゆっくりと包丁を持ち上げると、切っ先を私達の方に向けた。
「……それなのに、何が今度は娘を寄こせだ。虫が良すぎるんだよお前の言っている事は。俺の人生を滅茶苦茶にした挙句、今度は梓まで奪っていく算段なのか? そうやって、全部俺のところから奪っていくつもりなんだろう!?」
ダメだ。全然話がかみ合わない。それにしても娘を寄こせ、とはなんなのか? 言葉の意味が分からず困惑していると、ここまで押し黙っていた三枝子さんが声を張った。
「そんなつもりじゃありません。だからお金も準備しているしちゃんと話し合った上で決めましょう、と言っているじゃないですか。梓は──たった一人の私の娘なんです!」
「そんなもん、俺だって同じことだ。たとえ血が繋がっていなくても、梓は俺の娘でもあるんだよ。滅茶苦茶にしておいて、いまさら母親面するんじゃねぇよ!」
血が繋がってない?
頭の中に浮かんだ疑問を取り敢えず飲み干して、興奮しだした彼の声に三枝子さんを抱きしめる。
「帰ってください」
動揺を隠してなんとか口にするけれど、やはり彼の耳には届かない。
「……死ねよ。お前の存在その物が、俺の人生を滅茶苦茶にしてるんだよ」
「ここは一度帰ってください。娘さんの事なら、後でゆっくりと落ち着いてお話しましょう。ね?」
「……おい女……お前も俺を責めるのかよ? みんなで寄ってたかって俺を責めるのかよ!?」
被害妄想にとらわれている。そう思えるほどに、彼の瞳に宿る狂気は強い。
「違います。誰もあなたを責めてなどいません。三枝子さんはただ、娘さんを愛しているだけです。だから──」
「嘘だ!!」
響きわたった怒声が、部屋中の空気を震わせる。咄嗟に、両手を広げて三枝子さんを庇った。
「嘘じゃありません!」「ごめんなさい!」
私と三枝子さんの叫びが同時に響いた。しかし、中村さんの動きは止まらない。
「お前も、母親も、みんな纏めて死んでくれよ!」
ゆっくりと中村さんは私の方ににじり寄ると、手に持った包丁を振り上げた。
一切の音が消え去ったような世界の中、振り上げられた包丁の切っ先が鈍い輝きを放つ。
「あ……」
一瞬ののちに、自らの結末を想像した。
全身の毛穴が開く。背中を冷たい汗が伝う。手足が小刻みに震えるのを意識しながら、それでも必死に両手を広げて三枝子さんを背中に庇った。襲ってくるであろう痛みに備えて目を瞑ったとき、耳をつんざくような女性の叫び声があがった。
「お父さん、ダメェェェェーーーー!!」
同時に響いた騒々しい足音に目を開けると、包丁を振り
黒いワンピースの裾を乱し、慌てて駆け込んで来たのか靴を履いたままの彼女は、手に凶器を持った父親を、それでも怯むことなく両手で抱きしめていた。
「ごめんなさい。お父さん! お母さん! 全部あたしが悪いの! 二人が離婚に至ったとき、お母さんがどれだけ追い詰められていたか知ろうとしなかったから。だからお母さんを苦しめた」
長い髪を振り乱し、未だ身じろぎする父親を、それでもギュっと抱きしめる。
「そして今度は、あたしの独断でお母さんと会ったりしたから、お父さんまで不快にさせた。全て元凶はあたしなの。……全部、あたしが悪いんだよ!」
「うう、梓……」
中村さんの低い嘆きと共に、カシャーンと音を立てて包丁が床に落ちた。私は痺れる両脚を叱咤して這うように移動すると、包丁を拾って回収した。
「梓……どうしてここに」
三枝子さんの声に、ようやく両腕の力を緩めた梓さんが答える。
「ごめんね、お母さん。そもそもの発端は、あたしの我が儘にあるの。せめて一言、『お母さんに会わせて欲しい』とお父さんに相談してからお母さんに連絡していれば、こんなに話は拗れなかったのにね」
「……」
三枝子さんは無言で首を振った。
「あたしがお母さんと会うことで、鎮火していたはずの問題が、二人の間で
「梓……、知ってたの!?」
三枝子さんが喉を鳴らす音が聞こえた。梓さんはコクリと首を縦に揺らした。
「血液型による親子判定で、不一致がでた時に気が付いた。あたしとお父さんの血が繋がっていない事実には」
彼女の言葉に、中村さんは神妙な顔で唇を噛みうなだれた。
「いったい、どういうことなんですか?」
私の質問の後に続いた梓さんの説明で、全てが腑に落ちた。
梓さんの本当の父親は、彼女が物心つく前に不幸な交通事故で亡くなっていた。三枝子さんはその後中村さんと再婚をしたが、本当の父親が亡くなっている事実を、梓さんに伝えなかった。たとえ血が繋がっていなくても、本当の娘と変わらぬ愛を注ぎ育てる、という彼の決心のもと。
表向き大きな問題のない中村家の生活だったが、それでも順風満帆とはいかなかった。
中村さんの浪費癖に、家庭内暴力。それらが引き金となって起こった三枝子さんの不貞。様々な問題が絡み合って離婚に至ったのは、私の推測通り。離婚の直接的原因が母親の不貞にあると恨んだ梓さんは、何の疑いも持たずに父親に付いていくことを決める。
しかし、のちに血液検査をして真実に気が付くと、母親に会いたいという衝動が抑えられなくなっていく。そして、母親とした密会がきっかけとなり親権問題が再燃すると、娘を奪われる恐怖から中村さんは疑心暗鬼を募らせる。こうして、元夫婦の間でどんどん話が拗れ始めた。
「本来私は、梓に会えただけで満足しなくてはならなかったのに、親権まで欲しいと主張したものだから、全てがおかしくなり始めた」
母親の懺悔に、今度は梓さんが首を振る。
「そんなことない、嬉しかったよ。むしろあたしの方こそゴメンね。自分から会いたいと言い出しておきながら、その後冷たい態度を取ってしまって」
「梓……」
父親を気遣いながらも、唯一の肉親に寄り添いたかった娘と。どんなに形は歪でも、娘のことを護りたかった父親と。ただ純粋に、娘を手元に置きたいと欲した母親。
どんなに皮肉な結果を生んだとしても、其々が家族のことを思って行動していたのは事実なんだ。
「本当はね、今日も来ないつもりだった。あたし達の密会を知った時、お父さんは凄く辛そうな顔で、あたしのことを怒鳴ったから。だから、もう二度とお母さんと会わない方がいいだろうと思った。お母さんの事を忘れるため、心を押し殺して冷たい態度に徹した。でも──」
声を詰まらせた梓さんを見て、彼女が両親の間で板ばさみになりずっと苦悩していたことを悟る。本心を語れないからこそ、私と接触したあの日も、母親の呼び方が不安定だったんだ。
梓さんは、自身の足元に蹲っている父親に目を向け、次に私の方を見た。
「そこにいる加護さんに言われたの。お母さんは自殺を考えてるかもしれない。だから、力を貸して欲しいってね。まさか、と思った。有り得ないって笑った。でも、一度気になり始めたら、頭から離れなくなったの」
「あ、でも……、よくここに私が居るって分かりましたね? 私は山頂公園に来て欲しい、としか伝えていないのに」
そう。私は梓さんと連絡先の交換を一切していない。実に浅はかだったと今ごろになって思う。
「今泉君、という男の子から電話がかかってきて、アパートに行け、と言われたの。最初びっくりしちゃったけど、来てみてよかった」
彼女の返答で腹落ちする。梓さんの情報を調べていく過程で、直接の連絡手段まで先輩は確保してたんだ。弱りましたね。これでは明日から頭が上がりません。
「ごめんね、お父さん。あたしの身勝手で苦しめてしまって。これ以上にお母さんと会ったらお父さんは益々辛い顔をするって分かっていたから、今日も来ないつもりだったんだよ?」
床に手をついて泣き始めた父親を軽く抱きしめた後、梓さんは立ち上がってこちらに向き直った。
「ありがとう、加護さん。あたしに一歩踏み出すための勇気をくれて。あたしがもう少し逡巡していたら、取り返しのつかない事態になるところだった。──ねえ、お母さん」
梓さんの視線が、私から三枝子さんに移る。
「本当に死のうと考えてたの? もしそうだったなら……そんなのダメだよ。死んじゃったら何も残らないじゃん。死んじゃったらあたし、お母さんに会えなくなるじゃん。会いたいって言い出しておきながら、後々態度を豹変させたのは確かにあたし。でも、あんなの本心じゃない。あたしはずっと──いつもいつも」
必死に捲し立てる梓さんの傍らに三枝子さんが立つ。両手を背中に回すと、ゆっくりとした動作で抱き寄せた。
「ごめんなさい。娘をこんなに泣かせてしまうなんて、私は母親失格ね。そうね、もしかすると、梓の言う通りなのかもね。私は自分のせいで離婚に至ったこと。結果として、梓の親権を手放したことを酷く後悔していた。でも、そんななか、あなたが私に会いたいと言ってくれたこと、本当は凄く嬉しかったの。それなのに、会うだけでは飽き足らず、自分の我が儘を通そうとして話が拗れてしまって……。娘に会いたくても会えない日々。日に日に、私の顔を忘れていく母親。塞ぎこむ毎日に疲れて、命を絶とうと考えた事も確かにあったわ。……本当に、恥ずかしい母親。許してね、梓」
しっかりと抱き合う親子の様子を見ながら、三枝子さんの頭上にそっと目を向ける。──うん。年数は公表しないでおくけれど、少なくとも一年ではなくなった。
私の役目も終わりだな、と立ち上がりかけたその時、パトカーのサイレンの音が聞こえてくる。たぶん、先輩か明日香ちゃんのどちらかが、気を回して通報してくれたのだろう。少しばかり遅かったけれど、これで良かったのかな、とすら私は思う。
こうして、高橋家に纏わる一連の騒動は幕を下ろす。
ちょっとした気持ちのすれ違いから起こった、不幸な事件。本当に大変なのは、もしかするとこれからかもしれない。
でも、お互いに気持ちをぶつけ合い痛みを分かち合った今、きっと彼らは何らかの解決策を見つけて前を向けるはず。
思えば散々振り回されて、散々悩んで西に東に奔走し、情報収集を繰り返しては神経をすり減らして、挙句の果てには危うく殺されかけた。それなのに、不思議だな。
清々しい、気分だ。
だから私も頑張ろう。自分の罪と向き合い絶対に先輩を助けよう。
私の覚悟はきっと、届く。だって、私はもう、ひとりぼっちじゃないのだから。
梓さんに頭を下げると、駆け込んできた警察官と入れ違いにアパートを後にする。自転車に跨ろうと思ったその時「咲夜」と仲間たちの呼ぶ声が聞こえた。
「はい、大丈夫ですよ」と、私は答えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます